ペッシとアラクネー


夜勤を終えて自室で睡眠を取ったペッシがリビングに行くと、トマトソースの良い香りが部屋中に充満していた。絶妙な香りに食欲が刺激され、思わずぐう、とお腹を鳴らせばキッチンに立っていた名前が振り向く。腹部に手を当てながら僅かに顔を赤くするペッシに気付くとにこりと笑った。

「ちょうど良かった。ペッシも一緒にお昼食べる?」
「い、いいんですかい?」
「もちろん。お皿取ってくれる?」
「わかったよ姉貴!」

言われた通りに食器棚から皿を二枚取り出して手渡すと、真っ白な皿にトマトとクリームソースがたっぷりかかったファルファッレが盛り付けられた。アジトの家事は形式上では当番制だが名前が率先してこなしてしまうため、時間があればキッチンに立つリゾットやプロシュート以外、ほとんどのメンバーが彼女に任せきりになっていた。一番アジトにいる時間が長いというのもあるが、彼女の作る料理がリストランテで食べるものと遜色ないほど美味しいというのが大きな理由だろう。
料理を受け取ったペッシが先に腰掛けると、目の前にガラスのコップが置かれた。その中に注がれたミルクを見て思わず顔を上げれば、名前は不思議そうに首を傾げた。

「違う飲み物の方がよかった?」
「い、いや…ちょうど飲みたいと思ってたんだ。Grazie, 姉貴」
「どういたしまして」

ペッシに接する名前とプロシュートを「飴と鞭」と表現したのはホルマジオだったか。教え上手で褒め上手な名前がペッシの言動を指摘することは滅多にないが、プロシュートはペッシの立ち回りや態度、さらには人目を気にして飲み物にまであれこれと指摘してくる。とはいえ彼も二人の時は比較的自由にさせてくれるし、そのような指摘もペッシのためを思っての行動だとわかっているため、決して鞭ばかりではないのだが、他のメンバーから見ればペッシへの接し方は対極に見えるらしい。

ペッシは向かい側に腰掛けた名前を見て、彼女と二人だけで食事というのは随分と久しぶりなように感じた。普段ランチはプロシュートと一緒に外で済ませることが多いし、たまにアジトで食べるにしても他のメンバーが一緒になることが多い。
ペッシはフォークを持つとファルファッレを口に運んだ。

「姉貴は相変わらず料理が上手いよな」
「ふふ、Grazie.」

微笑む名前にどきりと胸が鳴り、慌てて視線を逸らす。

「そ、そういえば!昨日の任務も兄貴と一緒だったんだけど、あの人はやっぱりスゲーよなァ」
「それはキャリアが違うもの。私はペッシだってもう立派に任務をこなせてると思うけど」
「そ、そうかな?でも俺、兄貴にはまだまだって言われるし…」
「プロシュートは厳しいからね。昔は私もよく怒られてたよ」

あまりにも衝撃的すぎる事実にペッシはファルファッレを口に運んでいた手が止まった。

「お、怒られる…?姉貴が?」
「今でこそ怒られることは滅多にないけど、昔なんてしょっちゅうだったよ。…そんなに意外?」
「俺には想像もできやせん…」
「ここに来たばかりの頃なんて特に酷かったんだよ。ガキだって散々バカにしてくるし、理不尽に怒られることもあったから」
「あ、兄貴が…!?」

まさかそんな信じられない、と言わんばかりにあんぐりと口を開ける。誰が見てもわかるくらいプロシュートは名前のことを大切に想っているのに。ペッシの困惑を察知したのか名前は笑って続けた。

「私ね、ここには十二の頃に来たの。ペッシと同じように教育係はプロシュートだったんだけど、まだ小さかったからか"ガキの子守りなんて出来るか"って言われちゃって。ヘマしてるわけじゃあないのに、任務の度にあれが駄目これが駄目って細かく指摘されるから、昔はプロシュートのことすごく苦手だったの」
「でも…っでも、それは…姉貴に期待してたからじゃあないんですかい?今でも兄貴は俺のためを思って叱ってくれるし…」
「ペッシは偉いね。ここに来た頃はちょうど反抗期も重なってたし、全然そんな風に考えられなかったなぁ」

名前と反抗期という単語がペッシの頭ではどう頑張っても結びつかず困惑する。

「その、姉貴はいつも完璧だけど…任務で失敗したことあるんですかい?」

その途端、名前が持つフォークがカツン、と皿に当たった。甲高い音にペッシの肩がびくりと跳ねる。

「あるよ」
「え…」
「取り返しのつかない失敗」

明らかに変わった空気にペッシが思わず息を飲めば、名前は顔を上げてにこりと笑った。

「褒めてもらえて嬉しいけど、私はペッシが思うような完璧な人間じゃないの。きっとペッシ以上にたくさんの失敗をしてると思うよ」
「俺以上なんて…それはさすがに言い過ぎなんじゃ」
「ううん、だからリゾットとプロシュートにはいっぱい迷惑かけちゃった。例えばそうだなぁ…敵に追いかけられてる途中で迷子になっちゃったとか」

先ほど見えた冷たい表情とは打って変わり、照れたように笑う名前にペッシは密かに胸をなでおろす。

「あ、あと拷問中に髪の毛を切られたこともあったかな」
「え…!?」
「あの時は足も折られてたから逃げる方法が無くて。助けに来てくれた二人にこっぴどく怒られちゃった。情報は何も吐いてないのに」
「…」

ペッシにとって名前は頼れる姉のような、あるいは愛情深い母のような存在で、女性としても人間としても完璧だと認識していた。だから尊敬するプロシュートとはお似合いだと思っているし、むしろ名前以外の女がプロシュートの隣にいる光景は想像できないとすら考えている。しかしペッシは、時々彼女が自分の領域に他人を踏み込ませないように壁を作っていることに気付いていた。それは長年苦楽を共にしてきたメンバーであっても、だ。その理由がなぜなのかペッシはここに来てから数年経っても分からなかったが、今この瞬間に、そんな長年の疑問がようやく解けたように感じた。

「姉貴」
「ん?」
「その、何て言うか…姉貴の身に何かあったら、兄貴はもちろんだけど…チーム全員が悲しむと思うんだ。だからその、俺が偉そうに言うのも何だけどよォ…もっと自分を大事にしてくれよな」

僅かに目を見開いた後、曖昧に笑って視線を落とす名前に確信する。この人はあまりにも自分のことに無頓着で、自分がどれだけ愛され、必要とされている存在かを知らない。そしてまた、人からの愛情にどう応えればいいのかわからない。

彼女には、人なら誰しもが無条件で享受できたはずの愛情が欠乏していた。
ペッシや他のメンバーに向けられた名前の優しさは、もしかすると彼女の願望の表れだったのかもしれない。ペッシは彼女の口から生い立ちを聞いたことはなかったが、十二の頃から組織に所属しているということを考えれば、当たり前にあったはずの愛情が与えられなかった可能性も十分に考えられる。

「ペッシは相変わらず勘が鋭いね」

それきり口を閉ざした名前は黙々と食べ進めていった。何か気に障るようなことを言ったのかもしれない、とペッシが自分の発言に後悔していると、名前は空になった皿にフォークを寝かせ、観念したように呟いた。

「昔ね、ある人に言われたことがあるの。私は"死にたがり"だって」

口を開いた名前に安心したペッシだったが、彼女の言葉に再び言葉を詰まらせると同時に、思わず納得してしまった。言われてみれば、自己犠牲を顧みず、物への執着心がなく、人と深く付き合おうとしない態度は確かに死に急いでいるようにも見える。視線を落とすペッシを見て、名前は何かを悟ったのか苦笑を漏らして立ち上がった。

「少しはマシになったと思ったんだけどね」
「あ、姉貴…俺、余計なこと言っちまって…」
「ううん、気にしないで。ペッシは何も悪くないんだから」

名前は食器をシンクに置くと、蛇口を捻ってスポンジを手に取った。勢いよく流れる水の音が「それ以上は何も言うな」と牽制しているように感じたペッシは口を閉じ、残り少しだったファルファッレを口に運んだ。皿に残ったトマトソースまで綺麗に食べ終えたところで、ペッシと同じく夜勤明けのプロシュートがリビングに入ってきた。一瞬だけ椅子に座るペッシに視線を向けると、食器を洗う名前の隣に並んでフライパンの中を覗き込む。

「ファルファッレか?」
「うん。まだ余ってるから良かったら食べて」
「Grazie.」

プロシュートが栗色の髪にキスを落とすのを見て、ペッシは改めてお似合いの二人だと思った。いくら名前の証言とは言え、昔は険悪な仲だったなんてとても信じられない。それに名前が気付いていないだけで、もう答えは出ているのではないか、とも思う。これはあくまでペッシの希望的観測だが。

水を止めた名前は掛けてあったタオルで手を拭くと、食器棚から皿を二枚取り出し、火をかけて温めるプロシュートに手渡した。

「何だ、また籠ってんのか?」
「月末はどうしても忙しいみたい。後片付けはお願いしてもいい?」
「ああ」

微笑んだ名前はリゾットの分と思われる皿とコーヒーをトレーに乗せると、ペッシにひらりと手を振ってリビングをあとにした。
プロシュートは空になったフライパンをシンクの中に入れると、ペッシの正面の椅子を引いて腰掛けた。名前が座っていた時とはまた別の緊張感が走り、咄嗟にコップに手を伸ばす。ちらりと視線を向けられ思わずぎくりとしたが、特に何も言われることはなかった。とは言え完全に立つタイミングを失ったペッシはちびちびとミルクを飲みながらプロシュートを盗み見る。するとそれに気付いたのか、プロシュートは溜息をつくと今度こそ厳しい視線を向けた。

「言いたいことがあるならさっさと言え」
「い、いや…そのォ…」
「何だ」
「お、俺…っ名前の姉貴を幸せにできるのは、兄貴しかいないと思うんだ」

そう言えばプロシュートは突然何なんだ、とでも言いたげな表情でペッシを見た。

「な、なんか偉そうにごめんよ…」
「あいつから何か聞いたのか?」
「いや、そういうわけじゃあないけど…ただ、あの人は幸せになるべき人だって、そう思ったんだ。だってあんな優しい人なのに、」

そこまで言いかけてハッとしたペッシは口を閉ざすとコップを持ちなおした。

「い、いや…やっぱり何でも」
「愛情を知らない。…お前はそう言いたいんだろ」

まさに言おうとしていたことを言い当てられ、驚いて顔を上げる。

「兄貴、気付いてたのか?」
「当たり前だ。俺はアイツが来た時から知ってるからな」

きっとプロシュートは彼女の過去も知っているのだろう。そう確信したペッシはそれ以上自分は踏み込むべきではないと判断して座り直した。

「そういえば、姉貴は兄貴と仲が悪かったって言ってたけど…まさかそんなわけ」
「ああ…俺が一方的に毛嫌いしてたんだよ」

あっさり肯定されて拍子抜けする。だったら、二人の関係はいつ変化したのだろうか。そんな好奇心が頭を擡げ思わず身を乗り出す。

「じ、じゃあ、兄貴っていつから姉貴のこと」
「ペッシ」

高圧的に睨まれてぎくりと肩が跳ねる。さすがに踏み込み過ぎたのだろうか。そんな不安から表情が固まるペッシの前で、プロシュートは息を吐くと穏やかな表情を浮かべた。

「マンモーニのお前には教えねぇよ」

同じ男でも思わず見惚れてしまうような顔で微笑まれたペッシは息を詰まらせると、気恥ずかしさを誤魔化すように立ち上がった。

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