「初めまして。ペトラ・ラルです。」
そう名乗って微笑む彼女を、私はただただ見つめていた。いや、目が離せなかったというのが正しいのかもしれない。
今日は休日で、お兄ちゃんとゆっくり過ごせる貴重な日だからと、私の心は躍っていた。想いを伝えて以来、私はますますお兄ちゃんから離れられなくなってしまっていた。兄妹でもなんでも、側にいられるならそれだけで良いと思えたからだ。結婚出来なくたって構わない。そう割り切った途端、段々と彼が私と距離を置くようになったのは気づいていた。それでも、「お前が一番大切だ。」と言ってくれた、その言葉を信じていた。
「まぁまぁ、いらっしゃい。リヴァイが女性を家に連れて来るなんて初めてだわ。ねぇ、ナマエ。」
嬉しそうにはしゃぐお母さん。確かに、お兄ちゃんが女性を家に連れて来るのは初めてだった。今まで、女の影が見えたことすらなかったのに。突然の女性の来訪に、驚かずにはいられない。
「…おい、客を玄関に立たせたままにする気か。」
「あら、ごめんなさいね。どうぞ上がって!」
「すみません。お邪魔します。」
母の問いかけにも答えられず、呆然と立ち尽くしたままの私を横目に、3人ともリビングへと入ってゆく。私の横を通り過ぎる時、ちらりとペトラさんという人が私を見た気がした。
「ねぇ、リヴァイの彼女さんでいいのかしら?」
「…まぁな。」
「こんな可愛い娘を連れてくるなんて!ごめんなさいね、ペトラさん。リヴァイってば無愛想で、大変でしょう?」
「いえ、そんなこと…。」
聞きたくもない話が、耳に入ってくる。部屋に戻りたいのに、母はそうさせてくれなかった。「一緒に話を聞きましょう。」なんて。私には酷すぎる。そう思いながら、クッションに顔を埋めた。もう、この場から消えてしまいたいとすら思える。
「おい、ナマエ。てめぇはろくに挨拶も出来ねぇのか。」
突然名前をを呼ばれ、思わず身体が跳ねる。それでも、顔は上げられなかった。だんまりを決め込めば、舌打ちが聞こえた。
「チッ。悪いなペトラ。」
「そ、そんなことないです。私こそ、突然来てしまって…。」
「そんなことないわよ!ナマエ、いい加減にしなさいよ。」
確かに、悪いのは私だ。お兄ちゃんが言うことも、お母さんが言うことも正しい。挨拶一つまともに出来ない妹なんて。お兄ちゃんの印象を悪くさせてしまうかもしれない。そう思い、意を決して顔を上げた。
「あ…、あの、ごめんなさい。妹のナマエです。お兄ちゃんをよろしく…って、あれ?」
必死で口を開けば、ポタポタとクッションに滴が落ちる、目元に手をやれば、それは自分の涙だった。
「や、やだ。なんで…っ。」
慌てて拭っても止まらないそれを、無駄だとわかりながらも、擦り続ける。驚いた顔で私を見るお母さんと、お兄ちゃん。ペトラさんは心配そうな顔をしていた。
「ごめんなさいっ!せっかくの時間を台無しにして…。部屋に戻ります。」
一言そう伝えて、リビングを飛び出した。自室に戻ってからも涙は止まらず、声を殺して泣き続けた。これが、いわゆる失恋というやつだろうか。実の兄に恋をするなんて、おかしいのかもしれない。それでも、どうしたってこの気持ちは変えられなかった。「お前が一番大切だ。」というのは、やはり妹としてのことだったのだ。自分の勘違いが恥ずかしくてたまらない。よく考えれば、当たり前のことじゃないか。実の兄妹が、お互いに恋をするなんて、有り得ない。
「今更気づくなんて…。馬鹿みたい。」
ぼそりとそう呟くのと同時に、ノック音が部屋に響いた。
「ナマエ、開けろ。」
扉の向こうから聞こえてくるのは、大好きな声で。けれど、扉を開けられるはずもなかった。布団をかぶり、彼の声を無視する。
「開けない気か。…鍵までかけやがって。お前が開けないなら、このドアを壊してでも入るぞ。」
…さすがにそこまではしないだろう。このまま無視をし続ければ、そのうち諦めてくれる、そう思った私は甘かった。部屋に大きな音が響き渡る。それはそう、ドアを蹴破ったような。音に驚き布団から出れば、苛立った顔をしたお兄ちゃんが、私を見下ろしていた。
「うそ…!ほんとに壊すなんて!お兄ちゃん馬鹿じゃないの?!」
「てめぇが出てこないのが悪いんだろ。」
悪びれた様子もなく言い放つ彼に、悲しんでいたことも忘れて唖然としていると、私のベッドに彼は腰かけた。
「…泣きすぎだろ。」
そう言って私の涙を拭う温もりが、余計に私の悲しみを込み上げさせる。
「うそ…つき。」
「何がだ。」
私の言いたいことなんか、わかっているくせに。それなのに聞いてくるのは、嫌がらせでしかない。
「結婚しないって…言ったのに。」
「結婚するなんて言ってねぇ。」
「でも、彼女…。」
そう言葉を発すれば、バタバタと階段を上る音が聞こえ、お母さんが私の部屋の前に立ちはだかった。
「ちょっと、リヴァイ!ペトラさん恋人じゃないって本当なの?!彼女、謝って帰っていったわよ!…って、この扉!!!」
怒った顔をして話すお母さんを見ても、全く動じていないお兄ちゃんは、何を考えているのだろう。その前に、恋人じゃない?確かに今、そう聞こえた。
「…。あぁ、恋人じゃない。どういう反応をするか、見てみたかっただけだ。」
「信じられない!って、ナマエ、あなたまだ泣いてたの?」
「ナマエに話がある。母さんは降りててくれ。」
お兄ちゃんが真面目な顔でそう言えば、お母さんは渋々一階へと降りていった。勿論、後で問いただされるのは確実だろう。恋人が嘘だったということと、ドアを壊した理由を。その前にまず、お兄ちゃんは私に話があると言った。
「…恋人じゃないの?」
恐る恐る問いかけてみれば、真剣な表情のまま頷いた。
「あぁ。」
「どうして、恋人なんて言ったの?」
「お前との距離を離すためだ。」
「そんな必要…。」
ないのに、と言いかければ、言葉を遮られ、全てを言わせてはもらえなかった。
「あるだろ。いいか、俺はお前を妹として大切なわけじゃない。…それがどういう意味かわかるだろう。」
普段はあまり表情を変えないお兄ちゃんが、悲痛な表情で私を見る。その顔を見て、ようやく私は理解したのだった。
「ナマエ、お前には幸せになって欲しい。それは前にも言ったな?」
「うん。」
「だが、俺はお前を幸せにはしてやれない。兄だからな。」
「私は…、お兄ちゃんがいればそれでいい。」
本当に、それだけで良い。それ以外は何もいらない。結婚出来なくても、子供が作れなくても、世間から白い目で見られても、構わない。
「…私だけが幸せになるの?お兄ちゃんは?」
「俺のことはどうだっていい。」
「よくない!…私だって、お兄ちゃんに幸せになって欲しいのに。」
「彼女を連れて来ただけで泣いたくせにか。」
返す言葉もない。言っていることと行動が矛盾していることはわかっていた。けれど、お兄ちゃんの幸せを願う気持ちは本当だ。なんて言えば良いのだろうと考えていれば、突然額に温かいものが触れ、それと同時にリップ音が聞こえる。
「人の努力を無駄にしやがって。」
「…無駄だよ。私の気持ちは変わらない。」
そう言って顔を上げれば、彼は悲しげに笑い、唇に触れるだけの口づけを落とした。