切原と彼女と美術部員
切原と彼女と美術部員
「…取りあえず、これから謝ってくるっす」
そう言って走り出したものの、あの人がどこにいるかが全然分からねえ。
教室、図書室、食堂、グラウンド、体育館、そのどこを探してもあの人の姿は見あたらず、この時ばかりはこの広い校舎が憎い。
部活に遅れそうだが、謝りに行ったら良いと言ったのは幸村部長だ。多分、怒られることはないはずだ。
…はず。
何だか不安になって、部活に戻ろうかと思ったが、このままあの人に謝らずに戻ればもっと怒られそうな気がして、その考えは直ぐに打ち消した。
「どこにいるんだよ」
そう呟いて、額にじんわりと浮かんだ汗を拭い辺りを見回せば、春の風が吹いて俺の少し火照った体を冷やした。
その風に吹かれて桜の花びらが地面に舞い落ちる様を見ていると、ああ、春だなあとしみじみ思った。
「上も下も桜色ってさ、何かファンタジーじゃない?」
突然上から聞こえた声に、振り向き上を見上げれば、そこには知らない男が、教室の窓に肘をついて身を乗り出し、俺を笑顔で見下ろしていた。
「入部希望者?」
その問いに俺が左右に首を振って答えれば、そいつは「あー、やっぱりかあ。君、切原君だろう?テニス部の」と言った。
「そうだけど、あんた誰?何で俺がテニス部だって知ってるんだよ」
「ああ、ごめん。俺は美術部部長の相澤だ。そこの通りは運動部がランニングでよく使うだろう?それでだ。
あと、君は目上の人に対しての言葉遣いを学んだ方がいいな」
それはさっき幸村部長に注意されたばかりのことで「スミマセンっした」と俺が謝れば、「分かったんならいい。今度から気を付けろ」と言って相澤さんは俺の頭をぐりぐりと撫でた。
「部長、さっきから何ぶつぶつ言ってるんですか?気持ち悪いですよ」
その声と共に現れたのは同じクラスの藤野と言う男子で、藤野の隣には眼鏡をかけた知らない女子がいた。
その女子は俺に軽い会釈をすると教室に戻って行き、そいつを見送った後に藤野が「そういやぁお前、昼休みに苗字先輩の話ししてたら、直ぐに教室出て行ったけど何しに出て行ったんだ?」と言った。
相澤さんが「藤野酷い!」と言っていたが、完璧に無視だ。
藤野の相澤さんへの態度も十分先輩に対する態度ではなかったが、そんなことよりも、そうだ元はと言えばこいつが俺に変な噂を吹き込んだりしなければ、こんな思いをしなければ済んだんだ。
そう思って俺が文句の1つでも言ってやろうと口を開けば「誰があんな噂をながしたかは知らねえけどさ、苗字先輩はそんな人じゃないんだ」と藤野は言い、一度教室に目をやると「だから苗字先輩に余計なこと言うなよ」と釘を刺してきた。
今更そんなことを言われた所で、俺はもう苗字さん散々言って幸村部長に怒られたあとだ。
何で藤野の話をちゃんと最後まで聞かなかったのかと、今更ながらに後悔の波が押し寄せる。
「そう言えば、お前、苗字さんのこと知ってんのか?」
「ん?ああ、部活の先輩だからな。
今、絵書いてるんだけど見るか?」
そう聞かれて俺が短く「見る」と答えれば、藤野は「わざわざ昇降口まで回るの面倒だろ?そこから中に入れるから入れよ」と言って直ぐ隣の横引きの扉を指さした。
それにしても、どこを探してもいないと思ったら、あの人美術部だったのか。
少し意外だ。
そんなことを考えながら数段の階段を上り中に入れば、そこはつい1週間前に授業で訪れた美術室だった。
その美術室の一番後ろで苗字さんはカンバスに夢中になって絵を書いていた。
「凄いだろ?俺、苗字先輩の絵に惚れて美術部入ったんだ。
あと、苗字先輩の隣に女子がいるだろ?アイツも苗字先輩の絵が気に入って美術部入ったんだぜ」
藤野はそう言うと、なぜか得意気に笑った。
それは確かに凄い絵で、むしろ凄いとしか言いようがない絵だった。
絵の知識も興味も全くない俺でもつい見入ってしまう程凄い絵は、まるで俺をその絵の世界に吸い込んでしまいそうだと思った。
俺は、時間が経つのも忘れて苗字さんが絵を書くのを眺めていた。
筆を置き背中の骨をばきばきと鳴らしながら伸びをした苗字さんにようやく我に返った俺は、ここに来た目的を思い出し「あのっ!」と急いで声をかけた。
生田先輩が苗字さんは結構根に持つタイプだと言っていた。
だから無視されたり睨まれたりしたらどうしょう、なんて考えていたのに、振り向いた苗字さんは驚いた表情を浮かべ「切原さん?」と言った。
「どうかされましたか?」
怒るわけでも無視するわけでもない苗字さんにあれ?
と思いながらも「スミマセン!」と言って勢いよく頭を下げた。
「お…俺、苗字さんのこと何にも知らねぇのに、昼休みに色々酷いこと言っちまって、本当にスミマセンっした」
「えーっと、切原さん?とりあえず頭を上げて下さい」
そう苗字さんに言われてゆっくりと頭を上げれば、苗字さんは「ああ、良かった」と言って気の抜けそうな笑顔を浮かべた。
「あの、怒ってないんっすか?」
俺がそう問えば「あー…。いえ、特に」と苗字さんは答えた。
「俺、アンタにすっげえ、ひでーこといったのに?」
「いや、あのー…ですね?
あの時の切原さんの話しのほとんどをその…、聞き流していたので…はい。
切原さんに何を言われていたのか全然覚えてないんですよ」
そう気まずそうに言った苗字さんの言葉を理解するのに俺は数秒の時間を必要とした。
だっていくら聞き流していたとは言え、何を言っていたか覚えてないとかありえねーだろ。
俺ですら、多分少しは覚えている。
そして、ようやく出てきた言葉は「全然っすか?」の一言だけだった。
その俺の言葉に対し、苗字さんはすげー申し訳なさそうに「はい、スミマセン。全然なんです」と言った。
なんて言うか俺
「謝り損?」
その俺の呟きに苗字さんはまたあの気の抜けそうな笑顔を浮かべると
「あー…。そうですね。わざわざご苦労様です」
と言って馬鹿みたいに丁寧に頭を下げた。
「なんだよそれ」
俺はそう言うと、地べたにあぐらをかき頭をがしがしとかいた。
「まあ、お互い様と言うことでどうでしょう?」
苗字さんはそう言うとクスクスと笑い出し、そんな苗字さんの姿を見ていると、それでいいか、なんて思ってしまう俺は多分かなり単純な奴だと思う。
苗字さんは一度視線を上にあげると「そう言えば、今日は部活は休みなんですか?」と思い出したように尋ねた。
「何でっすか?」
「もう直ぐ5時になるんですけど、切原さんがずいぶんゆっくりしていらっしゃるので、休みなのかなーと」
そう言われて急いで振り向けば、教室の時計の針ははもうほとんど5時を指していて、
あ
と思った時には辺りに5時知らせるサイレンが鳴り響いていた。
「やっべえ!」
急いで立ち上がった俺はそのままの勢いで「失礼しました!」と言って美術室を飛び出しテニスコートに向かった。
テニスコートに着いて早々、真田副部長の制裁を喰らい、幸村部長からはお仕置きメニューという名の地獄の特訓があったのは言うまでもない。