気付けば、この場で立っているのは神威と女一人だった。
「呆気なかったな」
そう呟いた女が地面に足をつけた瞬間、風に揺られてフードが取れた。振り返った顔は血に濡れているものの、透き通った肌と美しい翡翠が印象的な女。首元に隠れていた髪をばさりと手で払えば、絹のような亜麻色が姿を現した。
「…余所者か」
その容姿から夜兎であると断定された女は手に持っていた番傘を腰のホルダーに入れ、神威に目を向け独り言のように呟いた。血に濡れた手の甲で頬を擦れば、透明感のある白い肌に鮮血が滲む。
その姿を見た神威は心底楽しそうに笑顔を浮かべると女に向かって拳を繰り出した。
『人の楽しみを奪ったんだから、代わりにアンタが相手してよ』
「全く、最近の余所者は礼儀も知らんのか」
降ってきた拳を手の平で受け止める表情は、さも面倒臭そうに歪んでいる。左で受け止めた拳をそのまま包み相手の力を利用して後ろに流すと、がら空きになった腹に右拳を叩き込む。…が、それは腹に辿り着く前に男の拳に止められた。
間近に迫った翡翠に笑んだ神威が頭突きを食らわすも、軽く頭を傾けて簡単に避けられる。不敵に笑った女が足を蹴り上げ宙を浮いた体に弾丸を打ち込めば、避ける手間すら惜しいというように全て命中した。しかし痛みなど全く感じないとでも言うように降ってきた拳を、今度は女が寸でのところで後ろに飛んでかわした。見れば地面が深く抉られている。それを見た女は不敵に笑った。
「成程、少しはできるようだな」
『次は殺すよ』
まるで動物が獲物を狙うような緊張感に、二人が笑みを浮かべる。純粋にこの殺し合いを楽しんでいるのは、どうやら神威だけではないらしい。獰猛な野生動物の、命の奪い合い。少しでも気を抜けば命はない。
互いの地面を踏む音に目を見開いた、その時。
『なーにやってんだ、このすっとこどっこい!』
気の抜けた声が二人の耳に入ってきた。倒れた敵を足蹴にしながら頭を掻いて登場したのは阿伏兎だった。何かと苦労している部下に向かって、神威は殺意を込めて笑いかける。
『今いいところなんだ。邪魔しないでよ、阿伏兎』
『何がいいところだ!敵さん全員伸びてるのに、肝心の大将が見当たらねェぞ』
いつもなら「はいそーですか。ったく、勝手にしやがれチクショー」と出来の悪い上司を罵りながら、神威の興味が失せるまで渋々傍観に徹する副団長だったが、どうやら今日はそうはいかないらしい。額に青筋を浮かべながら珍しく反発して声を上げる。やはり着陸直後に何も言わず姿を消したのがマズかったのだろうか。
『阿伏兎が適当に片付けといてよ』
『そうすると上に怒鳴られるのは俺じゃなくて団長だぜ。職務放棄も大概にしろ』
早く追い掛けるぞ、と告げられたことで破られた緊張。二人のやり取りを静かに見ていた女は構えていた番傘を下ろすと、再びホルダーに仕舞った。それに気づいた阿伏兎が目を見張る。
『まさか、こんな辺鄙な星で同族に会えるとはな』
興味深そうに視線を送ってくる阿伏兎を見ると、女は真っ直ぐ二人に歩み寄った。
「この戦闘狂は、御宅の上司か?」
『ああ、悲しいことにな』
その返事を聞いた女は、いまだ笑みを浮かべる神威に向き直った。
「夜の兎の希少価値は高い。内々で殺し合いをするのは得策ではないと、その見るからに空っぽな頭にしっかり叩き込んでおけ」
小さく笑った女が赤黒く染まったマントを翻す。ばさりとはためくそれと共に、亜麻色がふわりと揺れた。遠ざかる背中に向かって神威が呼び止める。
『逃げるの?』
「まさか。無駄に時間を費やしたくないだけだ」
『アンタの名前教えてよ』
「相手に名を聞くときは自分から名乗るものだ」
『俺は春雨第七師団団長、神威』
「…翠。見た通り、お前達と同じ夜兎だ」
『ねえ翠、もう一回殺ろうよ』
「悪いが私は忙しい。そこの部下にでも付き合ってもらえ」
それだけ告げると、神威は仕方なく閉口した。これ以上は付き合ってくれないらしい。風に揺れる亜麻色を眺めながら、ぽつりと本音が漏れる。
『勿体ないことしたな』
『団長、あの女の有り難い忠告聞いてただろ?俺たちゃ希少価値が高い天然記念物だ。むやみやたらに同族狩るのはやめてくれ』
『あの女強かったね。また会えるかな』
部下の忠告にもあくまで馬耳東風の姿勢を貫く上司に阿伏兎は頭を掻いた。
『おいおい、女子供は殺さないんじゃなかったのかァ?』
将来有望な子供と、その母親となるべく素質を持った女。この二つは殺さないというのが彼の流儀では?その意を含んで阿伏兎が疑問をぶつければ、神威はにこりと笑った。
『だって、本気でやらないと俺が殺されてたと思うし』
『……、は?』
『久々に強い奴に出会ったな』
『…正気か?』
珍しい団長の冗談で複雑そうに顔を歪める阿伏兎を見て、神威が四方で大量に転がる死体を指さして笑った。どれも急所を一撃。生命活動を停止した人体を中心に広がるのは、どこを歩いても水音がしそうな血溜まり。実際、ここまで歩いてきた阿伏兎の靴の裏は血で赤黒く染まっている。
『ああ、そういや今日はまた一段と』
『これやったの、俺じゃなくて全部あの女だよ』
辺り一面に広がる凄惨な光景に、派手にやったな、と続くはずだった言葉が喉下で止まる。一瞬目を見開いて再び辺りを見渡した阿伏兎は、軽く見ても二百はあるだろう死体に今度こそ頬を引き攣らせた。
『おいおい…どんなバケモンだ?あの女…』