阿伏兎との食事を終えた翠は彼から任された任務を実行すべく、神威の部屋の前に立っていた。
あれから戦艦で顔を合わせることはなかったため事なきを得ていたのだが、仕事の話とあっては伝えないわけにもいかない。何が原因で神威の怒りを買ったのかわからないが、翠の発言が彼の琴線に触れてしまったことはまず間違いないだろう。では一体何が問題だったのか。翠にとって最大の疑問はそこだった。
「(さて、どうするか)」
扉の前で逡巡していると、突然扉がひとりでに開いた。暗い部屋の中で綺麗なブロンドが浮かび上がり、ふわりと香水の匂いが鼻を掠める。部屋の中から扉を開いた女は髪をかき上げながら翠に視線をやると、ルージュを引いた唇で弧を描いた。
『あら、貴女だったのね』
記憶を呼び起こすが翠の知り合いではない。女は首を傾げる翠を見て笑みを深めると、部屋の奥を顎でしゃくった。
『神威ならもう起きてるわよ』
「ご丁寧にどうも」
『どういたしまして。それじゃあ私はこれで失礼するわ』
それだけ言って背中を向けた女を見届けると、翠は静かに部屋の中に足を踏み入れた。
「…神威、入るぞ」
気配に向かって入室を告げるが、明かりの消えた部屋から返事は聞こえてこない。目を細めながら部屋の中を進めば、先程の女がつけていた香水が再び翠の鼻孔を擽った。暗闇の隅で白く浮かび上がるベッドに近づいた翠は、散らばったサーモンピンクに再び呼びかける。
「神威、起きてるか」
『…翠?』
少々驚いた様子で顔を上げる神威だったが、翠の予想に反して機嫌は悪くなさそうだった。
『ここに来るなんて珍しいね。夜這い?』
「時間で言えばもう朝だ。仕事の話だからそのままで聞いてくれ」
起き上がった上半身は何も纏っていない。服はどこかと床を見渡せば、綺麗に畳んでベッドサイドに置かれていた。先ほどすれ違った女だろうか、とぼんやり考えながら視線を戻す。
「阿伏兎からの伝言だ。明後日にここを発って、地球に向かうらしい。それまでに準備をしておいてくれ」
『…地球か』
「ああ。それじゃ、確かに伝えたからな」
翠が背を向けて歩き出した瞬間、くん、と髪を引っ張られる感覚に足を止めた。肩越しに視線を送れば、ベッドから身を乗り出した神威の手には見慣れた亜麻色が握られている。
「一応言っておこうか。髪は女の命らしいぞ」
『綺麗だよね、翠の髪』
「…また突然だな」
相変わらず脈絡がない言葉に肩を竦め部屋を出ていこうとするも、神威は離そうとはしなかった。再び髪の根元を引っ張られるような感覚に、このまま行けば引きちぎられるかもしれない…と諦めてベッドに腰掛ける。
「人の髪をいじるより、先に着替えたらどうだ」
『大丈夫、下は穿いてるから』
「…」
果たしてそういう問題なのだろうか。咄嗟に口を開いた翠だったが、何も発することなく口を閉ざすと肩を竦めた。こういう時は好きにさせるのが一番だろう、という判断である。感覚的に髪を結われているようなので抵抗する理由もない。
『はい、完成』
数秒の沈黙の後、背中にぱさりと髪が落とされた。垂れ下がった髪を肩に引き寄せればさすが毎日自分で結うだけあって、綺麗な三つ編みが出来上がっていた。
「器用なものだな」
『じゃあ今度は翠の番ね』
「…私が?」
『ほら、早く』
くるりと背を向けた神威に急かされ、仕方なく寝癖のついた髪に触れる。さらりと流れるような髪を持ち上げ、慣れない手つきで編み込んでいく。
「私がやるより自分でやったほうが綺麗にできるだろう」
『俺は翠にやってほしいの』
「…わかった。それにしても、神威の髪は綺麗な色だな」
何も答えない神威にまた機嫌を損ねてしまったか、と考える。だが纏う空気は穏やかだったため、その後はしばらく無言で編み続け、毛先をゴムでまとめるとゆっくり肩口に垂らした。神威は翠に背を向けたまま、それを掴んで感触を確かめる。
『ねえ翠』
「ん?」
『翠は、俺のでしょ?』
突然投げかけられた疑問に、翠は思わず吹き出すように笑ってしまった。
「何をいまさら。私の命はあのとき神威に捧げただろう?私を生かすも殺すも、それは全てお前次第だ」
『…殺すのも?』
「ああ」
そう言ってベッドから立ち上がると、笑いをかみ殺したような表情の神威が振り返った。
『翠ってさ、案外不器用だよね』
「…だから言っただろう。解いて自分でやり直せ」
『そういうことじゃなくてさ、生き方がすごく不器用なんだよ。っていうかヘタクソ』
とは言われても、弱肉強食の夜兎の世界では強い者に従うことが「正解」であり、生き残るための唯一の術でもあるのだ。それを不器用だヘタクソだと言われてもどうしようもない。
『本当に、俺が殺そうとしても抵抗しないの?』
「まあ…本当なら、私は神威と戦った時に死ぬはずだったからな。例えこの先お前に殺されることがあっても、寿命が延びてよかった、くらいしか思わないだろうな」
『…翠って本当に変わってるよね』
「神威よりはマシだ」
笑いながら肩を竦めると、ぱちくりと目を瞬かせた神威は「それもそっか」と笑った。
「それじゃ、阿伏兎からの伝言は確かに伝えたからな」
『翠』
呼ばれて振り返ると、穏やかな表情の神威と視線が交わった。
『俺は翠のこと殺さないよ。そんなことしても楽しくないじゃん』
「…そうか」
『うん。ああ、でもさ』
一呼吸置くと、神威はベッドから立ち上がって腕を伸ばした。目を見開く翠の白くて細い首をつかむと、僅かに力を籠める。
『翠が俺から離れようとしたときは、迷いなく殺しちゃうかも』
喉元の圧迫感と獲物を狩るような鋭い目に、翠は思わずごくりと息を飲んだ。
「…なら文字通り、私は死ぬまで神威のものというわけか」
『不満?』
「いや…一生退屈しなさそうだ」
『さすが翠。最高だね』
目を細めて不敵に微笑めば、満足そうに笑った神威は首から手を離した。