雑踏に落ちる 参

 どうして今日はこうもついていないのだろう。人生の中でこんなにも最悪の出来事が続いた日はない。
 人の波間をすり抜けて地上に出ると、どこか隠れる場所はないかと目についた建物の中に逃げ込んだ。無人のエレベーターに飛び乗って、閉のボタンを連打し、一時の安寧を手に入れる。
 あの袈裟の男といい、先程の目隠しに白い髪の男といい彼らは一体何者なのだろう。どちらも格好が特殊すぎではなかろうか。お陰で駅員には一発で変な人≠ニ認識してもらえたのだけれど。
 とにかく彼らの狙いは宿儺さまである事は確定している。可能性としては呪術師の線が有力だけれど、どうやったらその特殊な力を持つ人間を撒けるのか、方法が思いつかない。
 辿り着いてしまった最上階で今後の身の振り方を悩んでいると、階段下から駆け上がってくる足音が聞こえた。
 どうしよう、もうすぐそこに来ている。
 焦った私は上に逃げることしか出来ず、そのまま鎖が巻き付けられた屋上へ続く扉を、何度も揺さぶって無理やり開ける。足を踏み入れた先には、すっかり闇に包まれてしまった都会の夜がすぐそこにあった。思ったより風が強く、これならうっかり・・・・落ちてしまいそうだと苦笑した。
 錆びついた手摺りをなぞると、背後で勢いよく扉を開ける音がした。ゆっくりと振り向いて追ってきた人物を視界に捉える。そこに居たのは黒髪の少年だった。先程の目隠しをした男ではなかったのには驚いたが、同じような黒い服を纏っているのを見て、少年があの男の仲間である事は簡単に予想がついた。
 私たちはしばらく見つめ合っていた。癖のある彼の髪が風に流れている。恐らく彼もまた私と同じように思ったより風が強い≠ニ、誤って落ちてしまうかもしれない≠ニ思っているのだろう。だからこそ、彼はいきなり距離を詰めてくるようなことはしない。抵抗した私が落ちてしまうことを危惧しているのだ。
 それを分かっていながら彼の良心を利用している私は性格が悪いのかもしれない。そう心の中で独り笑いする。
 あまりの沈黙に耐えかねた彼は、こちらの様子を窺いながら口火を切った。
「お前が持ってるのは呪いだ。それも特に強い力を持つ呪物……そんな危険なものをお前のような一般人が持っていちゃいけない、だから────」
「だから、何」
 予想以上に冷えた声が出た、と俯瞰して見ていた自分が思った。
 宿儺さまが私の手に余ることくらい分かっている。呪いだということも、強い力を持っているということも、危険に晒されるということも分かっている。全て分かった上で私は宿儺さまと共にあることを選んだのだ。宿儺さまは祀り上げられるのは飽きたと神扱いされることに難色を示していたけれど、私にとってはやっぱり唯一の神さまで命の恩人だ。
 それを「持っていちゃいけない」と何も知らない他人に決めつけられて、納得できるわけがない。そもそも、これは宿儺さま自身も望んでいることなのだから。私は都合の良いように利用されても、気が済むまで道具に使われても構わない。そんなのは初めからわかっていたことだ。だから、今だけは、絶対に誰にも渡したくない。
「危険だから? 呪いだから? それが何だっていうの! 私にとっては違う! 生きる希望で、目的で、心の支えなの! お願いだから私から奪わないで!」
 爆発した想いが言葉の端々に散りばめられる。
 もし、私の行動が、想いが悪だと言うならこの世界に救いなどない。神や信仰など陳腐で滑稽な猿のままごとだ。だったら私はそんな世界に生まれてきたくはなかった。
「両面宿儺は祓うべき対象だ。人死にが出る前渡せ!」
「……人なら、既に一人死んでる」
「何……⁉」
 唖然と目を見開いた少年はギリ、と奥歯を噛み締めて「玉犬!」と言い放った。
「それなら何故分からない! 何故そんなに宿儺の指に執着するんだ! お前は一体何をされた!」
 白と黒の狼のように大きな犬を両脇に従えた彼はそう叫んだ。心底理解できない、そんな視線と共に。
 一から説明して彼に分かってもらうなんて思っていない。私はただ一言簡潔に真実を述べる。
「命を、救ってもらった」
 死を確信した絶望の中、掬い上げられたあの瞬間を思い出し、笑った。
「宿儺さまは、私の神さまなの」
 私には彼だけ居ればあとはなんだって良い。他は全て捨ててきたのだから。今手元に居てくれている神さまに縋って何が悪いのだろうか。
「──私は宿儺さまだけを信じてる」
 そう言葉を続けた瞬間、身体が傾いた。全身を包む浮遊感。驚いた顔をした少年の顔が視界から消え、宙に投げ出されたことを理解する。
 風は、吹いていただろうか。いや、これはきっと────
「宿儺さま……」
 東京の夜景が真っ逆さまに私を見つめていた。光が私を追い抜いて、過ぎ去っていく。
 彼から与えられたそれは、絶対的な死につながる行為であるにも関わらず、何故だか安らかなものに感じられた。
「悪いようにはせん。しばらく寝ていろ」
 そう呟かれた彼の声は子守唄にも似た柔らかさを孕んでいた。その言葉に身を任せて、私は重怠くなった瞼をゆっくりと閉じるのだった。


永遠に白線