今牛若狭の義弟、今牛彗華はきっとこの世で一番の美人だ。
それを本人が疎んでいるとしても。
「彗華」
梵での集会を終えた後、家に戻れば義弟である彗華がソファの上で眠っていた。どきりと心臓が嫌な音を立てる。彗華は眠っている姿すら古めかしく清廉な童話の挿絵のような神聖さがあったが、生きているとわかっていても落ち着かない気分にさせる。その不安定な色気のある寝顔が、眠ったまま呼吸を止めたように見えるのだ。そう、それはまるでジョン・エヴァレット・ミレーの絵画『オフィーリア』のように。若狭は一瞬の動揺を隠しながら音を立てて起こさないように慎重に足を進めた。
「・・・・・・彗華」
黒檀よりも深みのある漆黒の長髪。切れ上がった眦に埋め込まれた世にも珍しい真紅とグレーのオッドアイは今、薄青い瞼に閉ざされている。ビスクドールと比べても白すぎる肌は甘く溶けるように繊細で儚い。東洋独自の淡い彫りの深さとつんとすました小さな鼻、紅を引いているわけでもないのにほの赤い唇がアンバランスで、東洋と西洋の美しい部分だけを混ぜたようなオリエンタル。御伽噺から出てきた花の妖精の可憐さに深海の闇のような昏い色香が纏わりつくそれは、どこか悲劇の香りがする。はるか昔に西洋で憧れられたオダリスクでさえこんなに美しくはないだろう。人を簡単に狂わせる美貌を持った少女のような少年は、その花の顔を青褪めさせながら小さく魘されている。
ああ、生きている。まずはそのことにほっとした。そして悲劇に包まれた呻き声につきつきと胸が軋んだ。きっと、悪夢を見ているのだろう。恐らくは幼少期に起きたという虐めと大人からの性犯罪、あの父親とも呼べないような男と過ごした狂った日々を。本人はもう大丈夫だと気丈に振る舞っているが、幼い頃から受けてきた仕打ちは未だに彼の心に暗い影を落としている。その証拠に昔の夢を見てはその華奢な体をさらに小さくし肩を落としていた。あの帰る場所のない子供のような姿を思い出して小さく舌打ちする。加害者はのうのうと元気に生きているのに、被害者の彼は未だにそのことに囚われているという事実が、若狭の内心に黒い嵐を巻き起こす。まだ思春期を患っていても良い年頃の少年が、自己肯定がないに等しくいつだって自分を責めるのは明らかに不健康だ。若狭は寂しがりで甘えたな癖に甘え下手な義弟の心を傷付けた原因のことを快く思っていない。その本人たちの顔を知らなくても人をここまで嫌えるものかと自身でも呆れるほどに。彗華には見せたことのない凶暴で荒れた昔の自分が顔を出すが、体が小さく震えて身動きするのを見てすぐさまその気配を消した。
「ぅ・・・・・・」
彗華の手が伸ばされ、空を切って落ちていくのを掴んで握る。白くたおやかな手はひどく冷たかった。自分が傷ついていることにすら気が付いていない少女のような寝顔がどこか痛々しい。言いようもない激情が湧き上がり顔を歪めながらも、その青褪めた頬を慈しんだ。頬を撫でれば涙が落ちる目元が緩むことにどうしようもなく安堵して、次いで息を呑む。
「わかさ、く、ん」
耳朶を震わせるような声がうっすら開かれた形のいい唇から零れ落ちた。無意識なのか縋るように握り返される細い指先と真珠のような涙が朝露のように白雪の肌を滑るのが、これでもかと背徳の支配欲を掻き立てる風情があった。あぁ、と感嘆にも悲鳴にも似た呻きが漏れる。この愛しくてしかたない存在を何からも守ってやりたいのに、胸に燻り続ける溶岩のような恋慕がそれの邪魔をするのだ。伝えてしまえ、奪ってしまえと暴れ狂うような本能が鎌首をもたげ囁く。オマエは優しい義兄の皮を被った獣だろうと、白豹と呼ばれたかつての己が嗤っている。
若狭が欲望のままにこの想いを伝えてしまっても。
きっと彗華は逃げないだろう。それどころか、悩みながらも真摯に向き合おうと必死になる姿が容易に想像できた。心を許した相手にはあまりに無防備で、あまりに真剣で甘い彼だから。彗華に好かれている自覚はある。恐らく細やかなアプローチを掛ければ陥落するだろうな、とも思う。
それでもこの煮えたぎるような恋情を言い訳にするには、若狭は彗華のことを知りすぎてしまった。
「彗華、」
握りこんだ滑らかな手にそっと撫でる。「あいしている」と声も出さずに呪いを吐いた。桜貝の爪に唇を寄せる。味がするわけでもないのに、どこか甘い感触が切なかった。
「どうか、いい夢を」
ああ、どうか。
オマエの夢の中でオレがでてきたのなら。
それが救いになりますように。それが守りになりますように。オマエが一時でも優しい夢を見れるなら、いくらだって肩代わりしてやるから、と。尤もらしい理由付けで本人が知れば怖がるだろう執着を隠しながら、それでもただ祈る。
結局、彗華に信用されているというだけでオレも、彼に群がる有象無象と変わらない。
「ごめんな」
その言葉に籠められた意味を正しく理解しているのは、きっと若狭本人のみであろう。