『おはよ』
その翌日。家の扉を開けた翠の視界に映ったのは、ここ数日感じる頭痛の原因だった。思わずひくり、と頬が引き攣る。昨日の忠告は聞いてもらえなかったらしい。
からからと笑って手を振る男の前を素通りすれば、翠のすぐ後ろに足音が続く。
「お前の部下が苦労しているのはよく分かった」
『俺が素直に従うと思った?』
「期待はしていたんだがな」
『ここにいる理由ならちゃんとあるよ』
そう言った神威が咄嗟に翠の腕を掴んだ。行動を制限された翠が仕方なく足を止める。
みしみしと音を立てる骨に眉を寄せれば、神威はにっこりと笑ってお決まりの言葉を続けた。
『ねえ、俺と「断る」
『せめて最後まで言わせてよ』
間髪入れずに返って来た答えに、満足したのかしていないのかあっさりと手を離す。少なからず驚いた翠が神威を見ると、彼は不思議そうに首を傾げた。
『あれ、殺る気になった?』
「何故そうなる」
やはりその頭には戦うことしかないらしい。
呆れ返った翠は掴まれていた腕を擦り、不敵な笑みを絶やさない戦闘種族の典型を一瞥すると再び歩き出した。
薄暗い路地を進み昨日と同じ市街地に出る。両側に並ぶ廃れた露店に、生命活動を停止して痩せ細った体が転がる道。
何の変化もない街の様子を眺めていた神威だったが、前を歩く翠に視線を移すと不意に疑問をぶつけた。
『ねえ、今日はどこに行くの?』
「別にこれといって用はない。あそこにいても暇だから外に出ただけだ。まあ、悪質なストーカーがいるとわかっていれば外出は諦めていたが」
『翠ならそんな奴がいても殺しちゃうでしょ?』
「…そうだな」
自分がストーカーだという自覚はないらしい神威に、翠はもう何も言わなかった。掘り下げるだけ無駄だと学んだ翠に、隣に並んだ神威が不満を漏らす。
『ていうか、暇なら俺と殺り合ってくれてもいいじゃん』
「生憎無駄な争いは好まない性質だ。金にならなければ尚更。…お前はもう少し夜兎の希少性を自覚しろ」
『そんな阿伏兎みたいなこと言わないでよ。口煩いのはあいつ一人で十分』
「阿伏兎?…ああ、この前の」
気だるそうに頭を掻く男を思い出し頷く。
『あいつは同胞の血を愛でるあまり、夜兎を殺せる力を持っていながらあえて手加減して殺さない。それが夜兎の血に最も恥ずべき行為だと知りながらね。いつまで経っても治らない悪い癖だ』
「きっといつか、それが命取りになる」
『!』
「お前はそう危惧しているんだろう?」
『…翠って超能力でも使えるの?』
きょとんとした表情の神威を一瞥し、歩みを止めることなく言葉を続ける。
「いずれ、守ろうとした同族に食い殺されるかもしれないな」
『…』
「私達の体の底から湧き上がる殺人衝動は義理や情などの理由では制御できない。この体に流れている血も…渇きを満たそうと常に血を求めている。しかしその部下とやらはそんな化物を愛でるというのだろう?私はむしろ尊敬に値すると思うがな。それに何と言っても、本来孤独であるはずの夜兎に…お前についてきてくれてるんだ。それだけでも十分幸せなことだろう」
小さく笑う翠を見て、神威が足を止める。突然聞こえなくなった足音に気付いた翠がちらりと視線を送れば、先程まで相槌をうっていた神威は俯いて立ち竦んでいた。
「気に障ったか?まあ、お前が今の答えで納得するはずは」
『翠は、俺が羨ましいの?』
その言葉に、翠の足がぴたりと止まる。一瞬驚いたように目を見開いた翠は微かに目を泳がせたが、返事を求める声でゆっくりと振り返った。
「羨ましい、か」
その声で顔を上げた神威が見たのは、困ったように笑う翠だった。
驚きに目を見張った瞬間、曇天から降って来た一筋の銀糸が白い肌の上で跳ねる。
それが傷一つない頬を滑り落ちた時、艶やかな唇が弧を描いた。
「生憎その感情が、私にはわからん」
一人に慣れ過ぎたのかもな。
小さな呟きは、突然振り出した激しい雨音の中に消えていった。