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荒れるような波の音で、目が覚めた。懐かしい音。好きだった音。もう聞くこともないはずだった、航海の音。
うっすら目を開ける。勝手知ったる、部屋の景色だった。ひどく見覚えのある、郷愁を捨てきれなかった部屋の中。
・・・・・・その時点で、意識が一気に覚醒していた。処刑されようとしていた自分がシャンクスに連れ去られて、この船に来たということが、夢なんかじゃなくて現実なのだと思い知った。
がばりと起き上がって辺りを見回すと、幼い頃ウタに与えられた部屋のまま。残しておいてくれたんだ、なんて、思ってはいけないのに嬉しくなってしまう。いけない、と首を振った。ここがシャンクスの船の、レッド・フォース号であったとしても、どんなに愛しい船の上でも。ここが海を進んでいるのだとしても。ウタはここから降りなければいけない。だってここにいたら、シャンクスに迷惑をかけてしまう。
それに、ここにいたら、自分は。
そこまで思って首を振った。とにかく、誰にも見られないうちに、と恐る恐るベッドを降りようとする。しかし、そんなふうに現実はうまくいかないものだ。
「・・・・・・起きたか」
「っ!?」
シャンクスとは別に、もう一度会いたかった人の声がした。どこか掠れているそれは、低く男性的な色香がある。どくどくと心臓に血が流れ始めるのがわかって、慌てて俯く。それを咎めるように、上から甘いバリトンが降ってきた。
「ウタ」
「・・・・・・」
「・・・・・・顔を見せてくれるか」
「っや、やだ」
「どうして」
「い、やなものは、いや。だ、だいたいなんで、見たいの。私の顔なんて見ても、」
「見たいから」
「っ」
「俺が見たい。だから、見せろ」
そんな、幼い恋心を燻らせている相手の、懇願するような言葉に、抗えるわけがなく。
恐る恐る顔を上げる。彼だった。大好きな人。父親という面ではなく、男の人として好きな人。ずっとずっと心の中に住み着いてしまった、大切な人。
十二年経って、髪色も、顔の傷も、服装も変わっているけれど。それでも、やっぱり彼だった。ベックマンだった。・・・・・・そう思ったら、もう。だめだった。
「すき」
ぽろりと落ちた恋心が、自分も自分もと泣いている。たとえ報われなくても、許されなくても、どうしたって恋は人を愚かにするというのは、あながち間違いではないのかも知れなかった。だって、こんな執着じみた思いでも。ウタは、これを処刑の際まで捨てられなかったんだから。父親代わりの人に向けるには、どこか湿っぽいそれを、許されないとわかっていても向けてしまった。
「ベックが、すき」
「・・・・・・」
「ずっと、すきなの・・・・・・」
くしゃりと顔を歪めて、タオルケットを握りしめる。シャンクスに言いたかったことが、他のみんなにも言いたいことが、いっぱいあるのに。それなのに、今の自分には目の前のベックマンしか見えていなくて。そんな現金で恥知らずな自分が本当に嫌気がさした。
さめざめと泣き出す子供のように、ウタはごめんなさいを言い続けた。何に対する御免なさいなのかは、ウタ自身にもわからなかった。
ベックマンは、それに対して何も言わなかった。当然だろう。十二年もそばにいない娘にそんなことを言われたって、迷惑に思うに違いない。それでも言わずにはいられなかった。ウタの計画の、何もかもがうまくいかなかったことが、少しだけウタの精神を綻ばせたのもあるのだろう。
どんどん小さくなって背を丸めるウタに、ベックマンは小さく息を吐いた。びくりと震えた彼女が伺うように目線を上げようとすれば頭をくしゃくしゃと撫でた。暖かく、幼い日と一緒の重みだった。
「そうか」
「・・・・・・ぅん」
「なら、何がしたい」
「え、」
思わぬ言葉に、ウタは今度こそ目線を上げた。ウタのヴァイオレットの宝石みたいな瞳に映るベックマンがどこか、知らない人のように見えていく。呆然と見上げるしかないウタに、彼は小さく息を吐いた。
「昔言っただろう。お前が」
『大人になっても好きだったら告白してもいい?』
「その時に言ったはずだが」
『気持ちが変わらないようなら、やりたいことを聞いてやるから、考えておけ』
「あ、・・・・・・」
まさか、まさか。
「で、ウタは何がしたい」
本当に?
疑って、それでも上回ってしまうほどの期待が、自虐的で自罰的な理性を上回っていく。言ってはいけないという心の壁が溶けていく。気がつけば、ウタはその唇に言葉を乗せていた。
「て、つないで」
「ん」
「歌、褒めてほしい」
「おう」
「あ、と」
「なんだ」
「あと、た、まにでいいから、頭、撫でてほしい」
そう、望みを口にしたウタに、大衆の恋人の細やかすぎる願いに、ベックマンは首を傾けた。
「それだけでいいのか」
「えっ」
それだけ?それだけって言ったって、ウタからすれば贅沢な望みだ。それ以上はいらないから、ただ、みんなの、シャンクスの、ベックのそばにいさせてくれるだけで。それだけで、十分なのに。そんなウタの気持ちが伝わったのか、今度こそ彼は色濃いため息を吐いた。懐かしい紫煙の匂いが香る。
「相変わらず、欲がねぇなウタは」
「欲って」
「なら、俺の好きにする」
「へ、ぇっ!?」
ベッドの上に乗り上げてくる男に、呆気に取られたウタは反応が遅れた。押し倒されたような体勢にただただ呆然として、次第に赤面していく。困惑とまさかという隠せない思いに恐る恐る目を向けると、その厳しい目が緩やかに解けていく。ベックマンの目に宿る熱と、情欲と、とぐろを巻いた何か重たいものがぐるぐる回って、ウタを絡め取ってしまいそうだった。
「べ、ベック」
「ん?」
「な、なんでこんな、」
ふ、と笑った彼は、ウタにとって夢のように都合がよくて、夢よりも苛烈に囁いた。硬くて大きな手が、優しくウタの体の線をなぞる。
「ずっと、待ってたんだ。お前がこの船にいた時も、お前がいない間も。だから、そろそろ褒美をもらってもいいだろう?」
「なに、を、」
「ウタ」
「ん、」
「どうせお前のことだ。ウダウダ悩んで逃げようとしてたんだろうが、もうこの際まどろっこしいことはなしだ。お前からの謝罪は受けとらねぇ。俺たちは海賊らしく奪っただけだ。だから、いらねぇ。俺たちにも、お頭にも、俺にもな」
「っ」
「だが、その代わりにお前のことをもらう。もう十二年待った。それでもお前の思いが変わらねぇんだから、待つ義理はねぇさ」
お頭にもようやく許しをもらったからな。そうして笑うその人は、ウタの知る大人の顔ではなく。ただただ、ウタを食らうつもりでいる、男の顔をしていた。
「ねっ、ぇ」
「あんまり、喋んな。噛むぞ」
「わたしのこと、すきなの?」
そんな、聞いてしまったらもう戻れない言葉に。
彼はただ、その瞳を細めて言ったのだ。

「只管に好きだという目を向けて、それでも伝える勇気もないと目を向けてくるだけのいじらしい女に、絆されちまったのさ」
だから待ったのだ、と。たとえ船を離れていたとしても、でんでん虫で拾ったお前の歌を聞いた時から、何をしてでも世界から連れ去ってやるつもりだった。


「・・・・・・ろりこん」
「そうだな」
「へんたい」
「おう」
「・・・・・・すきって、いって」
死ななくてはいけなくて。自分は生きてはいけなくて。それなのに、そんな思いは消えてくれないのに。それでも、手を伸ばしてしまう。愚かで、地獄に堕ちるとしても。

「あァ、好きだよ」

それでも、もういいだろと首に口付ける人の熱があることが、何よりも幸福だと思ってしまった。