* * *

 「わあ…。ひどい雨…」
 午後10時前。ざあざあと力強く地面を叩きつけるような大雨を見上げながら、私はため息をつく。
 今日は大学の授業を終えた後、いつもお世話になっている教授に自分の書いた内定承諾書を確認してもらったのだ。今回、私が受かったこの会社を勧めてくれたのもこの教授だったりする。もちろんそこにコネなどはないが、教授に内定が取れたことを伝えるとよかったねと喜んでくれた。
 そんな教授と他愛もない話をして、どうせなら図書館でレポートも終わらせようとした結果、土砂降りに見舞われた。おまけにこの時間だ。お店などは開いておらず、駅の中にあったお店でさえ傘は全て売り切れている。

 カバンを傘替わりに、と考えたが中にはせっかく書いた内定承諾書といった大切な書類がある。

 でもまだまだ止みそうにないこの大雨の中、仕方なく傘も差さずに帰っていく人たちも少なくなかった。このまま駅で待ったとしても、もしかしたら雨は止まないのかもしれない。どうせこのあとは誰とも会う予定はないし、帰って過ごすだけだ。
 カバンを抱きしめながら、私はそのまま駅から走り出した。

 屋根があるところがないか探しながら帰り道を早足で歩いていく。先程まで走っていたが、履いてるヒールのせいで少し滑りそうになったから直ぐにやめたのだ。ついていない、なんて思いながらも既に見えてきたのは住宅街でどこにも足止めできるような屋根がない。このまま歩いて帰るしかないな、もう濡れるだけ濡れたし。

 自分の情けない姿に少し笑いすら出てきそうなところで、ふと私の頭を打ち付けていた雨の雫が止んだ。

 「ッ、君は、何を考えてるんだ…!」
 背後から聞こえた声と息切れ。思わず振り返ると、そこにはこちらに傘を傾けている彼の姿があった。

 「え…?逢坂くん…?」
 「こんなに濡れて…風邪でも引いたらどうするつもりだったんだ。大切な時期だろう?」

 まだ状況を理解していない私に、彼は手に持っていたカーディガンを私に手渡すと、それから抱きしめてくる。自分よりも背の高い彼の背中は雨でビッショリと濡れている。息切れで肩が上下している。
 今まで雨に打たれていたせいで気付かなかったが、私の体は相当冷えていたようだ。彼の体がまるで熱でも出しているかのように暖かく感じた。

 *

 風呂から上がり、私はリビングのソファーに座ってる彼をチラリと盗み見た。
 あれから彼と同じ傘を差しながら私の家まで帰ると逢坂くんは早くお風呂に入ってきてと言ってくれたのだ。それで言葉に甘えてお風呂から上がった訳なんだけど、逢坂くんは何かを思いつめているようでソファーから微動だにしない。

 「…お風呂、上がったよ。」

 今までずっと壁に隠れていた私は彼に声をかけながらリビングに向かうと、逢坂くんはこちらに顔を向けてくれた。
 とりあえず、彼に謝らないと。

 「逢坂くん、私……」
 「ナマエさん、ごめんなさい。」
 「…え?」
 私が謝ろうとするよりも先に、彼は立ち上がって頭を下げてきた。突然のことに私はどうしていいか分からずに一瞬、固まってしまったが、直ぐに彼をソファーに座らせてから私もまた彼の隣に座ることにした。なんだかまた以前に戻ったようだ。

 「雨に打たれて濡れる君を見て、風邪を引いたらどうしようって気が動転してつい…怒鳴って本当にごめんなさい。…それにあんな、抱きしめたりもして…。」
 「そんな、逢坂くんは悪くないよ。今日、雨だって知らずに傘を忘れた私がいけないんだから。それに、逢坂くんがあの場で私を叱ってくれなかったら、また雨が降ったとき同じことを繰り返してしまいそうだったし。」

 だから、謝らないで欲しい。
 逢坂くんは少し驚いた様子だが、直ぐにいつもの笑みを浮かべて「ああ、そっか…」と小さく呟く。そっか?と彼が言った言葉を繰り返して頭を傾げると、逢坂くんは直ぐに何でもないと言った。

 「その…あまりプレッシャーになるから直接聞けなかったんだけど…最近、調子の方はどう、かな。」
 「調子って就活の?」
 「うん。今日はスーツ着てなかったから、ちょっと気になって。」

 やっぱり彼は私の就活を気にしてくれていたんだ。そのことに少し口角が上がったが、私はテーブルの上に置いてあるファイル入れから、あの日の封筒を取り出すと彼に手渡す。開けてみて、と彼に言うと、逢坂くんは中から出てきた内定通知書を見てそれから私の顔と内定通知書を2回交互に見てから「これって…」と呟いた。

 「お陰様で無事、内定を頂きました。」
 「そ、そんな…!僕はてっきり…!ああ、どうしよう。……どうしよう、たくさんお祝いの言葉をかけたいけど突然過ぎて…。」

 まるであの日の私を見ているかのように、逢坂くんは本当に嬉しそうな顔を浮かべながら困っている。まるで自分のことのように喜ぶ彼を見て、私もまた数日前の喜びが蘇って笑顔を浮かべた。

 「もっと早くに教えてくれたら、きちんとお祝いをしたのに。」
 「あはは…そんな、気を遣わなくていいよ。」
 「次会う時までに何かお祝いを考えておくね。」

 そう言って微笑んだ彼に私は彼に向けていた目線をゆっくりと落とす。次が、あるんだ。
 私の様子に気づいた逢坂くんは「ナマエさん?」と私の名前を呼んできた。誤魔化すように「何でもない。本当に気遣わなくていいよ。」と答えるも、逢坂くんはもう笑ってくれていなかった。もし伝えるとしたら今しかないと思った私は、一度閉じた口を開かせて声を発そうとするも、戸惑いから一度開いた口を閉じて、それから再び逢坂くん、と彼を呼んだ。

 「……もう、連絡を取らないようにするね。」

 「え…?」
 目を少し見開いて驚く逢坂くん。そんな彼に私は一度言葉に詰まるも、もう引き返せなくなったことで意を決して「ううん、もう取らない。」と言い方を変えた。

 「どうして急に…。もしかして、君に何か失礼なことでも言ってしまったのかな?」
 「そうじゃないんだ。その…自分でも上手く言葉で言い表せないんだけど…。」
 「……教えて。」

 真剣な彼の顔。それが少し怖いとすら感じたが、私は両手を軽く握ってからこの数日感、自分がずっと思い悩んでいたことを打ち明けてみた。

 「逢坂くんと再会したあの日、私は逢坂くんのファンになったって言ったの覚えてるかな。あの日からずっと小さな違和感を感じていたんだ。ファンなのに、みんなの憧れのアイドルと連絡を取ってもいいのかなって。…なんだか罪悪感があって。」

 街でライブ帰りと思われる逢坂くんのファンと出会ったときなんかそうだ。彼女たちはかっこいい、素敵、これからも応援していると言っていた。それは私も同じように抱いていること。
 彼は確かにかっこよくて素敵だ。私もこれから彼の活動を応援している。
 でも、そんな彼女たちに自分のようなただのファンが実は逢坂壮五と連絡を取っていると知ったらきっと悲しむんだと思うと胸が張り裂けそうだった。

 それはもしかしたら私が勝手に同情しているだけなのかもしれない。
 けど、もし私が彼女たちの立場になって、自分の知らないところでアイドルが女の子と連絡を取っていたら悲しむ自信がある。

 「…だから、なんていうか…私はこれからも逢坂くんのファンでいたいから、もう連絡を取るのやめようって思ったんだ。」

 それに…何より私は彼の純粋なファンでなくなっている。
 恐らくソレが何よりもの原因だ。
 話を黙って聞いていた逢坂くん。彼は少し俯いたまま、どこかをぼんやりと見つめている。私はなんて身勝手で酷い人なんだろう。本当に、本当にごめんなさい。
 もちろんそれは声として出なかったが、逢坂くんはそれから小さく息を吐くと、また私と目を合わせてきた。

 「…僕も、ずっとナマエさんに黙ってきたことがあるんだ。」

 そう言われた途端、なんだか彼から飛び出てくる言葉が怖くて、私は耳を塞ぎたくなってしまった。

暗涙