ベビーシッター始めました
彼女は困っていた。
何に困っていたかといえばそう、お金に困っていた。
なにせ、今彼女の財布の中には164円しかないのだ。
貯金だってもう1円も残っていない。
これは大変困った。
今年の春に高校を卒業した彼女は、地元香川から東京へ上京し、素晴らしいキャンパスライフを満喫していた。
新しい友達、初めての一人暮らし、初めてのコンクリートジャングル、初めての東京。
そして初めての貧困生活。
親元から離れてしまったのが悪かったのか、それとも春だからか、とにかく、気の大きくなっていた彼女は、上京する前に親からもらった10万円を湯水のように使い果たしてしまったのだ。
元は自分が悪いとは言え、今月は後4日もある。
おまけに両親の給料日は20日で、自分の所に仕送りしてくれるのはその2〜3日後になる。
つまり、あと3週間もこの貧困生活を続けなくてはならない。
とてもじゃないが164円ではあと3週間も生きて行く自身は彼女にはない。
バイトをしている友達に頼ってみよう かとも思ったが、知り合ってまだ1ヶ月、流石にそれは気が引ける。
彼女もそこまで図々しくはない。
一度両親に泣きついてみたが、流石に呆れて「自分でどうにかしなさい」と言い、お金を送ってくれなかった。
なんて世知辛い世の中だ。
彼女は部屋の片隅に積まれた買い物袋を見ながら思った。
その袋には服や靴、本や雑貨達が袋から出されずにそのまま放置されている。
それを見ながら後悔の波が彼女に押し寄せる。
なぜこんなにも必要のない物を買ってしまったのかと。お店にいて、商品を漁っているときは思うのだ。絶対に着よう、絶対に使おう、と。
しかし、家に帰って冷静になってみればどうだろう。
服は確かに可愛いし格好良いが、自分の着る服の系統ではない。
どうにかして着ようとは思うが、それも2〜3回着てしまえばもう自分は着なさそうだ。
そして、彼女が1番買わなければ良かったと思うのが雑貨だ。
叩けば女性の喘ぎ声が流れるおっぱいのボールなんて絶対にいらない。アフロのカツラやもみ上げつきのサングラスなんてもっといらない。
彼女は物欲の押さえられなかった過去の自分を恨んだ。
あの時の私がこんな物を買っていなければ、こんなにもひもじい思いをせずにすんだのに、と。
買いだめしておいたレトルト食品達は昨日でなくなってしまっている。
それを思い出すと空腹感が更に増した気がした。
彼女はテーブルに突っ伏し、テーブルにばらまかれた164円をじっと見つめた。
朝から水しか口にしていない彼女の腹の虫は、もうとっくの昔に限界を超えており、さっきからぐうぐうと音を立てて抗議している。
ああ、限界だ。
彼女はそう思うと同時に、テーブルにばらまかれた164円を握り締め、部屋を出て行った。
向かう場所は近所のスーパーだ。
運が良ければ、賞味期限が当日のパンが“おつとめ品”として低価格の3割〜半額の値段で売られているのだ。
そうして向かった近所のスーパー。
向かうはパン売場。
いつもは素通りしてしまうおつとめ品コーナーが今日ばかりは光り輝いて見える。
彼女はおつとめ品コーナーの前に立ち、どうぞパンがありますようにと願ながら、そっとカゴの中を覗いた。
彼女はカゴの中にパンが入って入るのを見つけると、ほっと一息つき、カゴの中から1番大きくて1番安いパンを手に取ると、そのままレジに向かい会計を済ませた。
そして彼女は、スーパーの出入り口の直ぐ横にあるベンチに腰掛けると、先ほど買ったばかりのパンを口に頬張った。
パンの味が口に広がり、一口食べる毎に満たされていく腹に彼女は幸せとはどういうことかを身を持って知った気がした。
普段は体重などを気にして食事の量を少なくしている彼女だったが、今なら体重が増える事も気にせずにお腹いっぱい食べれそうだと思った。
そしてパンを食べ終えた彼女が考える事と言えば、残り3週間を残りの小銭でどう生活していくかと言うことだ。
ちなみに、元々楽観的でお金に困った事がなく、動くことがあまり好きではない彼女に“働く”という選択肢は無いに等しい。
彼女がぼんやりと前を見ていると、大変見覚えのある男が彼女の前を通り過ぎた。
「豊田先生!」
この豊田という男は彼女の通う大学で講師をしており、彼女にとって他の友人達よりも仲が良く、何でも気兼ねなく話せる相手だ。
豊田は彼女に気付くと、親しげな笑みを浮かべて「よう」と声をかけた。
しかし、その数秒後に彼女の言葉で豊田の笑みが思わず固まってしまう。
「先生、お金貸して下さい!」
「は?」
「今、手持ちが100円ちょっとしかなくて、親が仕送りしてくれるのが来月の20日なんです。
100円ちょっとじゃあ残り4週間も無事に生活出来ません。飢え死にしちゃいますー」
そう言って自分にすがりつく可愛い教え子を微妙な気持ちで見つめた。
貸してやりたいのは山々だが、そうもいかない事情が彼にもある。
なぜなら、彼もまた給料日前で、財布の中はなかなか厳しい経済状況にあるからだった。
しかし、自分を頼ってくる教え子の頼みをむげに断ることも出来ず、どうしようかと考え倦ねていると、「千円!いや2千…5千円!貸してください!」と、普通なら下げていく筈の金額を彼女は釣り上げていっていた。
流石のこれには豊田も苦笑いを浮かべるしかない。
「ちょっと待ってろ」
豊田はそう言って彼女に背を向けると、ポケットから携帯を取り出しどこかへ連絡を取り始めた。
誰に電話しているんだろうか?もしかして、自分のために友人達からお金を借りようとしてくれているのだろうか?
なんていい人なんだろう。
彼女が勝手にそう思い込んだ所で、豊田は携帯での会話を終了させ、彼女の方に向き直り「お前、子供は好きか?」と訪ねた。
「子供…ですか?まあ…好きですけど」
ついこの間も公園で知り合った近所の小学生達と本気で鬼ごっこをして、次の日、筋肉痛になったのを思い出しながら彼女はそう答えた。
子供とお金、一体何の関係があるのか。彼女は頭に疑問符を浮かべてぼんやりしていると、豊田は「そうか、それじゃあ、ベビーシッターやらないか?」と言った。
「ベビーシッター?」
「俺の知り合いでな、今年中学生になったばっかりの子供がいる家があるんだ。
そこがベビーシッターになりそうな奴がいたら紹介してほしいって頼まれてたんだ。
金を貸してやることは出来ないが、バイトを紹介する事はできる。
どうだ?やってみないか?」
「じ…時給はおいくらですか」
「あー…。すまん、そこまでは聞いてなかった。
だけど晩飯付きだそうだ」
“晩飯”と言う言葉に彼女の目がキラリと光った。
彼女は豊田の手を取ると「やります!」と言ったのだった。
その後、彼女は豊田からその雇い主の住所と名前を教えてもらい、すぐにその住所の場所へ向かった。
善は急げ、思い立ったが吉日、である。
そしてその住所の場所についた彼女は、その建物を見てまるで阿呆のように口をあんぐりと開け立ち尽くした。
住所の場所がわからず、近くにいた人に訪ねた時に「ああ、跡ベッキンガムね」と苦笑い混じりに言っていたのを思い出た。
その時は、その言葉の意味がよく分からなかった彼女だが、今この建物を見てようやくその言葉の意味を理解した。
あまりにも場違いなその建物は、住居と呼ぶにはあまりにも大きくきらびやかで、むしろ“城”もしくは“宮殿”と呼んだ方がしっくりくるほどだ。
異国情緒溢れるそのたたずまいは、この閑静な住宅街の雰囲気から完全に浮いており、近隣住民から苦情がこないのが不思議な程だ。
はて、ここは日本だろうか?
彼女がそう思ってその建物を眺めていると、いかにもな雰囲気の黒塗りのベンツが直ぐ横に止まった。
少し開けられたベンツの窓から覗いた目は予想外に幼く、ハッとするほど綺麗な青い瞳に彼女はドキリとした。
何故なら、彼女は英語が苦手だからだ。
中学1年の書き取りの段階で挫折したほど彼女は英語が苦手で、この場面で出てきた唯一の英語と言えば“アップル”のみである。
何か他の単語があるはずだと頭の中を探し回るのだが、まるで呪文のように“アップル”という単語が彼女の頭の中を駆け巡り、他の単語が全く出てこない。
どうしよう、どうしょうと彼女が1人でパニックに陥っていると、車のなかの子供が「あーん?誰だテメーは」と予想外にもりゅうちょうな日本語を喋った。
その事に驚きつつも「あ、えーと。この家のベビーシッターを…」となんとか答えた彼女に、その子供は軽く舌打ちをすると「取り敢えず乗れ」と言って自分が乗っている座席のドアを開けた。
天使だ。
彼女がその子供を見たときに受けた第1印象はこれだった。
明らかに日本人ではない明るい髪の色、大きな青い目、スッと通った鼻筋、眉目秀麗とはまさにこの子供のことを言うのだろうと彼女は思った。
「おい、早くしろよ」
そう言って彼女を睨みつける姿さえ美しい。
「あ、はい。すみません、失礼します」
彼女がそう言って慌てて車に乗りこむと、ドアは勝手に閉まり、動き出した車の中にはなぜか気まずい沈黙が流れた。
その気まずさの原因の大部分は彼女の横で足を組み、ふんぞり返って座る少年にあり、一体何が気に食わないのかさっきからずっと貧乏揺すりをしている。
「おい、名を名乗れ。仮にも俺様はテメーの雇い主だ。名前くらい名乗るのが世間の常識ってもんだろ?あーん?」
少年の“雇い主”という単語と“俺様”という単語に彼女がきょとんとしている間にも、少年は最近の若い奴らは常識がなっていないだのと、その見た目と年齢にそぐわないことをぶつぶつと呟いていた。
「…ぶはっ!なに言ってんの。あんただって最近の若者でしょ。言ってる事が私ん家の爺ちゃんみたいだー。
あんた面白いね。名前は?」
彼女は先ほど自分の名前を聞かれたことなど忘れ、少年に名前を訪ねた。
少年の眉が一瞬ピクリと上がり、仕方がないと何かを諦めた様子で名乗ろうとすれば「あ、ごめんごめん。相手に名前を聞く時はまず自分からだったよね。私は苗字名前よろしく」と言って満面の笑みで右手を差し出してきた。
「俺様は跡部景吾だ」
跡部は差し出された彼女の手を取りながら、自分とこいつはあまり相性が合わなさそうだと思い、それと同時に今すぐにでもクビにしてやろうとも思った。