シャワーを終えた翠が部屋の扉を開けると、ソファに腰掛けるサーモンピンクが視界に飛び込んできた。
鍵をし忘れたか?と記憶を辿るも、確かに施錠は確認していった。


「どうやって入った」
『翠って本当に烏の行水だよね』


疑問をぶつければ案の定はぐらかされる。大方、合鍵でも持っているのだろう。
早々に謎の解明を諦めて濡れた髪を拭きながら近寄ると、神威が見慣れた傘を持っていることに気付いた。


『この傘かなり大きいけど、使い辛くないの?』
「ああ、確かにサイズは大きいな。小さい頃は持ち上げるので精一杯だったが、今となってはいい相棒だよ」


それに、私はその傘しか知らないからな。

答えながら冷蔵庫を開き、ストックしてあったミネラルウォーターを手に取る。蓋を開けて喉を潤していれば、興味津々といった様子で傘を広げていた神威が疑問をぶつけた。


『どこで手に入れたの?』
「元々家にあったものだ。両親とも夜兎らしいから、どちらかの御下がりだろう」
『翠の両親は強かった?』
「さあな。母親は私が幼い頃に病死したよ。父親は顔すら知らない」


唯一それらしい記憶と言えば、苦悶の表情を浮かべながら床に臥せる母親の姿だ。


「あの人は最期まで旦那の帰りを待っていた。きっと、それがあの人の幸せだったんだろうな」
『寂しくなかった?』
「さあ、どうだろうな。もう昔の話だ」


母との記憶はもはや無いに等しい。けれど、彼女の口癖はいつまでも残っている。


「母は私に、よくこう言ったんだ」


――あの人はきっと帰ってくる。だって、家族がここで待っているもの


その瞬間、翠の背中に衝撃が走った。手にしていたペットボトルが床に落ち、残り少なくなっていた水が流れる。
突然の行動に驚いていれば、俯いた神威が小さく呟いた。


『翠も、そんなものに縛られるの?』
「っ、神威…?」


ぎり、と食い込む爪に眉を寄せれば、色をなくした冷たい瞳が見下ろしてくる。


『そんな感情だけじゃ、何も守れないのに』


小さく呟いた神威は呆然とする翠を解放すると、一度も振り返らずに部屋を出ていった。


「…」


扉が閉まる音を聞きながら、翠は床に寝そべったまま右腕で目元を隠す。

あの人の帰りを待ち続けた姿も。
たった一人取り残された恐怖と絶望に苛まれて震えた日も。

今となっては、もう遠い過去の話だ。


「結局、16年経ってもあいつは帰ってこなかったよ」


でも、きっとあの頃からもう、勘の鋭い貴女は気付いていたんだろうな。


「…母さん」

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