雑踏に落ちる 弍

「お疲れサマンサー‼」
 五条は自分の教え子たちにあっけらかんとお気楽な労りの言葉をかける。呪霊を祓った際に救出した子供を無事に送り届けたことを告げ、満面の笑みを浮かべた。
「今度こそ飯行こうか!」
 五条の誘いに虎杖と釘崎は「ビフテキ!」「シースー!」とはしゃぐ中、伏黒は我関せずといった態度を貫いていた。そんな教え子たちを導きながら、五条は茜色に闇が近づく空を仰ぎ、そしてピタリと足を止めた。
 ──宿儺の、気配だ。
「どったの、先生」
 いきなり立ち止まり、ガラリと纏った空気を変えた五条を、不思議に思った虎杖がそう問いかけるけれど返答はなかった。
 ──決して悠仁の中にいる宿儺の気配に惑わされているわけじゃない。
 少し離れた場所から感じる宿儺の呪力は今悠仁の中にいる宿儺のものより小さい。恐らく、指一本分。近くに呪霊の気配はしないから取り込まれているわけではなさそうだ。じゃあ、今宿儺は一体どうやって移動しているのだろうか。
 五条は片方の口角を上げた。
 己の中に出た答え──約三ヶ月前に起きたあの事件。封印を解かれ、持ち出された宿儺の指。その真相がすぐそこにある。
 皮肉を込めて顔を拝みたいと思っていたその人物と、宿儺の指が転々と移動していたのは知っていた。ところどころに宿儺が呪力を使った形跡、残穢が残っていたからだ。
 その残穢を追った先には特級に分類される呪霊がおり、その場所を観察する限りでは一面に貼り付けられた大量の呪符により封印されていたものを解き放ったらしい。何のためにかは分からないが、そうやって呪霊に接触した痕跡が各地に散りばめられており、ジリジリと呪術界の要である呪術高専のある東京に近づいていたことは予測がついていた。
 それならば残穢を追うのは別の呪術師に任せ、自分は追うことはせず先回りしてやろうと、敢えてこの件からは身を引いて東京に滞在していたわけだが、まさか散々封印を解き、祓うのに手間のかかる呪霊ばかりを解放して現場を混乱させてきた宿儺の指を連れた人間と相まみえることになるのが、宿儺の器である悠仁を連れた今日とは。
 話が早くて助かる、と五条は持ち上がる口角をそのままに、思考の海の底から浮上した。
「先生?」
 そう再び問いかけ、己を訝しげに見上げてくる虎杖たちに取り繕うようにいつも通りの楽観的な笑顔を向けた。
「ああ、ごめん、何でも────」
「貴様も気づいたか」
「うおっ、ちょっ、急に出てくんなよ〜」
 虎杖の頬に道化にも似た口角を釣り上げた口が出現する。嫌な虫でもいたかのように、虎杖は反射的にその口を手で叩いて塞いだ。
 その様子に釘崎はドン引きした表情で大袈裟に身を仰け反らせた。それにも関わらず、虎杖は平気な顔で「気づいたって何が?」と問いかけるものだから、五条は宿儺の存在に慣れ切っている虎杖に感心さえしてしまうのだった。
「いいや〜? ま、取り敢えず行こう。悪いけど、また飯はお預けになっちゃいそうだね」
 その言葉にブーブー文句を垂れる虎杖と釘崎の後ろで、伏黒は意味深な五条の背中を見据えた。
 そうして四人は駅構内に足を踏み入れ、しばらく彷徨うと改札前の路線図を見上げる少女が目に留まる。

 ────見つけた。
 五条は虎杖たちに少し離れた場所で待機を命じ、わざとらしく踵を鳴らしながらその宿儺の呪力を纏う少女に近寄っていく。
「やあ、こんにちは」
「……何か」
 疑念と不安の入り混じった瞳を向ける目の前の少女に、五条は毒気を抜かれてしまった。一体どんな狡猾な悪党かと思えば、年相応の何の変哲もない少女なのだ。宿儺の呪力に染まり切っている状態なのが如何に不釣り合いであるのかすら本人は知らないような無垢な人間。
 何故宿儺はこの呪術界とは縁遠い少女に受肉を試みることさえせずただ従えたのか、まるで見当もつかなかった。
 五条はそんな疑念は飲み込んで、教え子に向ける笑顔と同じものを口元に貼り付ける。
「僕、五条悟って言うんだ。怪しい者じゃないから安心して」
「はあ……」
「まあ〜そんなこと言われてもそう簡単に納得はしてくれないよね、分かるよ〜! ただ、君からすごーく嫌な気配がしてたから気になって。僕、こう見えて目が良いから分かるんだよ、そういうの」
 ペラペラと捲し立てた五条は一転して声のトーンを落として問う。
「恐らく何か悪いものを持ってるんじゃないかと思うんだけどさ……心当たりある?」
「無いです」
「それじゃあ、仕方ない。そこの荷物見せてもらって良い? 絶対あるんだよ、ここに」
 ぐっと距離を詰め「持ってるでしょう?」と更に圧をかければ、それまで気丈な態度で視線を逸らさなかった彼女が、ふと視線を彷徨わせた。その様子に、やはり彼女は意図して宿儺の指を持ち歩いていたのだと察する。
 観念した様子の彼女に身を引いてやると意外にもひらり、とすり抜けられた。けれど、それを捕まえられないほど五条の反射神経は鈍くない。彼女の薄い肩を掴めば、小さく呻き声を上げたので、咄嗟に手に込めた力を弱める。それが運の尽きだったのだろう。彼女は至って自然な素振りで傍を通りかかった駅員に声をかけた。
「あっ、駅員さん。何だか変な人に絡まれてしまって……」
 そう言って五条の手から逃れた彼女は、そのまま距離を取り走り去っていく。それを追おうとする五条だが駅員によって道を塞がれてしまう。
「コラ、君やめなさい。警察呼ぶよ?」
「いやいや違うんですよ〜三人とも! 早く追って!」
 一般人を前に呪術を使うわけにもいかず、たじたじの五条は待機と指示していた教え子三人に合図を出した。
「先生怪しすぎんだろ」
「もうちょっと違う声の掛け方はなかったわけ?」
「流石にアレは逃げる」
「いいから早く‼」
 口を揃えて五条が悪いと言う虎杖たちに叱責を飛ばし、宿儺の指を持ち逃走を図った少女を追うよう命じたのだった。


永遠に白線