蝕まれるもの 壱

 プツリ、皮膚を貫いて異物が体内に入り込む感覚に、私は思わず身を固くした。
「痛い?」
「いえ、気を抜いていたから少しびっくりしただけ……」
 私の腕から丁寧に血を抜いていく硝子さんの手つきを見守りながらそう答える。アルコールで消毒された肌が外気にさらされているはずなのに、独特の冷たさは感じられない。
 そう、やせ我慢をしているとかそういうことではなく、腕に針を刺されるのに全く痛みを感じなかった。彼女の処置が異常に上手いのか、それとも私の痛覚がおかしくなっているのか……どう考えても後者でしかなかった。
 もともと注射は苦手ではなかったけれど、それなりに痛みは感じていた。それなのに、今こうして予防注射の針より太い採血針を刺されているのに、痛みを感じないのはどう考えてもおかしい。自分の意志とは関係なく、自分から何かが乖離していくような、そんな感覚に侵される。
「そう? よく我慢できたね、と褒めてあげようと思ったのだけど残念だ」
「……そんなに子供じゃない」
「高校生なんてまだまだ子供だよ」
 そう薄く笑った彼女は注射針を抜いた。
 私は彼女の言った言葉の意味を考える。
「そう、かも……私、高校生にもなれてないから」
 少々卑屈な答えを出した私に、彼女は何も言わずに肩をすくめた。
「さあ終わりだ。楽にしていい」
 腕を縛っていたゴム管を外した彼女の声で、握っていたこぶしを開いた。塞き止められていた血液が冷たくなった指の先まで流れていく感覚にゾクリ、と肌が粟立った。
 あの日、私がこの呪術高専で目覚めてから、また半月ほどの時間が流れている。今の今まで私は与えられたこの部屋から出ていない。ここはもともと職員が泊まることができるように作られていたらしく、生活に必要な設備や物はすべて揃えられていたため、外に出る必要がなかった。
 まさしく監禁生活を送っていた私の監視役は、もちろん硝子さんである。多くは語らずこちらの領域に不躾に踏み込んでくることもない彼女は、私にとって相性が良かった。彼女は私に何かを強制させようとするわけでも、諭すように説教をするわけでもなく、ただ同じ空間を分け合っている感覚だったので、気負うことがなくとても過ごしやすかった。
 ここでもし五条さんが監視役だったとしたら、私の精神状態は壊滅していただろう。発狂して暴れでもすれば拘束具を付けられてまでの監禁になっていたかもしれない。私だってこれ以上何かを制限されるのは嫌なので、心底硝子さんで良かったと思うのだった。
「そう言えば、この後五条が顔を出すと言っていたが」
 止血をし、上から大きな絆創膏を貼った彼女のその言葉に、思わず固まってしまう。「もうすぐだな」と時計を確認する彼女に何故断ってくれなかったのだと思ってしまうが、以前も「五条に何を言っても聞かないから観念しろ」と言われていたので諦めるしかなかった。
「来なくていいのに……」
 それでも、不満を零すくらいは許されていいはずだ。
 ため息を吐いた私に、彼女は採取したばかりの血液を冷蔵庫のような機械に入れ厳重に保管しながら背中越しに問うた。
「五条は嫌いか?」
「はい」
 嫌いと言うのはもちろんなのだけど、何より私はあの人が怖かった。ここでは彼の意見が正しく、私は異端であることは今になっては理解できたけれど、まだ状況を飲み込み切れていない人間に向かって残酷な事実を突きつけるだけの行為は、間違いなく私の息の根を止めにかかっていた。
 私はあの時、一度彼に殺されたのだと思う。心が死んで、何も感じなくなって、一滴目の淵から零れた雫の後を追う涙は、もう込み上げてはこなかった。
 硝子さんは即答した私に堪えきれないと言いたげに笑いを零した。
「フフ、それは正しい感覚だな。あいつは昔からクズだから」
「硝子さんは仲が良さそう」
「冗談。腐れ縁だよ」
 そう言いながらも彼女は五条さんのことをよく理解しているように見える。同級生だと言っていたから、きっと口で言うほどそうは思っていないのかもしれない。
 ふと、視界の端で何かが光った。何気なく視線を傍の机に向ける。そこには手術に使われるような名前も分からぬ器具が、銀のトレイの上に無防備に置かれていた。
 これから彼女が使うのだろうか。規則正しく並べられたそれらの中で、鋭く尖る刃先がやけに存在を主張している。何故だか目に留まってしまったソレから目が離せなかった。
 硝子さんはこちらに背を向けて備品の確認をしている。
 完全に死角だ。
 今なら……今なら、手が届く。
 一瞬で、この喉を掻き切ってしまえる。
 己の指先がピクリ、と動いた。
 私はこの生活の中で、常に絶命できるきっかけを探している。失敗してしまえば確実に監視体制が強化されるためチャンスは一度きり。その好機が今なのかもしれないと思うと、みすみす逃してしまうのはあまりにも惜しい。
 私は意を決して、ゆっくりとその鋭く光を反射させるソレに向かって腕を伸ばした。
「お疲れサマンサー!」
 突如部屋に響く大きな声に、思わず肩を揺らした。瞬時にひっこめた手は、その声の主である五条さんには見えていなかったはずだ。
 私は早鐘を打つ心臓の音を無視して平然を装った。怪しまれてしまえばもう二度と機会は巡ってこないのだから。
 ずかずかと部屋の奥にいる私の元までやって来た彼と目を合わせてしまえば、全てを見透かされてしまいそうで、顔をそらし不機嫌を装った。
「……別に疲れてません。寝てばかりなので」
「つれないなぁ。そうだ、これあげるよ」
 ポン、と手渡された箱の包みを見る。
「八ツ橋……?」
「そ、さっきまで京都校の奴らが来ててさぁ、そこのジジイが……というか、気を利かせた学生が形だけよこした手土産だよ」
 何でも、姉妹校である京都の学校と交流試合をするらしく、それの打ち合わせのためにはるばる東京までやって来たらしい。そんな学校らしい催しもあるのか、というのが率直な感想だったが、そもそも私はこの学校のことを何も知らないので口に出しはしなかった。
 五条さんは「無駄に長く生きてる年寄りの相手は疲れるよ」と言いながら、私に八ツ橋の包みを開けるように促してくる。
「硝子もいる?」
「私はいい、甘いのは苦手だ」
「だよねー」
 その会話を聞きながら、丁寧に包みを開け、中の容器を取り出した。すると横からヒョイと腕が伸びてきて一つ八ツ橋を攫って行く。表面に薄くついた粉を落とさぬよう、一口で平らげた彼に「食べないの?」と聞かれれば、断る理由もないので私もおずおずと一つ口に運んだ。
「どう? 美味しい?」
「美味しいですよ」
 嘘だ。本当は味なんてしない。何度咀嚼しても、ただ口の中でもったりとへばりつくそれらを美味しいとは思えなかった。
 痛覚だけでなく味覚まで失いつつあるけれど、それを悟られたくなくて私はいつも「美味しい」と嘘をつく。もしかしたら、このまま五感を全て失うかもしれない。けれどそれは身体が自然と死を求めているようで、今の私にはそれを止めようとも、止めたいとも思わなかった。
 自然に死ねるならそれが一番いい。緩やかに過ぎる時間に殺されるというのも案外悪くないのかもしれない。
「君、僕が持ってくるお菓子には反応示すよね」
「お菓子に罪はありませんから」
 罪がないから味がしなくても食べる。ただ、それだけ。
 五条さんの反応を見れば、私の嘘には気付いていない様子でそう返すものだから内心安堵でため息をつく。すると彼は私の返答が気に入らなかったのか、子供のように口を尖らせた。
「何それ、僕にはあるわけ?」
「自分の胸に聞いてみて下さい」
「えー? 僕はいつだって君のことを思って行動してるのに」
 私のことを思って行動していたらそもそも今ここに彼はいないはずだ。今の私の願いはただ一つ。早くここから立ち去って欲しい、切実にだ。
 ブーブー文句を言いながら、また一つ八ツ橋を口に放り込む五条さんの肩を、それまで黙って聞いていた硝子さんが叩いた。


永遠に白線