蝕まれるもの 肆

 宿儺さまが死んでから二ヶ月の時が流れたというのに、今日も私は惰性で生きていた。
「野薔薇、朝だよ」
 突然始まった野薔薇との生活だったけれど彼女の部屋が狭くなってしまったという点以外お互い不都合はない、と思う。
 私はいつのまにか彼女の目覚ましの役を任されており、毎朝ベッドの上で丸くなった彼女を揺さぶることから一日を始める。
 機嫌の悪そうな唸り声を無視してもう一度肩を揺らせば、ようやくムクリと体を起こした。
「おはよ……」
「おはよう、早く支度しないと遅刻するよ」
「うーん、わかってるって……」
 そのまま再び目を閉じかけた彼女の手を引いて鏡台の前に座らせれば、嫌でも目が覚めたのかそのまま寝ぐせのついた髪を整え始めた。
「アンタ、朝強いわよね」
「そうでもないよ、最近はちょっと……寝つきが悪くて」
 言葉を選んでそう伝えると「そう」とそっけない返事が返ってくる。
 野薔薇は私の監視役だ。それまで硝子さんのしていた役目を負って、私のいないところで五条さんに私の様子を報告しているのだろう。それでも彼女自身、なんだかんだ心配してくれているのは知っていたので、その好意を無下にしないように取り繕う。
「ちゃんと寝ないと肌荒れるわよ」
「うーん、そうだね。硝子さんに相談してみる」
 味覚も痛覚も失って、今は嗅覚を失いつつある。そのうち視覚も聴覚もなくなってしまうのだろう、と予測がついていた。身体は死に向かって着々と歩みを進めているというのに、今更寝不足ごときで騒ぐことはない。けれど、野薔薇に零した時点で五条さんまで伝わってしまうのなら改善しようとする姿勢を見せておいた方がいい。それに────
「うん、それが一番いい」
 そう言って安心したように彼女が薄く微笑むから。確実に絆されていると自覚せざるを得ない。けれどそれはそれで良いのかもしれない、とそっと胸の内に留めた。

「寝つきが悪い……か、具体的には?」
 手元の書類を真剣に目を通していた硝子さんは私の話に顔を上げた。
「うーん、寝苦しかったり、そのせいでやたら早く目が覚めたり……?」
 実際、具体的に何かがあるわけではない。ただ、得体の知れない何かに押しつぶされそうになる感覚に目が覚めるだけ。感覚としては息苦しいと言うのが一番かも知れない。
「なるほど。睡眠薬に頼るのは得策ではないからな。まぁ今まで監禁生活で運動不足もあるし、身体動かして疲れさせるのが一番健康的ではあるな」
「運動……確かに全然してなかった」
「それで改善しなかったらまた別の方法を考えればいい。気にしすぎが一番良くないからな、あまり肩肘張るなよ」
 思い詰めるのを危惧したのか、そう念押しした彼女に頷いた。
「運動したいなら五条でも付けとくか?」
 そうちゃかした彼女にムッと顔をしかめる。
 比較的自由に動き回れるようになっていた私は、誰か監視役を付ければ学内を動くことが許されていた。大抵、野薔薇や硝子さん、五条さんの三人のうちの一人と一緒にいることが多い。だからと言って五条さんとは好きで一緒にいるわけではないのだ。
「……私、硝子さんまで嫌いになりたくない」
「ハハ、悪かったよ」
 軽く笑って謝罪した彼女は「五条は今海外出張に行ってるから安心していい」とフォローを入れた。
「私ができるのはせいぜいランニングくらいだから、野薔薇にでも付き合ってもらう」
「随分打ち解けてるじゃないか」
「そうかな」
「歳の近い仲間っていうのはやっぱり特別だからね。大切にした方がいい」
 ……仲間なんかじゃない。私は術師ではないのだから。それに私は野薔薇や伏黒くんから見たら、仲間であった虎杖くんの仇である宿儺さまに、生きていて欲しかったと願う者だ。本来なら、残されたもの同士仲良くしましょう、というのは違う気がする。
 考え込んだ私に気づいたのか、硝子さんは「さてと」と立ち上がった。
「昼からはアイツら確か京都校との交流会に向けて外で特訓してるはずだから、それでも眺めときゃ退屈はしないだろう」
 そう彼女に連れられて運動場までやってきた。九月と言ってもまだまだ日差しが強く、残暑が厳しい。「この歳になると直射日光はキツい」と言って冷房の効いた校舎の中へそそくさと戻って行く彼女の背中を見送って、私は階段に腰を下ろした。
 遠くで二年生の人たちが組み手をしている。それを眺めていると背後でザリ、と砂を踏む音がした。
「あ、」
 振り返るとそこには伏黒くんが立っていた。若干ぎこちない空気の中、初めに口を開いたのは彼だった。
「外に出て大丈夫なのか?」
「さっきまで硝子さんが監視でついて来ていたから大丈夫」
「いや、そういうことじゃなくて……」
 もどかしそうに頭を掻いた彼は「寝不足だって釘崎から聞いた」と呟いた。どうやら心配してくれているらしい。
 伏黒くんも野薔薇も硝子さんも、それに五条さんも、何で私に優しくしてくれるのか分からない。だからこそ、その優しさを無下にはできなくて、その度に自分がどうしようもなくお人好しなのだと思い知らされる。
「あ、うん、それなら寧ろ外に出て運動することを薦められてるから大丈夫だよ」
「運動?」
 予想外だったのか不思議そうにオウム返しをした彼に、運動すれば疲れでよく眠れるのでは、という健康的な改善策を試すつもりだと話す。
「野薔薇を誘ってみようと思って。流石に五条さんに頼むわけにはいかないから」
 彼は私の好き嫌いと抜きにしても忙しい人だと認識している。常に出張とどこかを飛び回っており、帰った折にはお土産を持って私の元を訪れるのだ。きっとお菓子で私の反応を買えるからなのだろうけれど、それなら嘘でも美味しいなんて言わなきゃよかった、と今更後悔している。
 私は二年生におもちゃにされている野薔薇を眺めながらそんなことを思う。気づけば隣に腰掛けていた伏黒くんがポツリ、と呟いた。
「……大体、いつも十八時くらいに学校の周りを走ってる」
「?」
「……だから、ついでにアンタも走ればいいんじゃないか」
「……いいの?」
「ああ」
 意外だった。私が彼と接するのに気まずさを覚えているように、彼もまた同じだと思っていたから。自分のトレーニングのついでだからと言っても、私自身の都合に付き合ってくれるとは思わなかった。
 彼は「門のところで待ってる」とだけ言い残して、戯れている野薔薇たちの元へ向かっていった。

「今日はありがとう」
「別に大したことじゃない」
 礼を告げると簡素な答えが返ってきた。それもまた彼らしいものだと理解して小さく笑った。
 街頭の光を辿って寮までたどり着いた。この辺は五条さんから効いていた通り山の中にある分、灯りが少ないからすぐ真っ暗になってしまう。
 伏黒くんは先にトレーニングとして走り終わっていて、クールダウンとして私と走ってくれた。私としてもそちらの方がありがたかった。日頃から鍛えている男の子と引きこもりの私の体力じゃ比べるまでもなく雲泥の差がある。事前に「足を引っ張ってしまうと思うからもし嫌だったら言ってね」とひたすら念押ししてから走ったくらいなのだから、彼もまた私の性格も察していたのかもしれない。
「じゃあ、このまま部屋に帰るから」
 別れ際、彼にそう告げて廊下を歩き出す。
「……っ、待て!」
 勢いよく腕を掴まれてしまったので、驚いて彼の方を振り向いた。
「な、なに?」
「……いや、気のせい、か……」
 切迫した表情で私を見つめている彼は、掴んでいた手を下ろして「なんでもない」と何かを誤魔化した。
 そんな態度を取られると気になってしまう。
 問いかけようと口を開くと、彼はそれを拒否するように上から言葉を被せた。
「ちゃんと寝れるといいな」
「うん、そうだね……」
 気遣う言葉だっただけに、肯定せずにはいられなかった。
 彼はそのまま去って行く。今度は私が彼を引き留めるか迷った。けれど、日を空けて聞いた方が答えてくれるかもしれない、と思い直して彼の背中に声をかけることはなく部屋に戻った。
 そしてそのまま晩ご飯を取り、シャワーを浴びると身体が疲れていることに気づく。意外にも身体を動かすという改善策は効いているようだった。濡れた髪をタオルで拭きながら再び部屋に戻ると、一足先に入浴を済ませた野薔薇と顔を合わせる。
「伏黒と走ってきたんでしょ? どうだった?」
「うーん、ペースを合わせてもらって申し訳なかったな」
「それだけ?」
「うん」
 そう言った私の答えに野薔薇は悪どい笑みを浮かべて「伏黒ざまぁ」と呟いた。彼女が何故だか楽しそうにしているのを見つめながら髪を乾かす。兎にも角にも早くベッドに辿りつきたかった。それくらい凄まじい睡魔に襲われていた。
「明日から京都校との交流会なんだっけ?」
 何とか寝る支度を済ませ、重たい身体をベッドに沈ませながら問う。
「そ! 京都土産楽しみにしてなさい!」
 たくさんの荷物をキャリーケースやバッグに詰めていた彼女はピッと私に向かって指を差した。
 京都に行くのだろうか。私が聞いた話では京都の人たちが東京にやってくるような話だったけれど、聞き間違えたのかもしれない。
 久しぶりの猛烈な睡魔に抗うことは出来ず、私の疑問は野薔薇に届かぬまま眠りの底まで落ちていった。

 目が覚めるとそこには野薔薇の姿はなかった。窓の外に目を向けると太陽はとっくに高い場所にいる。寝過ぎてしまった。それでも、久しぶりかもしれない、こんなに熟睡できたのは。
 その日は何故か硝子さんもやって来なくて、やはり京都校との交流会とやらで忙しいのだと勝手に納得して大人しく部屋で読書をしていた。
 活字を追っているとあんなに寝たと言うのに再び睡魔に襲われる。読んでいた本を投げ出し、ベッドに倒れ込んだ。重たい瞼が視界を狭める。そうやって微睡んでいると、ふと思考の片隅で一人になったのは久しぶりだということに気づく。
 比較的自由が増えた分、色々な人と接する機会が増えたから一人で考え込む時間が最近なかったのだ。だから、ふと溢れ出してしまう。無理やり閉じ込め、鍵をしていた負の感情がドロドロと侵食して行く。その黒いものに閉じ込められたかのように、私は意識を失った。
 ──何が、私の上を這いずっている。重い。苦しい。
 覚醒していく意識の中で己の首がジワジワと締まって行くのを感じる。
「な、に……」
 薄らと目開けた。己の身体の上で真っ黒い何かが蠢いている。部屋の中はすっかり暗くなっていて、その全貌ははっきりと見えなかった。けれど、そのシルエットは到底人のものではない、異形のものだ。恐らく、正体は呪霊。
 それでも怖くはなかった。何故なら直感的にこれは私≠ネのだと分かったから。
「ころ、してくれる、の……?」
 その問いに応えるように首にかかる力が強まる。
 私は苦しさも感じなくなって笑ってしまった。やはり、私は無意識下で常に絶命するきっかけを探していたのだ。自ら死ぬ選択は出来なかったから、自らの負の感情を糧にして生み出した呪霊によって殺してもらう。意図してやったことではないけれど、我ながら良いアイデアだとこんな状況だというのに感心してしまった。
 私は、自分には似ても似つかない姿の、それでも紛れもなく私の半身であるその呪霊の手を取るように「ありがとう」と呟いた。気管が締まっていて音にはならなかったけれど、きっと私≠ノ伝わったはずだ。
 目の前が霞んでゆく。生理的に流れた涙の温かさを感じながら意識を手放す。
 ────そのはずだったのに。
 唯一、鮮明に働いていた聴覚に届いたのは破裂音。パンッなんて綺麗な音じゃなくて、水音の混じった生々しい音だった。
 降り注いでくる生暖かいものにどこかデジャヴを感じながら、解放された気管に流れ込んでくる酸素を上手く吸えないまま咳き込んだ。
「後追いなぞ、随分といことをするではないか」
 未だぼんやりと不透明な思考に響くその声。「なあ?」と同意を求めるように名前を呼ばれる。
 間違いない。鼓膜を、胸の内を震わせるこの声の主を、私が間違えるわけがない。
「す、くな、さま……」
 私はずっとこの日が来るのを待っていたんだ。あんなに見出すことができなかった生きる希望が目の前にある。
 不明瞭な視界だというのに、捉えたその人物の四つの目は、獰猛な光を宿しながらも溶けるように細められていた。


永遠に白線