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「逢坂くん、おはよう。」と月曜の1限目から「逢坂くん、またね。」と金曜の3限目まで挨拶を交わしていた彼はもうどの教室にもいない。
彼のただの友人である私とご両親と比べるのはおこがましいが、私も彼が辞めたあの日から本当に寂しかった。いや、今も寂しい。
「ナマエさん、おはよう。」「ナマエさん、またね。」と答えてくれる彼がいない。
彼はもうこの教室にもこの学部にもこの大学にもいないというのに、それでも彼の姿を探してしまう自分がいて虚しかった。
逢坂くんのことは好きだ。でも最初から、いつか彼に告白しようとは思っていない。それこそおこがましいにも程がある。彼はあくまでみんなの王子様のような人物で、何の変哲もない私が彼に「好きです。」と伝えたところで彼を困らせるだけだし、それ以上の関係は私も望んでいないのだ。
ただ、一緒に授業を受けるだけで良かった。ただそれだけ。
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「ナマエさん、今日はこのあと用事ないのかな?」
「うん。行きたいところもないし、このまま帰ってのんびりしようかなって。」
「じゃあ、このあとキャンパス内のカフェで少し話がしたいんだけど、いいかな。」
「え?」
去年の夏。彼と取った夏期の集中講義が午前で終わったその日、突然彼からお誘いを受けた。まさか、という期待は一瞬持ってしまったが、そんなことは絶対ないと決め込んだ私は少しぎこちない笑顔で「いいよ。」と答える。嬉しそうによかった、と返事をした彼と荷物を持って、それから少し離れた場所にあるカフェへ入った。
カフェに入ってアイスティーを二つ頼んでから逢坂くんは「呼び出してごめんね。」と謝る。そんな、むしろそれで舞い上がってしまうぐらいには嬉しかったんだから謝らないで欲しい。けど、彼から出てくる話が深刻なものはこの時の雰囲気でなんとなく伝わった。
届いたアイスティーを互いに手を付けようとせず、私が何か切り出したほうがいいんだろうかと迷っていると、逢坂くんは「その…」と口を開く。
「大学を、辞めようと思うんだ。」
真っ白。
頭の中どころか視界までも夏の暑さにやられたのか、文字通り真っ白になった。
「…え?」
「前々から音楽が趣味だって話したと思うけど、実は叔父の影響なんだ。」
彼はそれから私に、彼の叔父さんの話を聞かせてくれた。ミュージシャンで、音楽のことを教えてくれて、でも身内に否定されて。それを庇ってやれなかったことや今も叔父のようになるなと言われていることなど私に話してくれたのだ。いつもみんなの前で王子様のように優しい笑みを浮かべている彼が、こんな過去を抱えているとは想像もつかなかった。
「……音楽のことが好きという気持ちだけでやっていけるほど簡単な世界じゃないことは僕も知っている。でも、やっぱり諦めきれないんだ。」
「…うん。」
「両親を説得するなんて無理なのは分かっているし、僕も期待は抱いていない。だからといって諦めるつもりもないから、戻ってくる未練を残さないように大学も辞めるつもりなんだ。」
そう語っている彼の目は真剣そのもので、正直ゾクッとした。授業を受けている時の彼の横顔なんて比じゃないほどだ。
私はそんな彼の顔を見てから、逃げるように目をそらす。
(お願いだから、辞めないで。)
「逢坂くんが選んだ道なら、応援しているよ。」
言えない本音を胸の奥の奥へと押し隠して、私はなるべく自然な笑顔を浮かべた。
そんな私の作り笑顔を見て、彼は心底嬉しそうな顔で「本当…!?ありがとう、ナマエさん。」なんて言うのだから、私はもうなにも言えなくなってしまったのだ。
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『みんなー!今日はありがとう!』
『最後まで聞いてくださって、本当にありがとうございました!』
テレビで他のメンバーに負けず劣らずの綺麗な笑顔を浮かべる彼を見つめる。
前は授業中に持っていた青色のボールペンが切れたとき、「よかったら使って。」と言ってくれた彼はあんなに近かったのに、今ではガラスを隔てた向こうのそのまた向こうの存在になってしまった。
『次も、そのまた次も精一杯歌わせていただきます。』
逢坂くん。
そっと一人の部屋で、声にもならない小さなそれを隠すように私は自分の両足を抱えたまま、初めて彼を思って泣いた。