止めようのない雪崩れのよう
突然押し付けられた紙切れには2つのどこかの住所と、苗字が書かれていた。その苗字はあまり見覚えがないことからして、呪術師の家の人間ではなさそうだった。
五条先生は押し付けた紙切れの端を指ではじく。
「僕の代わりに、ここに住んでる子を、この所定の場所に連れてくること。あ、これは単独でね」
「五条先生の代わりって、二級の俺一人で務まるんですか」
「いやいや、相手は呪霊でも呪詛師でもないよ」
いくら年上の、そして教師であろうとも「は?」と低い声が出た程度の無礼は許してほしい。まったく意味が分からなかった。五条先生の言いようでは全くこれが“呪術師”の任務には聞こえない。なんの気まぐれだろうかと思った。遊びなのか本気なのか少し考えたが、相手があの五条先生だということを今一度思い出してすぐにやめた。真意を求めて視線をやっても一向に飄々とした態度を崩そうとしない相手の腹を探ったところで徒労に終わるだけだ。
そんなこちらの心情を察する気のない相手はそのまま話を続けた。
「僕が行こうかなって思ったんだけど、ほら、僕って忙しいでしょ?それにこれは恵も適任かもってひらめいちゃったんだよね!」
最後の言葉が少し引っかかったものの、30手前の男性とは思えない茶目っ気たっぷりな喋り方は聞き流すに限る。もうこれ以上説明する気がないようで五条先生は長身を翻した。
「あ、これは極秘任務だから高専の制服で行かないでねー。っじゃ!」
結局、俺がこの“極秘任務”についてもらえた情報はこれだけだった。いや、目的地に向かう道中、「手こずると思うけど頑張って★くれぐれも優しくね」というこれまたわけのわからないメッセージが五条先生から入っていた。隣に誰も座っていなかったことを良いことに、盛大にため息をついた。
真意は分からないままだったし、期限を言われていたわけではなかった。だから「手こずる」というのなら相手の意思も尊重しながらこの“極秘任務”を完遂しようと考えていた。何せ「大阪」に住んでいる人間を「東京」に連れて来いという指示だ。五条先生の性格や言い方からしておそらく相手に了承をとっていないだろう。それを含めての“極秘任務”なのだろう。
目的地に着いたが、インターホンを押さずに家主が出てくるか家に帰って来る時を近くで待っていることにした。外観からして単身者用のアパートのようだった。これで目的の人物が女性であれば前もって連絡のない来訪者のインターホンに出るとは考えづらい。けれど仮にそうであれば結局嫌な気分にさせかねないのは申し訳ないと思いながら、どうせそういう感情を起伏させるようなこと以外出来ないのだから仕方がないと自分の中で言い訳をした。ふと、五条先生からの「くれぐれも優しくね」というメッセージが頭の中に浮かぶ。まさか、本当に相手は女性なのだろうか。とりあえず、恐怖与えたいわけではないので、できるだけ距離を保って声をかけよう。
そんなことを考えていると目的の人物が帰ってきたようだ。後ろ姿から推測するに女性のようだった。家の中に完全に入らないうちに辿り着けるよう少し歩みを早くする。
階段を登りきったところで向こうもこちらに気が付いて視線がかち合う。
その瞬間、体は思考とともにフリーズした。
無意識の瞬きを何度か繰り返した後、はっと我にかえると、視界に映し出される今目の前のいる彼女に刺激されるように脳内に過去の記憶があふれ出る。
年季の入った木製のドアの傍らでたたずむ黒い制服、柔らかに頭上から降り注ぐ「おかえり」、食欲をこれでもかと掻き立てられる音や匂い、小さな机いっぱいに置かれた料理を挟んだ向こう側から告げられる「どうぞ」という合図、わけのわからない宿題の問題の上をすらすらと滑る鉛筆の音、おひさまの匂いと軽やかな空気を含んだ布団の心地よさ、湯冷めするより早く乾かそうするドライヤーの大きな音、――――――
記憶とともにいろんな感情が目まぐるしいほどに湧き上がってくる。羨望、懐かしみ、悲しみ、つらさ、絶望、歓喜。そのどれもが痛いほど心を揺らして張り裂けそうだ。
忘れるわけがない。昨日のことのように鮮明に思い出せる。
俺は彼女を――――――△△さんを知っている。