蝕まれるもの 参

 ポン、と乗った頭への小さな衝撃。それが何であったか、一瞬理解できなかった。
 頭を……五条さんに、頭を、撫でられている。
 その事実に思わず目を見開いた。身体は相変わらず固まったままだったけれど、大きな手から伝わる温もりが、身体の中の乾いた何かを潤していくような気がした。
 彼はまるで赤子をあやすように、何度かトントンと指でリズムを取る。それを頭の上で感じながら、私はおそるおそる彼に視線を向けた。
 目隠しの奥、隠された彼の瞳と目が合った。確証はないけれど、確かにそう感じたのだ。微笑を携えた彼の唇が、ゆっくりと動き出す。
「君はさ、まだ間に合うんだよ」
 息が詰まった。
 あまりにも柔和な物言いで、胸の内をぎゅうぎゅうと締め付けて放さない。自分が今どんな感情なのかも理解が追い付かなくて、今すぐ彼の前から逃げ出したかった。
 でも、それは彼が許してくれない。続けて紡がれる言葉が私の鼓膜を揺さぶった。
「だから、このまま僕に救われて欲しい」
「どうして、そんなこと……」
 やっと発することができたその言葉と共に、詰めていてた息を吐き出して酸素を吸い込む。大きく脈を打つ心臓の音に支配されそうになりながら、彼の返答を待った。
「ねぇ。これ、外しみて」
「え……」
 これ、と言われたのは彼の目を覆う黒い目隠しだった。話の流れからは何故目隠しを外させようとするのか、その意図は全く見えない。
 彼はなかなか外そうともせず、戸惑っている私の手首を掴んだ。そして、有無を言わせず目隠しへとその手を導く。
 彼の白い髪に指先が触れた。柔らかな手触りを感じながら、黒いそれに指がかかる。
 緊張のあまり、私は喉を鳴らした。ゆっくりとそれを下へ下へと降ろしていく。
 青。現れたその色から目がそらせなかった。まるで晴天をそのまま瞳に宿したような青が、私を見つめ返している。
「僕は強いんだ。自惚れではなくね」
 その瞳の透明度に飲み込まれてしまいそうになりながら、彼の言葉を耳に入れた。
「五条家に伝わる無下限術式とこの六眼の両方を持って生まれてきた。君は呪術界のことは詳しくないから分からないかもしれないけど、これを使いこなせるからこその最強なんだ」
 彼は日頃から自分を自分で最強だと謳っていたので、本当に強い人は自らそんな風に豪語しないのでは、と呆れ半分で正直信用していなかった。けれど、この目を前にしては、もうそんなことは言えなかった。呪力がない私でも圧倒されるそのオーラを前に、身動き一つ取れない。
「それでも。僕は、救われる準備ができている人間しか救えない。……だから、どうか君には僕に救われる準備をして欲しい」
 ……どうして。
 そうまでして私は彼に救われるべき人間ではない。彼にとって私は他人で、私にとっても彼は他人だ。なんでそんな人間まで救おうとするのだろう。私にはもう差し出せるものは何もないのに。
 そう思っていたのを見透かされたのだろうか。けれど彼は否定をするのではなく、ただ言い聞かせるように手を差し伸べるのだ。
「僕は君を救いたいんだよ」
 この救いの手を取れたのなら、私はきっと五条さんの考える年頃の女の子みたいな希望を抱くことができるのだろう。そうすればきっと普通≠フ幸せが手に入る。
 ──だから、私はそれを望まない。私の望む幸せは異端だと、異常だと呼ばれる普通≠フものではないのだから。
「ま、時間はたっぷりある。もう一度他の人間に触れて自分のことをゆっくり見つめ直せばいいよ」
 そう言ってクシャリと笑った彼の表情は、私が想像していたものよりずっと幼かった。
 素直に彼に身を委ねられないことが何だか申し訳なくて、居た堪れない想いだった。時間が解決するのだろうか。何も考えず生きていける未来が、私にはあるのだろうか。そうだとしても、やっぱり今は考えたくない。
 ガシャン、彼が空き缶を捨てた音によって、私は思考を閉ざした。
 「行くよ」と声をかけられて見上げれば、そこにはいつもの瞳を隠した五条さんが居た。
 普段はその姿を見るだけで警戒を強めるけれど、今は何だか安心してしまった。目隠し姿は何度見たって怪しい人だけど、やはり見慣れているこちらの方が素顔より何倍も接しやすい。
 傾きかけた日が私たちの影を長く伸ばす。
 彼は来た道を戻るのではなく、別の場所を目指しているようだった。少し歩いて開けた場所に出る。そこは運動場だった。
「やっほ〜」
 彼はいつもの調子で木陰に座る男女二人の元に向かう。一人は見たことがある。あのビルの上で言葉を交わした黒髪の男の子だ。もう一人は茶髪を肩の上で切り揃えた気が強そうな女の子。この子は初めて顔を合わせる。
「紹介するね〜! 君と同い年で一年の伏黒恵くんと釘崎野薔薇ちゃんでーす!」
「ちゃん、て」
 釘崎、と呼ばれた少女はケッと吐き捨てるように呟いた。五条さんの呼び方が気に入らなかったらしい。
「その人、結局このまま預かるんですか?」
「まぁね〜今までは硝子のとこに居たんだけど、流石にそろそろ外の空気を吸わせてあげないと可哀想かと思ってね。ま、若人たちで仲良くしてよ」
 五条さんはバシバシ私たちの背中を叩いた。その勢いに思わずよろけそうになりながら、二人に自己紹介として名前を告げて頭を下げた。
「あ、野薔薇。今日からこの子と一緒に部屋で生活して」
「はぁ? 部屋狭くなるんですけど」
「もう一つベッド置くくらい平気でしょ〜女子同士積もる話もあるだろうし!」
「積もる話も何もほぼ初対面なんだが」
 彼女はそうバッサリ切り捨てたものの、五条さんは全く聞いていない。私が彼女の部屋で生活するというのは彼の中では決定事項らしい。
「野薔薇が授業の時は硝子が呼びにくるからこれまで通り必要最低限、部屋は出ないで」
「……はい」
 そう念押しした彼は「野薔薇、ちょっと」と手招きで少し離れた場所へ彼女を呼び寄せた。その場に残された私と黒髪の少年、もとい伏黒くんの間に気まずい空気が流れる。
「…………」
「…………」
 沈黙が痛い。
 何か話さなければ、とは思うのだが何せ彼との出会い方は最悪だった。言葉を交わしたことがある、と言えば聞こえはいいが、あれはお互いがお互いの主張をぶつける怒鳴り合いだった。
 まさか、こうして後から顔を合わせることになるなんてこれっぽっちも思っていなかったので、あの時は必死だったこともあり敵として見てしまっていたのはしょうがない話だと思う。
 とりあえず、形だけでも謝っておこうと、重たい空気の中、口火を切る。
「あ、あの……」
「悪かった」
「え、いや、何で……」
 こちらが言おうと思っていたことを急に取られて謝られてしまった。しかし、彼が謝った理由が分からなかったので私は首を傾げた。
「助けられなかった」
 悔しそうに告げた彼。彼が指したことに思い当たるのは一つしかない。
「私がビルから落ちた時のこと……?」
「……ああ」
「今こうして生きてるし、伏黒くんは何も悪くない……と思う」
 あれは宿儺さまに落とされただけだ。確かに屋上で追い詰められはしたけれど、あそこに逃げ込んだのはそこしか方法を思いつかなかったとは言え、私の意思だ。
 彼にそこまで非はないと思う。あれも仕事の内なのだろうし。
 そのことを伝えても彼の表情は一向に晴れない。
「あの距離でも普段の俺なら助けられた。落ちたとしても俺の式神で何とでもなる。そう、助けられたはずだったのに、あの時は……」
「?」
「……アンタが、笑うから」
 心底恨めしそうに奥歯を噛み締めた彼。その表情は納得できるけれど、理由はやはり納得できない。私が笑ったから何だと言うんだ……
 それを聞く勇気はなかったけれど、私のせいではあるようなのでひとまず取り繕うように謝る。
「そ、その……ごめん、なさい……?」
 その返答に複雑そうな顔になってしまった彼にどう接していいものか、お手上げ状態になった時、この場の空気を読んだように離れた場所で話し込んでいた二人が帰ってくる。
「待たせたねー、荷物は硝子に持って行くよう頼むとして、ベッドは後で運びにいくから! 恵が」
「俺ですか」
 そんなやりとりが交わされている横で、ジッと目の前の少女から視線を感じる。
「釘崎野薔薇。よろしく」
 一言告げた彼女は手を差し出す。
「……よろしくお願いします、釘崎さん」
「堅苦しいわね、野薔薇でいいわよ」
 そう言った彼女の──野薔薇の手を取った。


永遠に白線