しゅん、しゅん、と薪ストーブの上にのったケトルから白い蒸気がリズミカルに噴き出している。 湯気に曇った嵌め殺しの硝子窓は、外の雪景色をぼんやり滲ませていた。 ここは狭い部屋だ。 その部屋の壁は全て本棚で埋め尽くされていて、その中に無理やり押し込んだような扉が二つと大きなデスクがあり。 その真ん中には大きなソファがあるが、残りの空いた空間には足の踏み場が無い程に本が詰まれている。 まるで本の森だ。 真ん中に置かれたソファの上に出来た毛布の小山から、たらりと靴を履いたままの足が飛びでているがまるで死体のようにぴくりとも動かない。 薪の爆ぜる音、ケトルのあげる小さな音。それ以外に音が存在しない静かで穏やかな空間を、どんどんと扉を強く叩く音がその平穏を破る。 どん どん。 乱暴なほどに大きな音だが、全く気にならないのか毛布の塊はぴくりとも反応しない。 どん どん どん。 「まいったのぉ…」 ノックが止んで、外から困り切った老人の声が上がった。 その声に、毛布からはみ出た足先がぴくりと動く。 「のぅ、マリー。また寝ておるのか? ワシじゃ、アルバス・ダンブルドアじゃ。面倒がらずに出て来てくれんかね?」 呼びかける声にもぞりと毛布の塊がわずかに起き上がった。 「ダン…ブルド、ア…先生……」 まるで寝言の様に住人がそう呻くと、毛布が一際大きく動く。 ソファから飛び出た足を床につけると、住人はのっそりと起き上がった。 たった一つの碧眼が、眠そうに扉の方へと向けられる。 鳥の巣の様に絡まった黒い寝癖を手ぐしで撫で付けながら、住人は寝起きて掠れた声を上げた。 「鍵はありません、どうぞ。 かなり狭いですが、先生一人なら入れるでしょう」 「おぉ、おはようマリー。相変わらず君の部屋は本の森じゃのう。 面白い本があったらワシにも教えて欲しいものじゃ」 そう言って狭いこの部屋に訪れた、紫色のマントを羽織った老人──アルバス・ダンブルドアはにっこりと笑った。 淡いブルーの眼が、半月形のメガネの奥できらきらと輝いている。 相変わらず子供っぽい眼をしているな、と住人は目を細めて笑い立ち上がった。 マリーは指先を振り扉の前の前を埋め尽くしている本を魔法の力で動かしながら、その下から椅子を一脚掘り当てると埃を払ってからソファの対面の位置に作った空間に置いてダンブルドアへと勧める。 「近頃なら、『グリンゴッツの業』が素敵でしたね」 「やっぱりそうか、ワシもそう思う」 椅子に座りながらダンブルドアはうんうんと、納得した様に頷いた。 ケトルが置かれた薪ストーブまでの道のりを開拓しながら、マリーは床に転がっていた茶葉の缶を広い上げた。 「紅茶で宜しいですか?」 「今日はミルクティの気分でな」 「もちろんミルクたっぷりで?」 「マリーはよくわかっとる」 嬉しそうに笑うダンブルドアに、マリーは薄く口許を歪めた。 ポットにカバーを掛けて蒸らす間、本棚の空いたスペースに置かれている白磁のティーセットを用意する住人の背中をじっと見つめていたダンブルドアがゆっくりと口を開いた。 「もうすぐ、新学期が始まる時期じゃの」 「そうですね」 カップにたっぷりのミルクを注ぎながら、ぼんやりとした声色で応えてマリーは頷いた。 「今年はついに、あの子もホグワーツに入学する年になった。 10年……月日が経つのはなんとも早いものじゃな」 「……そうですか、もう…あの子は11歳になりましたか」 小さい小窓に見える景色のずっと遠くを見つめて、マリーはひどく穏やかに独り言のように呟く。 淹れたてのミルクティをダンブルドアに渡し、マリーは毛布を端に除けてからソファに腰を下ろした。 その拍子にどこに埋まっていたのか、ソファから本が数冊転がり落ちる。その本はふわりと浮かぶと、するすると側の本の山の上へと乗せられた。 ダンブルドアは一口、ミルクティに口をつけてから、ようやくこの部屋にやって来た理由を口にした。 「一つ、君に頼みたいことがあるのだが」 「はい、ダンブルドア先生。私が出来る事ならば」 マリーは内容を聞くまでもなくそう応える。 恩師であり、恩人でもあるかの人のためであればマリーはなんでもするつもりだった。 「マリー、君にホグワーツに来て貰いたい。もちろん、教授としてじゃ」 思ってもいない話にさすがにマリーは思わず息を詰めた。 ダンブルドアはゆっくりと言葉を続ける。 「実は……闇の魔術に対する防衛術を教えているクィレル教授を知っておるかな?」 「えぇ…面識はあります。交流がある、というほどではありませんが」 ダンブルドアは少し困った様な表情で豊かな髭を撫ぜながら「それがのぉ」と呟いた。 「その彼が昨年実地の経験を積むために一年間の休暇をとったのだが、相当に可哀相な目にあったらしい。 戻って来たら随分と気がまいってしまった様なんじゃ」 「……その人の代わりに、私が?」 「少し休みを取らせるのもよいかと思ってのう」 しばしの思惟ののちマリーは首を横にゆるく振った。 「ありがたいお話ですが、いきなり教授の地位は重過ぎます。 ホグワーツに行くのは構いませんが……出来て、先生方のお手伝い程度ではないでしょうかね?」 「そうか…いや、それじゃ!」 マリーの答えに一瞬、暗い表情を見せたがすぐにダンブルドアは何か思いついたのか目を輝かせた。 「はい?」 「手伝い、教授の助手なんかどうじゃ? 近頃の教授の中には多忙な方もおってのう、マリーのような気のきく子が助手になれば仕事も楽になるはず」 いいアイディアを閃いたと嬉々としているダンブルドアに、マリーは困った様に首を傾げた。 「私のようなのを助手にとるモノ好きがいれば、お受けしましょう。 何よりダンブルドア先生直々の頼み事ですからね」 「そうか、そうか…その言葉を聞けて安心した。 教授に了承もらえ次第、フクロウ便を送ろう。 では、善は急げじゃな、ごちそうさまとてもおいしかった」 空になった白磁のカップを住人に渡すと、ダンブルドアはせかせかと部屋の扉まで歩いて行ってしまった。 あまりの急な展開に呆気に取られていたマリーだったが、「あっ」と思い至ってダンブルドアを呼び止める。 「先生、その教授の分野は?」 「おぉ、言い忘れておったな。いかんいかん」 ダンブルドアは扉の前で立ち止まるとにっこりと笑った。 「魔法薬じゃよ。 では、これから教授に掛け合ってみて来るよ、ではまたマリー」 「はい、また」 ぱたんと閉まった扉をしばらく見つめた後、住人は冷めてしまったミルクティを飲み干した。 「魔法薬……今の教授は誰だったかな……」 狭い部屋の中、マリーはぼんやりとした表情のまま瞼を閉じた。 まるで、眠る様に。 記憶を辿る様に。 何度目にもなる、憂鬱な時期がやってきた。またここに新しい子供達がやって来る。 入ったばかりの新入生は校則をよく理解せず好奇心に負けて、何かしらやらかす輩が増える──ウィーズリーの双子に至っては、何時迄経っても好奇心の前には白旗を振りっ放しではあるが。 それはまるで在りし日の忌まわしい同窓たちの姿を連想させ、セブルス・スネイプは深い溜め息を吐くと凝り固まった眉間をほぐす様に手を当てた。 目前には、新学期の授業の用意がほとんど手付かずのまま積み上げられている。 他ほど事前準備が多い授業であるのは確かだ。しかし、この疲れやすさは己の体力のなさか、年のせいか。 スネイプは何度目にかなる溜め息を吐いた。 「人ひとりが、出来る限界か………」 昔、ある人物に言われた言葉を反芻してスネイプは口許を手で覆った。 思い出に縋ってしまうのもまた、年か。 深く思考に耽ってしまう直前、ドアを叩いたノック音にスネイプは顔をあげた。 「どうぞ」 「少しいいかな、セブルス?」 「校長」 部屋に現れた人物に、スネイプは席から腰を浮かせた。 それに気付いたダンブルドアは手で制して、そのままで構わないと言って首を横に振った。 スネイプはそろそろと腰をまた椅子に沈める。 「ちょっと訊ねたいことがあっての」 「なんでしょうか……」 デスクの前まで来たダンブルドアの目がいつになく煌めいていることに若干警戒しつつスネイプは応じる。 「助手、なんていらないかね?」 「──その質問は、一体?」 この人は時々、人の心を覗いた様な発言をする。 先ほどまでの思考を覗かれていたような居心地の悪さを感じつつスネイプは開きかけた口を一旦閉じてから、少し気持ちの整理をつけるように疑問を口にし回答を先延ばした。 「要するに、どうしてもホグワーツに招きたい者がおるのだが、教授職に誘ったがそれは無理だと言われてしまってのう。どうにかこうにか、助手ならと妥協してくれたんでな。 そこで常より忙しいセブルスのとこならどうかと、思ったわけじゃ」 「はぁ……」 ダンブルドアの言葉になんとも言い様がなく、スネイプは少し気の抜けた返事を返した。 「お心遣いは嬉しいのですが、助手といっても名ばかりの足手纏いは遠慮したいモノですな」 「その辺りは安心していい。 あの子の魔法薬の能力、知識ともに君に引けをとらんだろうよ。ワシが保証しよう」 「……」 「もし……君があの子を気にいらんようなら、ワシの助手になってもらうつもりじゃ」 「校長、の助手ですか」 「これでも、ワシも忙しい身なのでな」 そうウインクして茶目っ気たっぷりに笑ったダンブルドアに、スネイプは諦めたように溜息を吐いて肩をすくめた。 「いいでしよう……そのお話、お受け致します」 「そうかそうか」 嬉しそうに頷くダンブルドアにスネイプは「ただし」と、念を押した。 「校長のご推薦の方でも、私が気に入らなければすぐさま校長にお返し致します」 「それで構わんよ。まぁ、そうはならんと思うがね」 「……」 断言と言っていいほど自信満々で愉快そうに笑うくせ、こちらを真っ直ぐと射る様に見つめてくるダンブルドアの瞳に、スネイプは口にしようとした嫌味を飲み込んだ。 「それでは、あの子に合格通知を送らんとならんな。 邪魔したの、セブルス」 「いえ……。それより校長、ご推薦の方の名前を伺っても?」 ドアに向かおうとした足を止めて振り返ったダンブルドアは、こちらに向かってまたあの笑顔を見せた。 「まだ秘密じゃよ。 そういう“楽しみ”があれば、君も少しは今年の歓迎会も待ち遠しくなるんじゃないか?」 唖然とダンブルドアを見つめるスネイプに、ウインクを残してダンブルドアは部屋を出て行ってしまった。 スネイプは堅くなった体から力を抜いて溜め息を吐いた。 「……あの方は幾つになっても子供だな」 そうぼやいてデスクに肘を突いて、組んだ手を額に当てた。 そうだ、今年はあの子供が入学するのだ。 あの、憎たらしい男の、そして彼女の息子が。 今年は例年以上に憂鬱な年になりそうだと、スネイプは口の中で呟いた。 スネイプは深い深い溜め息を吐くと瞼をきつく閉ざした。