蝕まれるもの 弐

「やめておけ、それ以上嫌われたくなかったらな」
「僕が嫌われてるわけないじゃん」
「どこから来るんだその自信は……」
 他人に対して嫌いだという気持ちを、こんなに態度に混ぜ込みながら接してきたのは五条さんが初めてだった。それなのに、彼は一切こちらの気持ちを汲み取ってくれない。きっと彼は自己肯定感がエベレスト並みに高いのだろう。羨ましい話だ。
 そう、彼は私の抵抗など痛くも痒くもないのだ。とてつもない虚しさに襲われながら、私は彼に声をかけた。
「五条さん」
「何?」
「聞きたいことがあるんですけど」
「いいよー、何でも答えてあげる」
 傍の丸椅子に座った彼は長い脚を余らせている。窮屈に折り畳んだ膝の角度は一体何度なのだろう、だなんてくだらないことを頭の隅でぼんやりと考えながら彼に問う。
「梅雨、もう来ましたか?」
「うん、とっくに終わったよ」
「外、暑いですか?」
「夏だしね、毎日溶けそう」
「蝉、鳴いてますか?」
「ここ山の中にあるからめちゃくちゃうるさいよ」
「私、いつまでここに居ればいいですか?」
「うん、もうちょっとかなー」
「…………」
 淡々と外の様子を問うた後、本当に聞きたかったことをぶつけたけれど、返ってきたのは曖昧な答え。私は沈黙するしかなかった。
 季節は思ったよりも私を置いて進んでしまっている。全てに取り残された私は、結局死ぬまでここにいることになるのかもしれない。
 それから何も言葉を発そうとしない私に、五条さんはゆっくりと口を開いた。
「逆にさ、君はここから出たら何がしたい?」
「ここから、出たら……?」
 彼が繰り出したのは予想外の問いだった。
 出してくれる希望も与えないくせに、それを問うのはあまりに残酷ではないだろうか。それでも、もし彼の言うように外に出られたのなら……
 込み上げた怒りを抑え、冷静に己の気持ちを確かめる。しかしそこにあったのは、ただの無≠ナあった。
 何もない。私には希望など、どこにもなかった。望んでいるのは己の死のみ。ここから出てもそれは変わらない。もし、晴れて自由の身になったとしても、監視の目がなくなって嬉々と命を絶つ様子しか思い浮かばなかった。
「思い付かない?」
 頬杖を付いた彼は悩んでいる私を見つめ、そう声をかけた。
 まさか死ぬことしか思いつかなかったと答えるわけにはいかなかったので、おとなしくその言葉に頷いた。
「残念だな、僕なら何だって叶えてあげられるのにさ」
 そう言って、「女の子なら買い物とか好きでしょ、TDLに行きたいとか、上京したてなら東京観光したいとかさ」と彼の考える年頃の女の子が好きそうなこと≠挙げていく。
 手を伸ばせば掴めそうなそれすら手に入れられない私への当てつけかと思った。けれど、それすらも思いつかない私は、目先の小さな希望でさえ望んでいないのだと、ますます空っぽになった自分に磨きがかかるような思いだった。
 何だって叶えてくれるのなら、もうほっといてほしい。私はもう解放されたい。宿儺さまのいないこの世界から、消えてしまいたい。
 胸に放たれた不透明な感情を、彼を前にして正確に吐き出すことは出来そうにない。だから私は少しでも気を晴らそうと、彼を拒絶する言葉を吐く。
「……やっぱり、嫌い」
 私のつぶやきに硝子さんがため息交じりに「ほらみろ」と五条さんをたしなめる。
「じゃあさ、気分転換に行こう」
「気分転換……?」
 五条さんはそう言うが早いかベッドの上の私を引きずり出し、そのまま私の手を引いて今までずっと出ることを許されなかった部屋から難なく連れ出す。戸惑う私は振り返って硝子さんを見るけれど、彼女は小さく笑って手を振っていた。
 彼の半歩後ろを、半ば引きずられるようにしながら、長い廊下を歩いていく。
 ここ呪術高専というのは、普通の学校より随分と歴史を感じる造りをしていた。それにしても通り過ぎるのは無人の教室ばかり。どこを歩いても生徒の声は聞こえない。……少し不安になってきた。
 キョロキョロと周りの様子を伺っていると、それまで無言だった彼が急に口を開く。
「喉乾いたから自販機行っていい?」
「は、はい。どうぞ……」
 私に選択権はないのに、何故許可を取ったのか……
 やはり私には、この人のことが分からない。口を噤んでそんなことを考えていると、目の前を夏を纏った風が吹き抜けた。それに誘われるように彼の手を離れ、出口から外へ一歩、足を踏み出す。影から日向へ。久しぶりに浴びた陽の光に目を細めた。
「本当に、暑いですね」
 その言葉は、頭上から降る蝉時雨に掻き消された。
 五条さんは今の私に逃げ出す気がないと判断したのか、それとも逃げ出しても簡単に捕まえられるからなのかは分からないけれど、再び手を取ることはなくそのまま人一人分の間を空け並んで歩き出した。
「ねぇ、呪術師に必要なものって分かる?」
 ……何か、試されているのだろうか。
 あまりに唐突に問いかけられたものだから、狼狽えた私は適当に思いついた言葉を並べた。
「え、いや……何でしょう。強さ、とかですか?」
「ブー! 強さは生まれ持った才能と鍛錬を重ねることで手に入れることができるけど、それ以外にも持ち得ていないと術師を続けていけないものがあるんだ」
 人差し指をクロスさせバツを作った彼はクスリと笑った後、そのまま楽しそうに続ける。
「答えは殺す≠ニいうことに対して躊躇をしない≠アとだ。才能があっても、自分を害する形のあるものに恐怖を抱いてしまえば間違いなく死ぬ。ここにいるのはさ、みんなその恐怖や嫌悪に打ち勝ってきた奴か、そもそもそんなことも感じないイカれた人間の集まりだ」
 そのまま大きな門のような建物に入る。いくつか並んだ自販機の前に立ち、彼は私にどれがいいか聞いてくる。味もしないし特にこだわりもないので私はミネラルウォーターを選んだ。その横で彼は先ほどお菓子を食べたにもかかわらず、甘そうなカフェオレを選んでいたのでよほどの甘党なのだと察した。
「五条さんもそうなんですか?」
 現に呪術師をしているのだから殺すことに躊躇がないのだろうけど、なんとなく聞いてみたくなった。
「僕がイカれてないように見える?」
「いいえ」
「ククッ、酷いなぁ」
 小気味の良い缶を開ける音と共に喉の奥で笑った彼は、近くのベンチに座る。私も真似て隣に腰を下ろすと、彼はそのまま話を続けた。
「実際、それで挫折する人も本当に多いんだよ。でもそれは呪術師に向いてないってだけで、寧ろ善良な一般人と同じ感覚ってことだ」
 一口、水を口に含み喉の渇きを潤してボトルの蓋を締める。タプン、と透明な容器の中で音を立てたそれを見つめながら続く彼の言葉を待った。
「君は、僕に呪霊を……いや、人を殺せと言われたらどうする?」
「……そんなこと……私にはできない、と思います」
「じゃあ、宿儺に言われたら? 宿儺ならありえないことじゃない」
 ハッと顔を上げた。相変わらず隠された瞳のせいで表情が読めない。怖い、今の彼は私が一番嫌いな五条さんだ。
 私は宿儺さまに言われたら何でもするだろう。人を殺せと言われたらきっと最終的には必ず殺すはずだ。それが彼の意思なら私はそれに従うと決めているのだから。
 けれど、躊躇せず殺せる自信はない。私の中に残った理性が、初めて見た死んだ人間の姿を、凄惨な死に際を、殺される側の恐怖を思い出させるせいで、宿儺さまにとって従順な手駒で居られない。それは嫌だ。それでは見限られてしまう。できることなら私は永遠に彼の奴隷でいたいのに。
「五条さん、いじわる……なんで、そんなこと、いまさら……」
 あんなに宿儺さまはもういないのだと突きつけておいて、また今になって思い出させるような真似をして……結果あのまま宿儺さまと居ても従順な奴隷で居られなかったと諦めさせるような答えを出させるなんて、あまりにも酷すぎる。
 揺れる視界で彼を捉える。力を入れて握ったせいでペットボトルのへこむ音が響くけれど、彼はさして気に留める様子などなく、どこかあの時と違う優しい声音で言葉を紡いだ。
「……君はあの・・環境の中で育ったわりには善良な人間だよ。間違っても君を殺そうとした神主のようにはならなかった。生贄なんておかしいと、そう思えただけでも上出来だ。それだけ教育≠ニいうのは個々の人格形成に大きな影響をもたらすんだ。一種の洗脳だよ」
 ……善良な人間。本当にそうだろうか。今思えば私とあの神主の間に、そう大きな違いはなかったように思える。確かに異常だと思ったけれど、あの生贄の風習が本当に宿儺さまの意志で命令したものなら私は罪の意識を持たずに、集落の人間と同じく黙認し、神主と同じように幼い子供を殺していたかもしれない。
 今日の五条さんは甘いな、と思った。いつもは厳しい言葉をかけることの方が多いくせに。
「でも、君を害する相手を殺すことで、君は宿儺に助けられた。君にとって唯一無二の神である両面宿儺に、だ。それ以降の心理は理解できる。でも納得はしてあげられない」
 そこまで言い切って彼は一息つく。缶の中身を一気に飲み干し、そっとベンチに置いた。
「さっきの宿儺に人を殺せと命令されたらどうするかって質問したけど、あれに即答しなかっただけでも立派だよ。君にとっては即答できた方が生きやすかったんだろうけどね。君の宿儺への執着心は確かに異常だけれど、根っこの部分はイカれてない。それが、救いなんだ」
 ゆっくりと手が伸びてくる。何をされるか見当もつかなくて身を固くし目を瞑った。


永遠に白線