真実の追撃 弐

 伏黒は全くもってこの状況が理解できなかった。ただ、目の前で一人の少女が笑っただけだというのに。そう、彼女が何故笑ったのか≠ェ全く理解できなかったのである。
 あまりにも綺麗に笑うものだから、一瞬今自分が何のためにここにいて、何のために彼女と話していたのか、脳内の情報が一気に飛んでしまった。それだというのに己の心臓だけは高らかに音を上げていた。
「──私は宿儺さまだけを信じてる」
 そうだ、彼女は心底愛おしいのだと、大切に大切にその幸せを噛み締めるように両面宿儺≠神≠ニ呼んだのだ。
 その事実を認識した途端、伏黒は全身の毛穴という毛穴が凝縮する感覚に現実に引き戻された。その悪寒は間違いなく、平凡の皮を被った彼女の異常な執着に向けてのものだった。
 何の変哲もない少女だと、初めは伏黒の評価も五条のものと同じだったけれど、それはすぐに覆された。
 分からない、何故だ。何故こんなにも穏やかな顔で笑っていられる。まるで自分と宿儺が幸せでいられるなら、その他はどうでも良いような無関心までも宿して。そんな顔で、何故敵であるはずの俺を見る……!
 訳も分からず彼女の浮かべた笑みに釘付けになった伏黒は、新手の陽動作戦かと思った。その焦りが、早鐘を打つ胸の鼓動が何であるのか、この状況で察せるほど鋭くはなかった。ただ正体不明の感情が駆け巡り、それが何であるかに気を取られていたところで、目の前から少女が消えた。いや、夜の闇に放り出されていた。
 瞬時に鵺を呼び出すが、反応が遅れたせいで間に合うか分からない。急降下する鵺の背の上で、伏黒はたまたま彼女の落下点付近にいた虎杖に向かって叫ぶ。
「虎杖ーー‼ 受け止めろ‼」
「えっ⁉ お、おう!」
 伏黒の声に驚いて見上げる虎杖だったが、助走を付け傍の壁を蹴り上げ、三角跳びで難なく少女を受け止めた。
「ナ、ナイスキャッチ……!」
 ふぅ〜、と息を吐く虎杖。その横で伏黒は鵺を仕舞いながら、少女の捜索をバラけて行ったのは正解だったと安堵する。
「意識ないみたいだけど……これ、大丈夫か?」
「どこかにぶつかったようには見えなかったから問題ないとは思うが……恐らく飛び降りた恐怖で気絶したのかもしれない」
 虎杖は自分の腕の中で脱力している彼女を見つめる。伏黒の言う通り、どこにも外傷は見られない。それに規則正しく息の音が聞こえるので、身体面では無事だと言えよう。
 このビルの下に来るまで、珍しく宿儺が協力的に先導するものだから、これは明日空から槍でも降るのではと内心疑いつつ従っていたが、実際に空から降ってきたのは探していた女の子であった。どこぞの名作映画のワンシーンが頭をよぎるが、彼女が大事に首から下げているのは青白く光る石ではなく、両面宿儺の指である。
「あった……宿儺の指だ」
 伏黒は彼女のポシェットの中から丁寧に包まれているそれを取り出し、目の前にかざすと月明かりに怪しく影を落とした。直後、一足遅く駆け付けた釘崎と五条にその特級呪物を見せる。
 釘崎はその目でソレを見るのは初めてだったので「気持ち悪ッ」と率直な感想を述べた。虎杖がこれと同様のものを飲み込んでいるのかと思うとゾッとする。今すぐ口に洗剤を突っ込んで体内から洗浄してやりたくなる衝動を抑えて、苦虫でも噛み潰しているかの如く、ギュッと口を結んだ。
「いや〜危なかったね、良くやったよ悠仁。恵も野薔薇もありがとう」
「宿儺が意外に協力的で助かったんだ。やっぱ指の回収≠チて意味では五条先生が言うようにwin-winの関係が築けるかも」
「へぇ〜、協力的、ねぇ?」
 本当にそれだけ・・・・だろうか。自分が言った言葉の意味と今回のケースは少し違うように思えるが。まあ、分からないことは本人≠ノ聞いてみればいい。正直に教えてくれるかは保証できないけれど。
 そう五条は虎杖の腕の中で眠る少女と、伏黒から受け取った宿儺の指を見比べる。
「悠仁」
「なに? って、わっ」
 五条が両手のふさがっている虎杖に向かって投げた指は放物線を描き、反射的に受け止めようとした虎杖の口に入る。ゴクリ、喉を鳴らし飲み込んだその様子に伏黒はいくら見るのは二度目とは言えど慣れないな、と思いながらも警戒態勢に入り、釘崎は声にならない悲鳴を上げ街路樹の根元でオェ〜と思い切りえずいた。
 一瞬、虎杖の顔に独特の模様が現れたが、膨れ上がった宿儺の気配はすぐに落ち着き「不味い、不味い」と言いながらも、平気そうな顔をしている器の彼に五条は声をかける。
「何ともない?」
「うん、大丈夫だけどちょっとうるさい」
 宿儺を黙らせようと、虎杖はコツコツ自分の頭を叩きながらそう答える。
「制御できてるなら問題ないね。それじゃ、ちょっと宿儺と代わってくれる?」
「え、大丈夫なんですかそれ」
 咄嗟に止めに入る伏黒。一度は制御に成功しているとはいえ、あの時は夜の学校で一般人は襲われて意識のない二名しかいない状況だった。しかし、今は都会のど真ん中。すぐそこの大通りでは多くの人が何も知らずに往来している。そんな中、宿儺に身体の主導権を渡すのはあまりに危険すぎる。
 そんな伏黒の懸念をよそに五条は意味ありげに笑った。
「大丈夫さ。今はほら、人質≠ェいるから」
 五条はピッと指を差す。人質と呼ばれた少女にその場にいた全員が注目する中、釘崎は心底理解ができないとでも言いたげに本音を零す。
「両面宿儺にとって人質になりうる人間って、一体何者なのよ……」
 その疑問に虎杖も伏黒も同意した。五条は生徒たちにあの集落・・・・で起こった全容を伝えていなかったからである。虎杖と釘崎の上京組は仕方がないが、伏黒にも言っていなかったのはあの一連の事件がなかなかに不透明であったからだ。術師の実力に見合った任務を振るのは当然だからこそ、全容が見えない事件は振ろうにも振れない。判断を見誤ればそこにあるのは死だ。
 だから、いくらなんでも入学直後の伏黒に、この一連の事件を当てるわけにはいかなかったのだ。集落の見張りくらいはさせても良かったのかもしれないが、長丁場の監視任務だけに術師を駆り出すほど呪術界は暇ではない。
 五条は未だに謎が多いこの事件の鍵になっているであろう、その少女について教え子たちに手短に説明してやる。
「彼女は呪物信仰……両面宿儺の指を神として祀っていた土地の人間だよ、恐らくね。真相は宿儺か本人に聞けばいい」
 そう、手短にとは言ったけれど、逆に今のところそれくらいの情報でしか彼女を表せない。だからこそ、五条は少しでも情報を得るために虎杖に宿儺と代われと言ったのだ。……もちろんそれだけではないけれど。
「自分の信者なんて、宿儺にとってこれほど扱いやすい手駒はない。手放すのは惜しいはずだ。それに見捨てるなら今まで何度だって機会はあったはずだからね。今その子が無事に生きているということは、ここに辿り着くまでの間、宿儺が手助けしていたんだろう。まぁ、指が器の中に取り込まれた時点で用済みの可能性もあるけどね」
 人質になり得ない場合もあるのか、とギョッとする三人の前で五条はあっけらかんと笑う。
「ま、たぶん大丈夫でしょ! 僕、最強だし」
「たぶんじゃ済まされないですよ、それ」
「恵は心配性だな〜」
 不安だ……とあからさまに顔に出す教え子たちをよそに、五条は虎杖に近づく。
「悠仁、貸して」
「うん」
 五条は虎杖の腕の中から、人質になってくれるであろう少女を掬い上げ胸元に収めた。


永遠に白線