閉ざされた扉を一瞥し、人の気配がなくなったのを確認した阿伏兎が肩を竦める。
『まあ、とにかくそういうこった』
「悪乗りした私にも非はあるだろう」
『大方あっちが吹っかけてきたんだろ。構うこたァねェよ』
「仕事に影響は?」
『どうせあとは帰還するだけだ。次の任務までは時間があるだろうし、そのうち治るだろ。夜兎の回復力はお前さんも知ってるはずだ』
「…そうか」
安心したように呟く翠を見て、阿伏兎ががしがしと頭を掻いた。
『それで?アンタは海賊に攫われちまったわけだが、あの星に心残りはないのか?』
「まあ、特に思い入れもなかったしな」
『家族は?』
「幼い頃は母親と二人で暮らしていたが、もうその記憶も薄れてしまったよ」
『あー…そりゃ悪いことを聞いたな』
「いや、気にしてない。二十年近く一人でいれば自然と慣れてくる」
『…そーかい』
どうやらその言葉は嘘ではないらしい。内心どう思っているか阿伏兎には分からないが、少なくともその横顔から哀愁というものは微塵も感じられなかった。
自分の役目もここまでか、と椅子から立ち上がった阿伏兎に、ベッドに横たわる翠が視線を向ける。
『母艦につくまでここで大人しくしてろ。怪我人に頼むのもアレだが、団長が来たら相手してやってくれ』
「ああ、わかった。…阿伏兎、と言ったか」
『あ?』
「ありがとう」
予想外の言葉に目を瞬かせる阿伏兎を見て、翠が笑う。最初戦場で見た時は何を考えているかわからない寡黙な女だと思ったが、案外そうでもないようだ。少なくとも、神威よりは常識人らしい感情を持ち合わせているらしい。
珍しく真正面から人の厚意を受け取った海賊は、返事を返す代わりに片手を上げて医務室を後にした。
再び医務室の扉が開く音に閉じていた目を開けると、見慣れたサーモンピンクが視界に映った。頭に巻かれた包帯と顔に張られた湿布に不満を覚えた翠が顔を背ける。
『や、翠。元気?』
「どうも、団長サマ」
『やだなぁ、そんな堅苦しい呼び方やめてよ』
「…重傷を負った私とは随分な差だな」
結果はどうあれ、途中までは互角だったはず。大敗を喫したとは思いたくない、というのが翠の本音だ。それが何故ベッドから起き上がれない程の重傷者と戦艦内を自力で歩き回れる軽傷者という大差を生み出してしまったのか。
不満に眉を寄せる翠を見て、神威がにこりと笑った。
『案外翠って負けず嫌いなんだね』
「…」
図星をつかれた翠はばつが悪そうに顔を逸らす。たったそれだけの動作で身体中が痛むのが気に食わず再び膨れると、椅子に腰かけた神威が何の前置きもなく疑問をぶつけてきた。
『翠はあの星にいたかった?』
潔く死を選んだところをお前が強制連行した癖に、という文句は喉の奥に仕舞い込む。そんな嫌味はこの男には通用しないのだとこの数日で良く学んだ。第一、彼の行動に異議はない。
「別に、あの星でしか生きられないわけじゃないからな」
『…そう』
「確かにあの場所での生活はそれなりに楽しかったが」
生まれ故郷でもあるが、これといって思い入れがあるわけでもない。
中途半端に言葉を区切った翠は神威に向き直った。
「興味を持ったから」
大人しく言葉の続きを待っていた青い瞳が瞬きを繰り返す。
『興味?…何に?』
本気でわかっていないのか、わかっていて気付かないフリをしているのか。翠は不敵に笑う確信犯の男を見て、同じように笑った。
「さあな。だが、兎の本能というのは中々に厄介らしい」
乾いているのは、何も一人だけではないということだ。