第一章【シロツメクサの呪い】
呪いとは。
人の思いの歪み。負の感情。思い出したくない記憶から生まれた毒物。
呪術師とは。
呪いをもって呪いを制するもの。
2003年、8月13日。夜。
東京、とある屋敷にて。
月がきれいな夜だった。
文句なしの月見日和。八月のスタージェンムーン煌めく、いつかは忘れ去ってしまうような星の輝く夜空。茹だる気怠い熱帯夜の空気とは隔絶されたような、とある某所。氷河の海のような張り詰めた空気が立ち込めた、青白い蛍光灯がちらつく部屋の中。そこに静寂を切り裂くような乱暴に扉を開け放つ音がして、息を切らした男が逃げてきた。
蒼褪めた男だった。じゃらじゃらと悪趣味なチェーンをぶら下げた、成金を思わせる光沢を放つ着物に着られているようにみえるなよ竹のような背丈の男。人を見下すことに長けたような笑みが似合う、狸のような男。そんな印象の強い男が嗚咽を漏らしながら縺れる脚をなんとか動かし、よろよろと走っていた。
その背後から、ゆっくりとした歩みの音がする。かつ、こつ、かつ、こつ。追いかけていると言うには静かすぎてゆったりした靴音はまるで泳がされているようで。実質、わざと逃がしている。いつでも自分はお前を殺すことができる、とでも言うような余裕と事実の狩りの時間。肉食獣が獲物に狙いを定めている。そのことに気がついた男はひっと息を乱しながら後ずさった。
どうしてこんなことに。男の脳内にはその言葉が一つだけ。泣き叫びたくてもそれをすれば、首と胴体がお別れする。それだけは、それだけはと酷くだだっ広い部屋を右往左往する男に、追手はすぅと腰に下げる細くしっかりとした作りの、佩いた刀を抜く。青く冷たい月明かりに、抜身の刃が照らされる。
奇妙な、刀だった。覇気があり、力強く、人を魅了する蠱惑を醸し出す美しい日本刀。所有しているのがこんな業界でなければ飾られるであろうその刀は、怯える男の姿さえ映し取って怪しく光った。静かに抜かれた美しい凶器に、男はこれほど人は青くなれるのかというほどに顔を青くする。青くなりすぎてもはや真っ白で、作られた蝋人形のようだった。
「ま、待ってくれ!」
手をがっと前にだし、否定と悲鳴を混ぜたような声で必死に追手を止めるが、その歩みが止まることはない。かつん、とエナメルの靴が月明かりに現れる。追手の姿が今、ゆらりと光に映る。
黒い皮手袋に包まれる手が握る刀身の抜き身の白刃が月にくっきり照らされ、稲妻のように閃いた。確実にオーダーメイドだとわかる溶ける闇のような質感のダークスーツに包まれる体は大木のようにがっしりとしていて、豹のようにしなやかな細さのある180はゆうに越えているだろう鍛え上げられた体格。こざっぱりした濡羽色の髪と数学のように無駄のない白皙の顔立ちは、繊細でふっと消えそうですらあるというのにどこか不吉で幽鬼のような気配が色濃い。濁ったように暗く濃淡の濃いオニキスの瞳の、陰鬱で哲学的なのに跪きたくなるような傲慢さが黒縁のスクエア型のアンダーリムの眼鏡に隠されている。不吉なのにカリスマ性があって、どことなく男性的な色香を醸し出す危険な毒牙を思わせる風格のある男だった。
しかし、スーツに被った血飛沫の跡や何かわからないものを二つ掴んでいる姿は男にとって恐怖の象徴でしかない。言葉を連ねて歩いてくる青年をなんとか止めようとしても、止まってはくれなかった。
「そ、そうだ!俺の家族!俺の家族をやるから見逃してくれ!規約違反だなんて知らなかったんだ!」
しかしその言葉に青年の足が止まる。それに気をよくした、食らいついたことに内心喜ぶ男はさらに言葉を重ねた。
青年のがらんどうの瞳が、さらに尖った硝子のような色を帯びたことに気が付かずに。
「両方とも女だ、好きに使ってくれていい!だから頼む、頼む山田一族が携わる処刑にだけはーーーーーー!」
「バァカ、自分だけ逃げようなんざそうはいかねェよ」
「へ、」
チッと舌打ちした青年が男のほうに持っていた二つの塊を投げてよこす。男の足元に投げつけられたそれらは、ころりと転がって、
「あ、?」
首だった。二つの首。髪を三つ編みにゆったりと編んだ女の安らかに眠るような顔をした首と、僅かに微笑んで見えるような小さな少女の首。
それは、男の身内の首だった。
「あ、あ、あ、」
信じられないものを見るような目で絶望の声を上げる男に、二つの首を投げた追手は眼鏡の位置を直しながらこともなげに言い放つ。
「よかったな」
「は、」
「俺じゃなかったなら、人間の尊厳何もかも奪われた上で死んでたろうから。うちの連中は血の気が多い。やらなくていいことまでやりたがる。非効率で壊滅的。執行には邪魔なことしかしねェ」
「なに、を」
「・・・・・・喋りすぎた。マァ、コレの次はお前ってことだ」
散々規約違反してきたんだし覚悟してたろ、いいよな?となんの感慨もなく女たちの首に視線を向けて、刀を構える。その構えを見て漸く、男は目の前にいる相手が誰なのか悟る。
江戸時代から明治時代までの死刑、斬首刑を承っていた、そしてこの世界での死の天使。規約破りに呪詛師、秘匿死刑の決まった呪術師や非術師の首を斬る、死刑執行人の家系。死神、死告天使、冥府からの使い。たくさんの死を司る異名を持つ一族。
数年前に代替わりしたその長は、どんな顔だった?
「おま、え、まさかっ」
人斬り浅右衛門ーーーーーーーー⁉︎
その叫びを聞いた瞬間に、刀が男の首を斬った。音もないまま走り寄って、そしてただ真っ直ぐ、斬った。
「え?」と息を吐くような悲鳴と、血飛沫が舞う音が部屋に響いた。
身体中から血を噴きながら首がごとん、と落ちる。ぐしゃりと腰から下の下半身が崩れ落ち、最後に全てが切り落とされた胴体がばしゃりと血を噴き出しだらだらと流しながら倒れ込む。
絶命した。痛みを感じる暇もなく、何が起きたのかを認識することなく逝ったのだ。刀で三等分にされた首と胴体と下半身の離れた体は、あまりに綺麗な断面だった。顔は間抜けなことに目を見開いていて、今にも動き出しそうな顔をしていた。顔だけ見れば、生きて動き出しそうでもあった。
ただ、その目だけが光を失い、死の段階へと歩んでいったことを示している。
「・・・・・・あぁ、そういえば」
そういうふうにも呼ばれてたっけな。
独り言のように呟いた青年は、刀をまた鞘に収めて、汚ねェと顔を歪める。急ぐように帰るそぶりを見せたが、徐に胸ポケットからタバコを取り出す。
ジジ、と火をつけて燻る紫煙を吸い込む男は、そのクマの目立つ目元をゆっくりと閉じた。
「不味い」
「おお、よくやってくれた」
「さすが山田一族よ、今日だけで規約違反を出した呪術家を全て処刑し、家を取り潰しにするとは!これで我らの権威も高まるというものよな」
「邪魔者は消える。出る杭は打たれて当然でしょう。寧ろ罰が当たったのです」
あはははははと響く笑い声は、まるで腐ったヘドロのようにドロドロしている。気持ち悪いほどのその声に一瞥もせず、青年は頭を下げて出口へと歩いて行った。
「これからも頼むぞ」
16代目山田浅右衛門、特級呪術師。佐野慶一郎。稀代の死刑執行人よ。
そののっぺり張り付くような言葉に、血塗れの黒いスーツの裾を靡かせた青年。慶一郎は振り向かず。
ただ光の成るほうへ歩いていくのみであった。