ドッペルゲンガー02

「逃げられると思うなよバーボン」

『…おい秋良、今の音はなんだ?』

 再び足元に弾け飛んだコンクリート片。視界の端にそれを映しつつ、秋良は無意識のうちにごくりと喉を鳴らした。

 心拍数が上がり脈が早鐘の様に波打つ。余りにも非現実的な出来事がたった今目の前で起き、秋良は表情にはださないが内心かなり動揺していた。激しい耳鳴りにより、携帯電話から聞こえてくる降谷の声も言葉として理解できない。返事を返さない秋良に慌てたのか、何度も名前を呼ぶ声が聞こえてきているはずなのに、目の前の男の威圧的な空気に圧倒され生唾を飲み込む事しかできなかった。

「………」

 見たこともない知らない男だ、と秋良はそう思った。全身黒ずくめの服に深々と被った帽子から覗く三白眼の翠目。銀色に輝く髪はとても男とは思えないくらい長く綺麗だった。こんな目立つ容姿の人に一度会っていたら忘れるはずも無い。しかし見覚えがないのだから、本当に見知らぬ男なのだろう。

 しかし相手はそうではないようだった。まるで秋良を知っているかのように憮然と話しかけて来る男は、靴底をコツリコツリと鳴らしながらゆっくりと距離を縮めて来る。ただ距離を詰めるだけならまだ良い。しかし、男の手には普通一般人では持ち得ないものを持っていた。


 ───拳銃…。


 何をどうすればそんな物騒な物を手に出来ると言うのだろう。一般人ならばまずお目にかかることが無いはずなのに、男はさも当たり前のように拳銃を所持し、慣れた手つきで秋良から逸らすことなく構えている。

「どうしたバーボン。いつものお喋りはねぇのか?」

『秋良!?返事をしろ!!』

 くつくつと嗤いながら嘲るような声でそう問い掛ける男と、異変を察知したのか電話越しで慌てたように名前を呼ぶ降谷の声が携帯から頻りに聞こえてくる。しかし秋良は、ゆっくり近付いてくる男の殺気に足が竦んで一歩も動く所か声すら発することが出来なかった。逸れることなく注がれる射殺すような視線。寸分違わず頭へと向けられている拳銃。どれも体験した事のないもので、あまりの緊張で喉の奥がキュッと締まる。

「まさかこんな所に居たとはなァ」

「………」

 心の底から震え上げさせる酷く冷たい残虐な空気を纏っている男。それは堅気の人間では無いと思わせるのには充分だった。秋良は恐怖で手が震えるのを感じつつ、気丈に振る舞い真っ直ぐ男を見据える。何故、どうして、僕が…。何度も頭を巡る疑問に答えてくれる人は誰もいない。

「上手く逃げ回ってたみたいだったが…残念だったなバーボン」

 バーボン?秋良は漸くそこでこの男が自分をバーボンという男と勘違いしている事に気づいた。

 バーボン。考えられるものとしたらウイスキーの一つであるあのバーボンの事だろうか。秋良はお酒に詳しくは無かったが、その名前くらいは聞いた事があった。そして、その名前は恐らく降谷の別名なのだろうと逡巡する。きっと公安の仕事の一環なのだろう、と。ただ、何がどうなってこの男が拳銃を突き付けてくる事になったのかは分からなかった。。ただ一つだけ言えることは、拳銃を向けてくると言うことはその降谷を殺そうとしているのだということ。下手な行動や言動は避けるべきだと秋良は緊張で手に汗を握りながら慎重に相手の様子を窺っていた。

 張り詰めた空気の中、銃口が寸分違わず頭へと向けられている事実に冷や汗が流れ落ちる。これではまるで蛇に睨まれた蛙だ。突き付けられた殺気は、細い氷が薄い皮膚の上をすうっと通ったかの様に鋭く冷たい。血は一滴も流れていないはずなのに、足の先から全身の血の気を失っていく様な気がした。

「───フン、いつまで通話してるつもりだ?時間稼ぎはそこまでにして大人しくその手を挙げろバーボン。お仲間との会話はもう終いだ」

 脳裏でこの男は危険だと警鐘が鳴り響く。言うことを聞かなければ容赦無くその引き金を引くだろう。秋良は電話の向こうで騒ぐ降谷の言葉を無視して通話を切って手を挙げた。

 やはりそれで正解だったらしい。男は満足気に目を細めると携帯電話を奪い地面に落とすなり、なんの躊躇も無く革靴で踏み潰し始めた。

「…な…っ!」

 ばき、と嫌な音が聞こえた。容赦なく踏み潰された携帯電話。携帯電話の液晶画面は見るも無残にバキバキに割れ、アスファルトに触れた部分は細かい傷で覆われてゆく。ああ、なんて事だろうか。新品も同様だった携帯電話が、一瞬にして中古どころか廃棄物へとすっかり変わり果てた姿に変貌してしまった。うんともすんとも言わなくなった携帯電話。ただの無機質に成り果てたそれを見て「…これでもう連絡は付かないなァ?」と心底愉快そうに男は嗤う。

 その様子を唖然と見ていた秋良の腰に再び拳銃を突き付けながら、男は冷酷な声で歩けと命令した。勿論、秋良に拒否権は無い。拒否した瞬間、秋良は自身がただ肉片に成り果てる姿が想像出来てしまった。携帯電話を躊躇なく壊したように、秋良もなんの躊躇いもなく斬り捨てるのだろう、と。

「逃げようと思うなよ」

「………」

 この状態で逃げれる訳も無い。気を抜くとガタガタと震えそうになりながらも気丈に振る舞い歩き始めた。一体どこに連れていくと言うのだろうか…。着いて行って果たして無事でいられるのだろうか…。連絡手段はもう無い。助かる見込みは…ほぼ無い。不安が体全体を蝕みながらも秋良は黙ったまま、道端に停めてあった黒のポルシェ356Aに乗り込んだ。


 

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