長く短い夜が終わった。漆黒のカーテンを引いて黎明を迎えた東からじわじわと朝焼けが広がっていく。藍色というには鮮やかで、青空というには深みのある色が朝日を連れてくる。その様子を、マンションの窓を開けてぼんやり眺めていた。昔は、朝が嫌いだった。どうしようもない憂鬱と言語化できない不安を思い出させてしまうから。けれど今はこの朝焼けを見るのが、結構好きだったりする。
「オイ」
眠たげな掠れた声にパッと振り向く。視線がかちあうと呆れたような紫水晶の瞳がこちらを見ていた。その姿は上半身裸で、風呂上がりなのかほかほかと湯気が立っている。片手には安いアイスのカップを乱雑に持っていた。
「・・・・・・服着なよ・・・・・・」
「ん、ぁあ。暑いから」
「そういうことじゃなくて・・・・・・」
その均整のとれた一種の造形美のような肉体が惜しげもなく晒されるというのは、目のやり場に困る。というか、窓を開けているというのになんの恥ずかしげもなく半裸なのはどうなんだろうか。あとあのアイス、私のなんだけど。つらつらと取り留めのないことを考えながら眉を下げると、長い睫毛がゆっくり瞬きし、瞳に美しい影を落とす。今牛くんは、こともなげに言い放った。
「別に、見慣れてるだろ。今更恥ずかしがるな」
「なっ・・・・・・そ、それは、さ、うん。多方面に誤解を招くから言葉を選ぼう⁉︎」
「誤解も何も、オレはいつもお前を抱いてるつもりなんだけど?」
ストレートな言葉をぶつけられて思わず頬が赤らむ。間違いではない、間違いではないけれども!
何も言えなくなっている私を見て今牛くんは小さく鼻を鳴らして窓のそばにあったソファに座る。あっつと漏らした声が含む謎の艶やかさに目を逸らした。この人、何の気なしにいい声をしていらっしゃる。この声にだけはどんなに時を過ごしても慣れる気がしない。小さく悶絶する私を気に留めることなく彼はアイスの蓋を開けていた。すらりと伸びた足を組み替えてしゃぐしゃぐと氷を削り出すような音をさせながら木のスプーンで掬う姿をそっと盗み見る。奇抜な色をした髪を結い上げているのが今は風呂上がりだからかおろしていて、それだけみれば女性と間違えてもおかしくない。けれど細身ではあるが男性的で筋肉のついた肉体と角張って蜘蛛のように大きな手、厳しい光を宿すタンザナイトの瞳がそれを否定していた。片耳に付けられた赤い石の連なるピアスが小さく音を立てるのにさらに顔が熱くなった気がした。
『いい子、いい子』
『なんでそんな煽ることしか言わねぇの?いーよ、買ってあげる』
『かわいいな、オマエ』
やめて、私の脳みそ。思い出すな。でもだって、仕方ないだろうこれは。営みの時でもピアスを外さない今牛くんが悪い。半ば責任転嫁しながら視線をビルの合間を縫って現れる太陽の方へ向ける。高く上り詰めていく日の光が、ガラス張りの窓の奥を照らしていく。明るい世界を取り戻すような朝日がなんだか懐かしかった。
そういえば、学生時代にこうやって朝日を見たことがあった。今牛くんは見ていないし、場所も立場も関係も変わったけれど。両親のためにも優等生でいなければいけない。そんな追い立てるような感覚にぷつりと糸が切れたことがあった。それで何もかも嫌になって、深夜に家を飛び出して、それで。
(今牛くんと出会ったんだよなぁ)
『何やってんの、優等生』
私の日常を変える声。穏やかで静謐なあの邂逅が、春雷のように鮮やかに日常のモノクロを塗り替えた。それからいろいろなことがあって、今この関係に収まっている。なんだかおかしいな、なんでだろう。よくわからないむず痒さにくすくす笑ってしまう。そんな私を、やけに静かな双眸が見ていることに気がついた。目が合うと、ふっと本紫の輝きが緩む。きゅうと瞳孔が小さくなり、途端に優しい表情になった。
「どうした」
時々、今牛くんの声をシルクのようだと思う時がある。ただのシルクじゃなくて、質が良くて気品があって、触れた瞬間蕩けるような感覚を抱くような。そのまま一つに溶け合うように、思考回路が緩んでいく。別にいうつもりもなかったのにぽろりと部屋にこぼれ落ちた言葉は、やけに大きく響いた。
「今牛くんと出会った時のこと、思い出してた」
ほわりほわりと心が温かくなって、時折胸をつきりと撫でるような思い出のことを。胸を撫で下ろしそっと微笑むと、今牛くんはことりとアイスカップを置いて、徐に立ち上がる。大きな歩幅で歩いてきた彼は朝日差し込む窓を見つめる私の横に立つ。少し、不機嫌そうだな。そう思って首を傾げる。はて、私は何かしていただろうか。頭の中にはてなを浮かべて頭を回す自分に、彼は今度こそ大きなため息をついた。
「名前」
ぽつりと呟く今牛くんの顔は、あまり表情は読み取れなかった。名前?名前が、なんだというんだろうか。「今牛くん?」と呼び掛ければ、うっすらと眉を顰めて見せた。睨むように向けられたぎらりと熱を発する瞳とは裏腹に、はらりと冷えた声が耳に入り込む。
「オマエ、いつまで経っても名前呼ばないけど」
「え?」
「オレの名前。なんで呼ばないの」
なんで、と言われても。パチパチ目を瞬かせて彼の顔を凝視すると、厳しく見える視線がこちらを絡めとるようだった。言われてみればたしかに。彼の名前は呼んだことなかったなぁ。彼が自分を優等生と呼び続けるからなんとなく、私もいつもの呼び方を続けてしまっていたのだけど。のんびりとした考えを勘づいたのか、軽く肩をつかまれる。自分が強く掴めばどうなるのかわかっているような触り方だった。
「なんで」
「や、今牛くんも私のこと呼ばないから別にいいかなって」
「オレ、オマエの恋人なんだけど」
「それはそうだけど・・・・・・でも今更っていうか」
なんでそんなこだわるんだろう。呼び方なんて変えたからって、関係がまた変化するわけでもないのに。納得してない顔をしているのがバレたのか、ふーと息を漏らした今牛くんは小さく目を閉じる。濡れて艶が増した髪を掻き上げて、その拍子にからんとピアスが揺れた音がした。何秒かそうしていた彼はやがて目を開ける。彼の瞳にお天道様の明かりが入ってキラキラと煌めいて見えた。
「いつか、一緒になるのにそれじゃ困るだろ」
ふっと、音が消えたような気がした。元々静かだった空間がさらに静かになって、電子時計の針が動く音すら聞こえそうな静寂。あぁ、と漏らした自分の声は、どうしようも無くうわずっていた。一緒になる。一緒になるって戸籍ってこと。つまり、結婚か。結婚。
「顔、真っ赤」
「そ、そりゃ、ね。うん。そっか、そうだよね、」
「ん、だからこのままじゃ困る。慣れてくれないと」
「なに、に」
「オレの名前に」
唇を吊り上げて笑った今牛くんの顔はどうしようもなく綺麗だったけど、なんだか意地悪だった。
どうやら、あの日変わった日常が、いつまでも変わらないわけではないらしい。