曖昧で不確かな日々の中で

私はナマエという名前らしい。らしいと言うのも、人事のようだが記憶喪失というやつだそうだ。自分に関する記憶が全て欠落している。生活するにあたって必要な知識だとか、勉強した内容だとかは覚えているのに、自分に関することがわからないなんて、おかしな話だ。人の記憶のメカニズムがどうなっているのかは知らないが、お医者さんが言うには、いずれ記憶は戻ると"思う"と言っていた。また曖昧な答えだなあと苦笑したのは数日前の話で。事故に遭ったらしい私は、検査のために一週間ほど入院しなくてはならないそうだ。記憶がないこと以外は、いたって健康だと思うけれど。自分のことが全くわからないというのは、なかなか不安なもので、これからどうすればいいのだろう、などと落ち込みがちになってしまうが、そんな私を救ってくれるのが、この病室を訪れてくれる私の知り合いだという人達だった。知り合いだということすら覚えていない、失礼極まりない私を、優しく受け入れてくれる。私は随分と周りの人に恵まれていたようだ。基本的にはエレン君、ハンジさん、エルヴィンさんが交代のように訪れてくれるのだが、毎日来てくれる人が一人いる。リヴァイさんという人だ。見た目は無愛想で目つきも悪く怖い雰囲気だが、目を覚まして初めて声をかけてもらった時に、とても安心したことを覚えている。彼が誰なのかもわからないはずなのに、安堵したのだ。「記憶がなくても構わない」という言葉に、どれほど救われただろう。それから毎日、面会時間ギリギリに来てくれては、少しだけ話して帰っていく彼。もっと長い時間話せたら良いのに、なんて思う私は欲張りかもしれない。



「ここ最近、会社でのリヴァイが恐ろしいんだけど。」

言葉とは裏腹に、ニヤニヤと笑って話すハンジさんを不思議に思った。

「どう恐ろしいんですか?」
「ほら、病院の面会時間って限られてるでしょう?普段通りに働いていたら、面会時間になんて絶対間に合わないからさ。恐ろしい勢いで仕事終わらせてるの。リヴァイの部下も巻き添えをくらってるよ。"俺に残業をさせるなよ"ってプレッシャーをかけられてる。」

それでもいつも時間ギリギリで、焦って退社してるけど、という彼女の話を聞いて納得した。だからいつもあの時間帯なのかと。

「どうして、そこまでしてくれるんでしょう。私とリヴァイさんって、もしかして恋人同士…だったりしますか?」

いや、そんなはずはないか。あんな男性がこんな小娘を相手にするわけがない。

「恋人…、いや、それは難しいところなんだけど、とりあえず今は違うかな。どうしてっていうのは、本人に聞いてみたら?」

ハンジさんがそう言うのと同時に、扉をノックする音が聞こえた。「はーい。」と返事をすれば扉が開き、そこにいたのはリヴァイさんだった。

「チッ。クソ眼鏡、仕事はどうした。」
「今日は半休とったんだよ。じゃあ、私は失礼するかな。ナマエ、お大事にね。」
「あっ、有難うございました!」

彼女が座っていた椅子にリヴァイさんは腰掛け、紙袋を手渡された。

「何ですか?これ…。」
「最近人気がある菓子らしい。会社の奴が言っていたから買ってみた。」

紙袋の中には可愛らしい箱が入っていて、それを開ければまた可愛らしいケーキが並んでいた。

「これをリヴァイさんが買ってきてくれたんですか?」
「そうだが。何が可笑しい?」

そう指摘され気づいたのだが、無意識に私は笑っていたらしい。それはきっと、リヴァイさんがケーキを買うところを想像してしまったからだ。その怖い顔でケーキを買ったのかと思うと。

「いえ、嬉しいです。有難うございます。」
「そうか。ならいい。」

本当に、どうしてここまで優しくしてくれるのだろう。聞いても、良いのだろうか。

「あの、」
「なんだ?」
「どうして、そんなに優しくしてくれるんですか?」

そう尋ねれば、いつもはあまり変わらない表情が、わずかだが驚いたように目を開いて変わった。しかし、すぐにいつも通りの表情に戻り、口を開いた。

「…理由は必要なのか?俺にとっては必要ないんだがな。優しくしているつもりはない。そう感じるなら、きっとそれは相手がお前だからなんだろうな。」

なんでもないことのように彼は話すが、私はなんだか恥ずかしくなり、俯いてしまった。そんな私の頭をくしゃりと大きな手が撫でた。

「今は何も考えなくていい。お前はゆっくり休め、ナマエ。」

まるで、記憶が戻らなくてもいいような口ぶりだ。けれど、やはり私は思い出したい。温かく受け入れてくれる皆のことを、リヴァイさんとの関係を。


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