薄氷
05
「「あ」」
妙にいい声と名前の気の抜けた声が重なり合った。そう、なんと言おうと此処は現世の動物園。本来なら此処にいるべきではない二人が何故か偶然にも出会ってしまった。
「待ちなさい。逃げることないでしょう」
「本能が勝手に…っ」
「貴方は肉食動物でょうが。草食か己は」
狼に見つかった鹿のように。ライオンに見つかったガゼルの如く俊敏に逃げ出したはずだった。本能がそうさせたはずだった。
しかし、今、自分の腕は鬼灯に握られているではないか。どんだけ身体能力高いんだこの人は。もう弱点など彼にはありはしないのかもしれない。
「視察ついでに寄っただけですよ。別に名前さんをパシろうと此処まで来るような労力を使うわけないじゃないですか。呼んだら来るし」
「確かに…。でも確実に恐怖を覚えました」
「貴方も大概失礼ですね」
そして離していると彼はハシビロコウがお気に入りだと言っていた。あの彼らの絶妙な距離感は割と今自分の隣を歩いている男に似ているところがある気がする。
「名前さんは何故此処に?」
「此処の豹、結構イケメンなんです。私に気があるようで」
「あくまで恋愛対象はそっちなんですね」
大量の鳩に囲まれ大泣きしている子供を見かけた。調子に乗ってポップコーンを与えたからだ。これぞ因果応報というもの。少し可哀相ではあるが、鬼灯は素知らぬ顔。
「うーんどうでしょうね…。この人の姿も白澤様に教えてもらった術ですし。本来は姿形の似ているネコ科が好きなのかもしれませんね」
白澤に拾われたとき子猫姿だった彼女に芸を教えようと思い、お手やお代わりなどではつまらないと酔った白澤は自分に術を教えたことがあった。普通の猛極なら変化の術は使えないのだが、何故か素質があったらしく普通にできた。茄子が絵を浮き出せたように。
「この態度のどこに気があるのか教えてほしいんですが」
「やだなぁ。鬼灯さんったら。今流行の"ツンデレ"ってやつですよ。言わせないでください」
サバンナコーナと書かれた入口を入ってすぐに彼はいた。相変わらずクールでこちらを見向きもしようとしないが。若気の至りというやつだ。好きな子に素直になれずついつい冷たく当たってしまう小学生のようなもの。何千年も生きている私にとっては可愛いものだった。
「身を固めたいなら獄卒として働いている猛極は何名かいますよ」
「私飼い慣らされちゃって、爪むき出して亡者襲うなんてムリですよ。喰いちぎるのも悍ましい…」
温室育ち(白澤の甘やかし)によりすっかり野生的本能は失われたタダのネコのような存在に成り果てている名前。本来の姿に戻ったときにあるその鋭い爪は一体何のためにあるというのか。彼女は洗面台の細かい汚れを取るのに役立つと言っていた気がする。
「猛極は人に懐きやすいと言いますが貴方ほど絆された猛極は中々いませんね」
「伊達に人と触れ合ってないですから」
「そして貴方ほど役立たずな猛極も中々いません」
「散々使っておいてよくも言えますね」
子豹の段階で仲間とはぐれて白澤と過ごした彼女は思考的にも動物ではなく人よりの考えや生活に慣れていた。そして人の姿になり始めて以降それがより拍車をかけた。
散々ひとをパシらせておいた挙げ句、無能扱いされることが気に食わなかったのか、名前は鬼灯のスニーカーのかかとを踏んでつまずかせようとした。成功はしなかったが。そして、仕返しなのか鬼灯は丁度彼女の小指があるあたりを狙って靴を踏んだ。ピンポイントで痛かった。
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