悪夢を見た夜


夜、仕事を終えてアジトへの道を急いでいた名前は、頭上に広がる分厚い雲を見上げてため息をついた。どうも雲行きが怪しい。アジトを出る直前に見た天気予報では雨が降るのは明日の朝だと言っていたはずだが、この様子だとあと数分で雷雨になるだろう。時刻はまだ0時を回ったばかりだと言うのに。

小さく溜息をこぼして足を速めようとした名前は、視界の端に映った光景に思わず足を止めた。建物の隙間に見える二つの影。狭い路地の間で地面に押し倒された少女の上に、男が覆い被さっている。
まだ幼い声が抵抗するのを聞いた名前は思わず足を向けていた。
頭上で手を纏めあげられながら必死に足をばたつかせ抵抗する少女は、男の背後に立ち尽くす名前に気付くと大きな瞳から涙を流した。

―――たすけて

縋るような瞳を見た瞬間、名前はほとんど反射的にサイレンサーを取り付けると容赦なくバレッタの引き金を引いていた。放たれた弾丸が真っ直ぐに男の肩を貫く。撃たれた男は衝撃でぐらりと姿勢を崩すと、傍らにあったポリバケツにぶつかり、勢いよく中身を地面にぶちまけた。遅れてやってきた痛みに呻き声を上げながら左肩を押さえる。少女はその隙に急いで上体を起こすと尻もちを着いたまま後ずさった。

「ぐう…ッくそ、何なんだよいきなり、」

何とか体を起こして背後を振り返ろうとした男だったが、頭に硬い何かが当たったことに気付き言葉を詰まらせた。

「っ…」

後頭部に当たる冷たい感覚にごくりと息を呑む。降参だというようにゆっくりと両手を上げれば、負傷した左肩から流れる血が地面に落ちた。

「こ、殺さないでくれ……頼む」
「今すぐ消えて」

男は温度のない冷たい声を聞いて頷くや否や、襲っていた少女には目もくれず情けない声を上げながら走り去った。無表情のまま銃をしまって顔をあげた名前に、体を震わせる少女のやせ細った肩がびくりと跳ねる。

「あ、あの…」
「いいから。あなたも早く行って」
「ぁ…Grazie…」

震える声でお礼を言った少女は慌てて立ち上がると足をもつれさせながら走り去った。
残された名前は地面にできた血痕を見下ろしながら、お礼を言われるようなことは何もしていないと僅かに唇を歪める。そう、これは決して少女のためではないのだ。

その時、立ち竦む名前の足元にぽつりぽつりと黒い染みができた。
どうやら天気予報は大幅に外れたようだ。それでも名前は足から根が生えたようにその場から動かない。徐々に水滴が体に当たる間隔が短くなり、強さを増していく。
小雨が降り始めて1分も経たないうちに、まるでバケツを引っくり返したような激しい雨が名前の体を叩いた。地面を打ち付ける激しい雨水が血の跡を消していく。

眠った街を白く濁った霧が覆い始めると、全身に打ち付ける雨の音がだんだん遠くなっていった。その代わりに目の前に広がるのは昔の記憶だ。頭の奥底に押し込めていた記憶は、まるでアバッキオのムーディーブルースで再生しているかのように鮮明に映し出される。

固定されて動かない体。ぎしぎしと音を立てる安物のベッド。未成熟の体の中に異物が入り込んでくる不快感。恐怖に襲われる中必死に抵抗する少女の上で、黒い影が笑みを浮かべる。

――っいやだ離して!っ…お願い、誰か助けて……ッ

涙でぐちゃぐちゃになった顔を歪めた少女が喉を引き攣らせて泣き叫んだ瞬間、黒い影が重なった。ずん、という重たい衝撃が何度も幼い体を貫く。全てが真っ白になった世界で、四肢を震わせる少女に覆い被さる影は笑った。

――名前、"     "

「…」

名前はそこまで考えてゆっくりと目を閉じた。
名前が救ったのは決して見知らぬ少女ではなく、あの日誰からも助けてもらえなかった自分自身だ。歪な愛情を植え付けられた、可哀想な少女だった。

意識を浮上させて再び目を開けると、耳にはうるさいほどの雨音が響いてきた。大量の水を吸った服がべったりと肌に張り付いている。体中に雨が叩きつけられる不快感でようやく長い間立ち竦んでいたことに気付いた名前は次の瞬間、勢いよく背後を振り返った。弾かれたように振り向いた名前を見て、傘をさした長身の男が呆れたように呟く。

「帰りが遅かったから迎えに来た」
「リ、ゾット…」

白く濁った世界の中で、黒を纏うリゾットの姿だけが鮮明に映った。何も言わない名前がどこか虚ろな表情を浮かべていることに気付いたリゾットは、歩み寄ると大きな傘を傾けた。ゆっくりと顔を上げた名前から無数の水滴が流れ落ちるのを見て僅かに眉を寄せる。

「こんな天気だ。いつまでも外にいると風邪を引く」
「…うん」
「帰るぞ、名前」

リゾットにしては珍しく強引に大きなコートを被せると肩を抱いて傘の中に入れた。雨のせいで冷え切った体に気付くと、氷のように冷たくなった手を大きな手が包み込む。ゆっくり広がる熱を小さく握り返した名前は、どうしようもなく泣きたい気持ちになった。

「…天気予報、外れちゃったね」
「…そうだな」

栗色の髪から伝った雫が頬を濡らしていくのを見たリゾットは小さく震える手を包む力を強めた。
雨はまだ止みそうにない。

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