幼き面影に重ねる


『お…―だ――…!おい、大丈夫か!』

同僚の呼びかけにハッと我に返れば訝しげに眉を寄せた顔が視界に広がる。

『珍しいな、何か考え事か?』
『…いや、何でもない』
『さてはお前…女の事でも考えていたか?』
『!』
『おっと、図星か』
『いや、違…』

羨ましい奴だな、と自分と同じ黒服を纏う男が目を細め小突く。かつて能面のようにぴくりとも動かないと称された表情は尚健在であると自負している。が、咄嗟に発した言葉は尻すぼみになっていく。

『(当たらずと雖も遠からず…か。曖昧なそれは、一体何と呼ぶべきであろうか)』

恋心なんて、そんな生温いものでも。ましてや嵐のような激情でもない。ただ、無謀な理想を抱いて夢を追いかけているだけなのだと。完全なる独り善がりな筈なのに不思議とそう思いたくはないのだと、俺は同僚に気付かれぬよう息を漏らした。

『じゃあな、また明日』
『ああ』

同僚の家の前で一言二言別れを告げ、ふと顔を上げれば随分と変わってしまった町並みが目に飛び込んでくる。ここ数年の間に時は江戸から明治になり、人が流れ、街も明治維新を経て賑わいを見せ全ては移ろいでいく。変わらないものこそを信じていると、そう呟いていた頃が酷く懐かしく感じる。同時に脳裏を掠める淡い思い出は今でも心の奥に仕舞い込んだまま

"――この手は人々を守るためにあります"

『…!』

ふと、真横をすれ違った懐かしい香りが鼻をつく。それと同時に掘り起こされた言葉で咄嗟に笠を被った女の細い腕を引きとめた。驚く女と同じく自分自身も突然の行動に思わず目を見開く。

『(俺は何、を…)』

完全に気を抜いていた。過去の思い出が知らぬ間に内側から自分を突き動かしているとしたら随分と質の悪いものだ。

「あの、何か…?」

不安そうに笠の下から聞こえた声に慌てて強く掴んでいた手を離した。

『す、すまない!少し…知り合いに似ていたものでな』
「いえ、お気になさらず」

ふっと小さく三日月を描いた紅が脳裏のそれと重なる。淡い期待。高鳴る胸。じわりと心臓の辺りを侵食していく何かに思わず喉を鳴らした。

『(ああ、間違いない――)』

確かな証拠も無いまま俺は一瞬で判断した。言いたい事は山ほどある。かつて言えなかった感謝の言葉も、彼女への謝罪も、疑問も多少の嫌味も、ひいては今自分が持て余すこの気持ちも。全部、いつか会えたら言おうと心の隅に置いていた言葉。
だが俺の口から飛び出したのはこれのどれにも当てはまらない、かけ離れたまるで冷水のような言葉だった。

『…あんたは、何処の者だ』
「…」

返事が無い代わりにひゅっと喉が鳴った。果たしてそれが自分のだったのか、或いは彼女のものだったのかはわからない。

『―…ずっと、俺たちを騙してきたのか』

ぎゅっと笠を強く握る細く白い指は心なしか震えている。伏せられたまま恐らく黒曜石を思わせる瞳を、再び目にするのを長らくの間望んでいた。全て過去の事だと、過ぎてしまった事だと割り切ってしまえば何てことはない。しかし自分の中の何かが絶対に許す事は出来ないのだと警鐘を鳴らしている。許すものか、と。
再び開きかけた口を強く結ぶ。喉の奥が酷く熱い。この暑さは現在の穏やかな陽気には似つかわしくないものだ。今度こそと決意を固めれば自然と口がそれ自体で意思を持ったように動く。

『(一言でいい)』

たった一言、否定の言葉を聞けたら。或る筈もないのにそう思っている自分がいた事に酷く困惑した。

『頼む…今一度、顔を見せてはくれぬか?』

驚くほど弱りきった声が漏れる。ぴくりと動いた指は、今度はしっかりと笠を握った。

「やはり…貴方には見つかってしまいましたか」

笠を降ろし悲しそうに笑う女はかつて自分が身を焦がすほど想った人。変わらない笑顔。変わらない香り。変わらない穏やかな雰囲気。一層女らしく、美しくなった事以外何もかも昔と変わらない、愛した女の姿。

「ご無事で何より…斎藤さん」

全てを、お話致します。

そう呟いたか細い声の余韻に浸るように、しかしこれから語られるであろう事実に胸を痛めつつ眉を寄せながら目を閉じた



柳の下の日陰に入れば明治の賑わいがどこか遠くに聞こえる。隣で微笑を浮かべる彼女を横目に今度こそしっかりと口を開いた。

『今まで、何処にいた』

新選組という組織が散り散りになっていく中、彼女の存在もまたその混乱に掻き消されていった。その時点で気付いた者も多かった。溢れそうなまでの情というものは人を根本的に変えてしまうものだと、よくよく考えればその際に学んだのかもしれない。
すると長年追い求めていた横顔は悲しそうに目を伏せる。たったそれだけで嫌でも気付いてしまう。やはり彼女は、斬らねばならない人間だったのだと。

「斎藤さんがお察しの通り…元は、長州の人間でした」
『…』

驚きは、ない。ただ彼女に"騙されていた"というぶつけようのない怒りが沸々と込み上げてくるだけだった。しかし気付いていたではないか、と誰ともなく呟く。

『やはり俺は…俺たちはあんたに、騙されていたわけか』
「…否定はしません。自らの行いの責任はそれ相応の罰を受ける事だともわかっています」

顔を上げた彼女は懐かしそうに目を細めた。変わらず真っ直ぐ前を見る黒曜石が酷く懐かしい。

「まだそう遠くもない数年前の事です。私は長州に忍として腕を変われ、新選組に密偵として忍び込みました」

つらつらと吐き出される言葉は何処か客観的で。自分が所属し一つの組を纏めていた紛れもない事実も全てが遠い昔のような気がしてならない。

「隊士に上手く溶け込み情報も入手し…全てが順調だったある日、私は過ちを犯しました」

過去を見ているのかと錯覚する黒曜石が、しっかりと此方を向いた。

「あろうことか私は惚れてしまったのです。寡黙な三番組の、組長さんに」
『!』

目を見開く事しか出来ない俺に困ったように微笑む名前は、何処か涙を我慢しているようにも見えた。

「最初はほんの出来心でした。普段無口な彼から情報を聞き出そうと、一種の興味本位で近付いたのです」

"斎藤さんは、私と話してくださらないのですね"
"…何処の密偵ともわからぬあんたと話すような事はない"
"あら、連れないお人ですこと…"

「全ては藩の為、そう言い聞かせていたのにも関わらず私は知らない内に彼に惹かれていったのです」

"貴方は己の欲の為に殺したわけではありません。人々を守るために殺したのでしょう?"
"…そんな事を言われたのは初めてだ"
"この手は人々を守るためにあります。もうこれ以上、自分を責めるのはおよしになって…?"
"…変な事を聞く。…あんたは、本当の名を持っているのだろう?"
"…――名前。名前と申します、斎藤さん"

「初めて体を重ねたあの夜…もう後戻りできない事を確信しました。…ですが、全ては遠い過去のこと」

明治となった現在、いつまでも藩だ幕府だと昔にこだわる必要は無いのです。小さな紅がため息のように言葉を紡いだ。それは勿論当人同士もわかっているが、どうにも過去を生き抜いてきた武士としての誇りまでも棄ててしまうような気がしてならない。だからこそ、彼女は今まで一度も新選組という組織に戻る事は無かったのだろう。きっとその身に何があったとしても、舞い戻る事はなかった筈だ。

「当然、裏切り者は藩に帰ることも許されません。この数年、ふらふらと流れるままに生きてきました」

はて、と首を傾げる。

『何の事だ?密告でもない限り藩の者に判るはず…――』

それを目にしたのは、ほんの一瞬だった。隣に静かに佇む彼女はふわりと、大輪の花が咲き誇ったように笑った。声が、喉の奥に飲み込まれる。目尻が優しく下がり、紅は自然と弧を描く。何故だか胸が痛い。締め付けられるような痛みに思わず眉を寄せる。酷く愛しいものを見るような目で、曇りのない瞳は遥か奥を見ていて。強く、何かに縛られたように立ち竦む俺はこの上ないほど目を見開いた。

『母様!』
 
幼子特有の高い声を上げながら駆け寄ってきた子供を隣の彼女が愛しそうに引き寄せる。声が、出なかった。指先から血がなくなっていく感覚も今は気にならない。どくりと、心臓が音を立てる。背中に流れる冷たい感覚に唇を噛んだ。

自分は今、何を見ている?

『?』

不思議そうに自分を見つめてくる黒曜石の瞳と癖のある紫がかった髪は酷く見慣れたものだ。

『ま、さか…』

思いのほか動揺しているのか自分から漏れた震えた声に幼子の母親――名前は悲しそうにふわりと笑った。女ではなく、母としての穏やかな微笑みに再び心臓が掴まれる。そして思う。彼女にこの顔をさせる原因となったのは少なからず自分も影響しているのか、と。

「あの頃、私達が確かに愛し合っていた証拠です。ごめんなさい…本当は、明かすつもりはありませんでした」
『っ、何故…黙っていた…!?』

眉を寄せ珍しく声を荒げる俺に名前はやはり、と目を伏せる。

「当然の、お言葉だと思っています」

違う。決してそんな顔をさせたいわけではない。ただ、

『全て、この小さな体で…一人で、抱え込んだのか?』
「!」

身篭っている事が発覚し困惑と自責の念が渦巻く感情の中、それでも名前が嬉しかったのは事実なのだろう。彼女の顔を見れば瞭然だ。もとより、こんなにも真っ直ぐな瞳を持つ彼女が堕ろす等考えるはずもない。すると名前は細く息を吐き出した。悲痛を我慢しているような、今にも泣き出しそうな表情。

「たかが一匹の女狐に人生を掻き回されるなんて、酷な話ではありませんか?…それでもやはり、喜ばれるわけはないと思っていましたが…――っ!」

彼女が言い終える前に体は言う事を聞かずに動く。華奢な背中に回した手はなんとも情けない事に震えている。…ああ、だがおそらくこれが。

『嬉しくない、わけがないだろう…っ!』

幸せ、というものなのだろう。
激しく動揺した姿を初めて見たであろう名前は驚いて顔を上げた。困ったようにおろおろと視線を彷徨わせる彼女を引き寄せる。

『名前…っ会いたかった、長い間…待ち焦がれていた』
「斎藤、さん…っ」

空いた時間を埋めるように力強く、それでも壊れ物を扱うように優しく抱き寄せれば微かに香る彼女の香り。まるで内側から溢れ出るような愛しさに思わず此処が往来だという事を忘れて彼女を求めていた。

「許されない身でありながら、貴方の事を考えなかった日はありません…っ!」
『ああ…っ』

震える華奢な肩も。必死に泣くまいと噛み締めていた赤く熟れた唇も。ただひたむきに想う純粋な心も。その全てが愛しいと、全身が言っているように感じた。

「あ、のっ…さいと、さ…っくるし、」

暫くして耳に届く苦しそうな彼女の声と。

『父、様…?』

先程耳にした幼き子供の困惑したような声に慌てて我に返った。

『(父様、か…)』

その慣れない響きに羞恥こそあるものの、そこに不満という文字はなかった。未だ実感は湧かないが、それでも確かに自分の中での心持ちというものは変化したように思える。
不安そうに見つめてくる黒曜石の前に膝をつく。ゆっくりと手を伸ばせばびくりと揺れる小さな体を名前が微笑んで支えた。自分とは違う柔らかな髪に手を置くと恐る恐る、といった様子で見上げて。

『随分と、大きくなったな』
『ち、ち…さまぁ!』

嬉しそうに下がる目尻は母からそのまま受け継いだのだろう。無垢な表情に自分でも口元が緩むのがわかる。

『(だが唯一悔やまれるのは――…)』

実際にこの目で我が子の成長する様を見届けられなかったことだ。しかし今この手にある幸せを離したくないと、不思議とそのような気持ちになる。

「やはり、父様が恋しかったのでしょうね」

私一人では到底このような表情にすることはできませんでした。そう泣きそうな顔で呟かれる言葉を聞き逃さなかった。

"――この手は人々を守るためにあります"

再び脳裏に浮かんだ言葉に微笑を浮かべながら小さな体を抱き上げた。

『俺の手は守るためにあると、そう言ったのはあんただったな』

きょとん、と。腕の中の小さな存在と愛しく思う彼女が同じ顔をする。まだ理解できるような齢でもないはずなのに、その目はどこか期待に満ち溢れていて。

「私たちが…守られても、いいのですか?」
『当然だろう。あんた達を守らずして何を守るというのだ』

もう一度幼子のように目を瞬かせた彼女はやがて大輪の花が咲いたように、笑った。

「ふふっ…守られるなんて…こんなにも嬉しい事なのですね」
『っ…あ、あんたは、それでいいのか?つまりはその、め、めお、と、に…』

ころころと鈴が転げるように笑う綺麗な名前を目にすると肝心なところで口篭ってしまう。昔から抜け切らない悪い癖が発揮された。口下手とは何とも厄介なものだ、と思う。しかし彼女は少ない言葉で理解したのか頬を赤らめた。艶やかに引かれた紅がゆっくりと、呼吸をするように言葉を紡ぐ。もし今時間が止められるのならば、俺はそれを激しく望む事だろう。何しろ瞬き一つでさえ惜しいのだから。
赤らめた顔を上げ何かを決意した表情に再び心臓が音を立てる。恐らく人生で又とない言葉であり、己の最も欲する言葉が、鼓膜を震わせた。

「私を、貴方様の妻にしてくださいますか?」
『っ…ああ』

例えこの先、誰かに強欲だと嘲り笑われても。
伸ばした手が血に濡れ汚れた手であったとしても。
漸く手に入れた二つの愛しい存在を、俺はこの先手放す事などないのだろう。

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