鬼さんこちら、手の鳴る方へ


「鬼の子を出産するっていうのは、やっぱり相当体力が無いと駄目なものかしら」

下腹部を擦って悩ましげにため息をつけば、畳一面に豊かな髪を広げる男が眉を顰めた。浅黒い素肌に刻まれた模様は、今日も惜しみなく晒されている。

『…マジかよ』
「嘘よ」
『ッお前なぁ、もう少しまともな嘘つけよ』
「じゃあ本当ね」
『あー…俺に思い当たる節が無いってことは、風間かぁ?』
「いやだわ、あの人が人間の小娘に見向きするとでも?それに私、千鶴ちゃんとは仲良くしていたいもの」
『いや、お前なら案外イケるかもしんねぇぜ?』
「それ、褒め言葉になってないわ。というより、あんな横暴な鬼が旦那なんて私絶対嫌よ。あの物言いを少しでも善処してくれるなら考えない事もないけど、あの男が女の為にそんな努力するとでも?絶対ありえない。そんな事が起こりようものならそれはまさしく天変地異ね。槍が降るかも。言っておくけどあれは従順な千鶴ちゃんだからこそ成せる業よ。それに何も自ら胃に穴をあけるような事しなくても、ねぇ?」
『…ほんとにお前あいつの事嫌いだな』

言いながらごろりと寝がえりを打った鬼の髪に触れる。ああ、いつ触れてみても腹が立つくらい綺麗な毛並みだ。

「(あの子は、今頃どうしているかしら)」

思えば彼女ともかれこれ数年の付き合いになるが、まさか揃いも揃って鬼と添い遂げる事になるとは思いもしなかった。もっとも、彼女は元々”鬼”であるのだから正当な選択なのだろうけど、すると必然的に何故自分がこの場にいるのかと問いただされるだろう。

簡単な話だ。決して私の意思では無い、と言えば万人は大概可哀想なものを見るような眼で私を気遣ってくる。けれど私自身は早いうちから割り切ってしまっていたので何も思う事は無いのだが、今更言ったところで立場は悪くなるだけだし、彼らの同情を引くのだって案外悪い気はしない。とまあ、此処までの過程はともあれ、結果的に何の感情も湧かない驢馬顔の亭主と添い遂げるより数倍幸せな日々を送っている。

「あの鬼の相手をするなら、まだ貴方の方がいくらかマシよ」
『一緒にすんなって』
「一緒のようなもんでしょ?京にいる時の事、忘れたとは言わせないわよ。新選組や天霧さんにどれほどの迷惑と苦労を掛けた事か…」
『説教なら聞かねぇぞ』
「それにしても、私はてっきり千姫様と結ばれるのだとばかり思ってたわ」
『ねぇよ』
「だって貴方、見るからに嫁の尻に轢かれそうじゃない?亭主関白なんて糞くらえーって感じのお姫様なんてピッタリ」

千姫様とも短い付き合いだが、京にいる頃に意気投合してからはお互い気心知れた良き友人だ。

『お前絶対俺の事嫌いだよなぁ?そりゃ俺だって、出来るなら亭主らしく踏ん反り返っていたいもんだが、お前やあの姫さんが相手となるとそうもいかねぇんだよ』
「それでも、今の時代人攫いなんて流行らないわ」
『…それは、お前が嫌そうだったから』
「誰かさんのせいで折角舞い込んできたお話が破談になったのよ?我ながら勿体無い事をしたと思うわ」
『っじゃあ逆に聞くけどな、その相手を見る影もない位伸したのは誰だっての』
「少なくとも、誠実であるべきはずの娘さんはしないわね」
『じゃあお前は武家の娘じゃなかったってこった』

気に入ったから連れ帰って来た、なんて。
どこぞの悪党じゃあるまいし、あの頃は私の意見を聞いて欲しいとも思ったがそれももう昔の事だ。この地での生活を知ってしまった私としてはもう故郷に帰る気など微塵も無い
けれどやはり、彼の勢い任せとも言える行動を理解してはいないわけで。

「(…女って、本当に面倒な生き物ね)」

退屈を紛らわせてくれた彼には十分感謝してるし、数か月寝食を共にしていればそれなりに情だって湧く。だからこそ、証拠となるそれ相応の態度――『言葉』が、欲しいとさえ思ってしまうのだ。

『あー…さっきの話だが、俺と試してみるか?』

不意を突いた彼の言葉に、反射的に開きかけた口を閉ざした。そしてゆっくりと言葉を選び、極上の笑顔で用意してあった彼への返事を返す。

「お断りするわ」
『んだよつまんねぇなぁ』
「だって貴方、純血の鬼を増やすために鬼の娘と交わらなきゃいけないんでしょ?」
『は?…まあ、そりゃ風間たちがなんとかすんだろ。それとも、人攫いを働く鬼は嫌いだって?』
「あら、私は貴方の事大好きよ?旦那様ですもの、愛着くらいは湧いてるわ」

自由奔放で掴み所の無い殿方なんてまさに理想通り。それでいていざとなった時は頼りになるし、可愛さと(鬼の友達二人には理解できないと苦笑されてしまったが)無邪気さを兼ね添えていながら、妻を見守る寛大な心とそれに見合った逞しさも持っている。
然程重要視するわけでもないが、それに加え莫大な財産なるものまで付いていたのだから驚くしかない。なんて素敵な人に攫われたのだろうか。
幼い頃に何度も夢見て、周りからはそんな人間いないと言われ続け早数十年。日頃の行いが良いせいか、どうやら神様(この場合は鬼様とも言う)が、私を見放す事は無かったらしい。結果的に人間ではなかったわけだが、そこはまあ私の求める理想が人間の域を越えてしまったというだけで、他は何も問題ないと自負している。むしろ融通が利いて楽だとさえ思ってしまうのは如何なものかと思うが。

『…お前さぁ』
「?」
『何で俺がわざわざお前を連れてきたのか、考えた事ねぇのか?』
「さあ?暇潰しか雑談相手か、はたまた一時の興味か…、趣味?」
『最後だとしたら俺確実に危ない奴だろ』
「じゃあわからないわ。どちらにせよ私に選択権は与えられなかったもの。だから、例え貴方がどんな危ない趣味を持ってても、私は寛大な心で全てを受け止める義務があるのよ。何をしても止める気はないけど、程ほどにね」
『…ほんと、何でこんな奴攫ったんだか』
「私が聞きたいわよ。まさか生きている内に人攫いに遭うなんて思ってもみなかったわ。それも相手は鬼って貴方、どこの世界のお話よ」
『その人攫いを選んだお前も相当だけどな』
「人聞きの悪い事を言わないで頂戴。私の目は確かよ」

ふわり、
開け放たれた障子から春の匂いを運ぶ風が二人の間を駆け抜ける。頬を撫でる風は思いの他心地よくいつか見た枝垂れ桜を連想させた。

『…早いよなぁ』
「懐かしい人達でも思い出した?」
『ああ…単に気に食わないってだけで、自分より数倍もデカい男の顔面踏みつけた女の事思い出してた』
「あらいやだ、そんなはしたない事するなんて。何処かの矢場女かしら?」
『それが武家の娘なんだとさ。意志を貫くってのは確かにそうだったが、礼儀礼節を弁えるのも奴らの教えにあるんだろ?』
「礼儀礼節を弁えろ、女は泣くな、雨に濡れるな、爪はこう切れ化粧はああしろこうしろ、なんて。柄じゃなかったのよ。私ね、父と母の教えは納得していないものが殆どなんだけどその中でも群を抜いて『三従』の意味がわからないの。だってそうでしょう?どうして殿方に従わなければならないのって話よね」

ただ私は、思いのままに生きてみたかった。決められた武家の女としての生き様ではなく、自分がしたいと思った事をする。望んだ生き方をする。そんなありふれた自由が欲しかったのだ。

「だから、貴方を選んだのは運命だったと思うの。何物にも捕らわれない自由な貴方が―――匡が、私の興味を引いた。…私の心はもう、とうの昔に攫われていたのね」
『…そうかよ』
「ええ」

言いながら肌に差す朱を指摘すれば彼は背中を向けてしまった。同時に揺れる髪にそっと触れれば、彼が耳まで赤く染めている事に気付き何故だか此方まで熱くなる。

暫く経ってから、大きな背中がぽつりぽつりと、懐かしい日々を語るかのように音を漏らした。

『俺は人間の女になんて、興味の欠片も無かったんだよ。…まあ、確かにそうだよな。俺ら鬼を抹殺しようとする種族は皆同じだと思ってたし、何より奴らに何の”価値”も見出せなかった』
「そう」
『けどな、その考えは一人の女との出会いで一転した。…俺はあんとき初めて知ったんだよ。一目惚れってのがこの世に存在する事を』

耳に流れ込んできた言葉に、思わず数回目を瞬かせる。私の耳が正常ならば今有り得ない単語が聞こえた気がする。

「…雰囲気に酔うなんて、貴方らしくもない」

絶対嘘ね。
心の中で呟いたつもりだったが、それはしっかりと彼の耳に拾われていたようだ。

『いいから聞けって。…自分でもらしくねぇと思うが、今言ったのは嘘じゃねぇよ』
「本当かしら」
『嘘でわざわざこんな木っ恥ずかしいこと言うかよ!大の男に蹴り食らわしながら高笑いしてる女に惚れたとか、俺だって信じたくなかったっての』
「ちょっと、貴方も伸すわよ」
『案の定近寄ってみれば口から出るのは暴言と嘲笑だし、もう最悪だと思ったわ。あー俺も終わったなーって』
「何?殺されたいの?」
『けど、いつからかお前の事しか考えられなくなってた。お前が…名前が居ないと駄目になってる事に気付いたんだよ』
「…」
『情けねぇよなー。鬼が人間に惚れて、拒絶されたくないから有無も言わさず攫ってきたなんて』
「…馬鹿ね。本当に嫌だったらあの時自害でも何でもしてたわよ」

護身兼自害用の道具を持つのは我が家の代表的な教えだったと記憶している。

『んじゃ、俺は自惚れてもいいってことか?』

薄らと朱色を残して起き上がった彼の髪に手を差し込めば、癖のある髪が珍しく素直に従った。

「言ったでしょう?好きに決まってるじゃない。匡の事は心から愛してるわ」

ぴくりと揺れた肩が恨めしそうに振り向く。

『…じゃあ何で、子供は嫌がるんだよ?』
「あら…」

私の発言を気にしていたなんて、見た目に寄らず小さい事を考える鬼だ。それでも、愛しい事に変わりはないのだけれど。

「さっきも言ったでしょうけど、貴方はもっと子孫繁栄の為に損得を考えるべきよ」
『ハッ、そんなの誰が考えるかってんだ。俺は名前との子が欲しいんだよ。鬼の為だとか、そんなんじゃねぇ…愛した女との子が欲しいと望むのは、駄目な事なのかよ?』
「…原田さんみたいな事を言うのね」
『あー、あいつも同類みたいなもんだから…ってお前、あいつにそう言われたのか?』
「いいえ?永倉さんとお話していたのを聞いただけよ」

どこか安心した様子を見せる彼の背に凭れる。たったそれだけで落ち着かないように体を揺らす愛しの旦那様にふふっと笑って言葉を紡いだ。

「私もいつかは欲しいと思っているわ。でも、そうね…今はまだ、新婚気分を楽しみたいのよ。だから、我慢がきかないようなら好きなだけ他の女を抱きなさいな」
『…ほんとお前ってわっかんねぇよな。人間ってのは普通嫌がるもんなんだろ?』
「その言い方だと、女鬼は旦那に捨てられても平気だということ?」
『…』
「そんなわけないじゃないの。女はいつだって愛する殿方の一番でありたいものよ。旦那様の心が他に移ろうなんて、そこいらの淑女さんなら兎も角、私じゃ無理ね。殺しちゃうかも」
『へえ?そりゃ殺したいくらい俺の事が好き、って捉えてもいいのか?』
「貴方がそうと捉えたなら、間違いではないでしょうね」
『安心しろ。俺はもうお前以外の女を抱く気はねぇよ』
「…そう、」

不謹慎だと思いつつも喜んでしまうという事は、私もかなり深みにはまったようだ。

「でもきっと、飽きはすぐに来る筈だから『名前』
「…旦那様に軽口を叩くのは私の癖ね、善処します。何なら三歩下がって歩いた方がいいかしら?」
『お前にそういうのは似合わねぇからやめとけ』
「じゃあ、三歩前?」
『ったく…お前はここが一番お似合いだっての』

若干乱暴に引き寄せられる肩に、未だ鮮明に覚えているあの力強さが重なった。

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