愛の光なき人生は無意味である


手元の分厚い小説に熱心に視線を注ぐ後ろ姿に近づく。ぺらり、ペースよく一枚ずつ進められていく音。

『よう』

数回手を動かした所で声をかければ、冷やかな音が返って来た。

「何か御用でも?」
『いや、特にねぇ』
「そうですか」

こちらを見ようともしない、素っ気ない態度。雪村とは似ても似つかない正反対な二人。なぜ二人の仲が良いのか、興味がないと言えば嘘になる。

『それで、今日は何読んでんだ?』
「さあ、何でしょうか。どうせ言ったところで土方先生にはわかりませんよ」
『そりゃ俺の事を馬鹿にしてんのか』
「馬鹿にする?さて、何をおっしゃっているのやら。先生には常に敬意を払っているつもりですが」
『…そうかよ』

つまらない女だと思う。こうして話しかければいつも同じような返しで軽くあしらわれる。それでも何故こうして彼女に近づくのかと問われれば、自分の中で信頼を置く人物の言葉があったからだろう。

『(こいつの中に、原田の興味を引く何かがあるとは到底思えないが―――)』
「つまらない女で結構です。自然体とまではいきませんが勉強は結構好きですし。ああ、自覚症状はありますから心配には及びませんが」

淡々と与えられた台詞を読む機械のような抑揚のない声。心を読まれたのかと一瞬こっちが吃驚してしまう。顔の筋肉が歪んだ瞬間なんて見たこともない。

『(…一体原田は何を見たっていうんだ)』

ほんの悪戯心が頭を擡げればもう自制心なんて無いに等しくなる訳で。さらりと零れ落ちた黒髪を絡め取る。

「…何のつもりですか」

それはまるで野生動物の威嚇。素直に驚く。言葉を継げずにいると、次第に形の良い眉が顰められた。パタンと重い音を立てて閉じられた本の表紙には、どこの国の言語かもわからないような文字が記されている。

「興味本位なら即座にこの手を退けてください」
『…嫌だっていったら?』
「挑発になんか乗りませんよ。くだらない質問に答える意味はないですから」

仕方なく手を離すも無表情を崩さない彼女に、意地の悪い質問を投げ掛ける。

『興味の欠片もねぇってか?』
「先生のその言葉が人間的本能の欲求故のものだとしたら、私はそもそも必要性を感じないから、と答えます」
『あ?』
「恋愛なんて、くだらない」

嘲笑を含んだ言葉が零れた。

「他人のそれは微笑ましく思いますよ。可愛い子がさらに可愛くなれる魔法といえばそれしかないでしょう?全ての物事に置いて努力を惜しまなくなるなんて、恋愛最強説です。実際科学でも実証されてますし。でも私にとってはそれまでの話なんです。直訳すると、だからそれが何?」
『…じゃあお前は、』
「前科があったからとかじゃなく、最初から"無かった"んです。そういう感情が。ついでに言えば告白するのもされるのも甘酸っぱい青春も何もかも。ね、見たまんまでしょう?」
『それはお前がまだ知らないだけだ。もしかしたら、これから体験する事もあるかもしれねぇだろ?』
「先生は何か勘違いしてませんか?恋愛の必要性を感じないと言っても、あくまで人間の自立を主体に置いた時の話です。例えばそれが自己の快楽の為だとすれば話は別です。勿論その点においても興味は皆無ですが、興味がないという事はその意欲を引き出しさえすればあるいは、っていう可能性もあるんですよ。私みたいな人間でも、その欠片くらいはあるでしょうし」
『…言ってる事矛盾してねぇか?』
「人間なんて矛盾だらけの生き物です。…でも私は、案外そんな矛盾だらけの曖昧な人間が好きなんです」

言ったきり閉口してしまった横顔を盗み見ながら、彼女の発言を頭の中で復唱する。

『(…素直じゃねぇ奴だが―――)』

そこまで思い返してハタとある事に気付く。確かに、原田も同じことを言っていたのだ。
思わず緩む口元を押さえながら素直じゃない彼女の本音を言葉にする。

『難しい事言ってるが、結局のところお前は恋愛っつーのを体験してみたいって事だろ?』
「つまらない憶測は止めてください」
『なあ、名前』

反射的に顔を上げた彼女の白い肌に手を滑らせれば、整った顔が若干困惑したように睨み返してくる。すると無表情を崩した達成感と同時に、今度はまた別の興味が湧いてきた。目の前の彼女は俺の言いたい事を瞬時に理解したのか、凛とした双眸が珍しく戸惑いに揺れていた。

「…今度は何の真似ですか」
『何って、お前恋愛初心者だろ?』
「それとこれとは話が別でしょう。私は今先生の行動の意味を聞いてるんです」
『お前はそれがわからないほど子供でもないだろ?』

そう言えば言葉に詰まったように視線を逸らす。

「原田先生にも言いましたけど、調子乗ってるとその内痛い目に遭いますよ。女という生き物は案外怖いものですからね」
『照れ隠しか?』
「警告です。夜道で刺されても文句言えませんよ」
『ねぇよ。恨みはまあ、多少は買ったが…』
「ほら、やっぱりそうじゃないですか」

ほんの一瞬。目元を和ませて微笑した彼女に体の一部がどくりと音を立てる。

『(こりゃ、思ってた以上にやべぇな…)』

ただ純粋に、その笑顔が欲しいと思った。自分だけのものになればいいという抑えきれない欲求がとめどなく湧き上がる。だったら、一層の事―――

『名前』
「?」
『お前さえ良ければ、その大役は俺が担ってやるよ』

きょとんとしたように目を見開く彼女の顔が、見る見るうちに赤く染まっていく。

「…先生に務まるんですか」
『さあな。それはお前次第だろ?』
「そんな無責任な、」
『あーもういいから、少し黙ってろ』

首を傾げて真っ赤な顔に近づく。抵抗する気配を感じるが全部気付かないフリをすれば、どこか期待したように目を瞑る姿が映った。

 - Back - 
TOP