救済と陥落 壱

 散々な一日だった。
 そう五条は一人、深夜の高専内を彷徨っていた。特に意味などなかったけれど、強いて理由を付けるのであれば高専内に再び・・異常が起きていないかの見回りといったところだろう。
 思い起こすのは、先程まで事後処理に追われていた事件。京都校との交流試合の最中、呪霊及び呪詛師の襲撃を受けた。なんとか退けたものの、被害は負傷者が十名以上。高専で保有していた宿儺の指やその他特級呪物が数体が盗まれた。
 学生達は事件の前より交流試合で負った怪我もあるため、今頃家入は大忙しで傷を癒していることだろう。
 五条は襲撃の目的に違和感を持ち、真夜中にもかかわらず、こうして風に当たりながら頭を冷やしていた。それでも、小骨が喉につっかえたような違和感は未だ拭えずにいた。
 夜空に浮かぶ月を仰ぐ。皆寝静まるほどの時間だというのに、やけに空が明るいと思えば今夜は満月だ。月光をたどるように視線を戻せば、行く手を駆けていく人影がよぎった。
「悠仁……?」
 生徒たちは皆、硝子が手当をしやすいよう待機場所を決めていたはずだ。それなのにどうして。
 五条は走り去った虎杖が向かった方向が寮だということに気づく。もしかしたら、何か荷物を取りに行ったのかもしれない。そう結論づけようとした彼は足を止めた。
 ──いや、違う。あれは宿儺か……!
 瞬時に間違いに気づいた五条は宿儺の気配をたどり、地を蹴った。
 今、この高専内には京都校の人間がいる。特に学長であり、保守派筆頭である楽巌寺には、今こうして宿儺の意思で悠仁の肉体を動かしていることを知られたくはない。もし、勘づかれたらここぞとばかりに両面宿儺の器としての虎杖悠仁の危険性≠訴え弱みを握ってくるだろう。大事になるのは避けるべきだ。
 五条はそのまま一気に寮内に入ろうとする宿儺との距離を詰め、その肩に手を掛けた。
「宿儺、悠仁はどうした」
 地を這うような五条の声に、宿儺は煩わしそうに彼の手を払い落とした。
「そんなことを言ってる場合か? うかうかしているとアレ・・が死ぬぞ」
「アレ? ……まさか」
 そう声を落とした五条など眼中にない宿儺は先を急ぐ。取り残された五条はそれまで気にしていなかったものに目を向ければ、そこには確かに呪霊の気配があった。あまりに低級なその気配は宿儺の呪力にかき消され、存在感は明らかに薄い。
 気づかなかったとはいえ、高専内に呪霊が侵入したならば警報が鳴るようにできているためすぐに分かるはずなのに。それがなかったということは、もともとこの敷地の中で認識されていた呪力ということだ。そうであるならば、答えは一つしかない。ここにはもう、あの 親友 夏油傑のように呪霊操術を使う人間はいないのだから。
 呪霊は呪術師からは生まれない。負の感情を垂れ流し、微弱過ぎるその呪力を扱う能力才能も、その術すらも知らない非術師から生まれる。
 彼女は非術師だ。少し特殊な力を持った、ただの一般人。分かっていたことじゃないか。何故、油断した。何故、気づくのが宿儺より先じゃなかった。
 自責の念に苛まれる五条は、瞬きの間にそれら全てを振り払い、宿儺の後を追う。釘崎の部屋にいるはずの彼女の元へたどり着いた時には、もう既に全てが終わっていた。
 差し込む月明かりによって照らし出された悪夢のような惨状。それらが浮かび上がる部屋に一人坐す彼女の姿を、宿儺の背中越しに捉えた。
「す、くな、さま……」
 小さな声だった。あまりにも頼りなく、たどたどしい。けれど爆発させるにはまだ早い、ふつふつ湧き上がる歓喜が滲み出ている。
 まるで迷子の小さな女の子が帰る場所を見つけたような、そんな言い様だった。呪霊だったもの・・・・・・・を浴びていることなど気にも留めず、その澱みの中心で宿儺の名を呼び続け、涙を零す彼女を見て五条は悟った。
 ──ああ、駄目だ。この子は僕じゃ救えない。
 宿儺から依存の対象を移すことができたなら、彼女を救えると思っていた。それならば、自分がその役を買っても良いと、そう思っていたのだ。
 彼女の眼には宿儺以外映っていない。彼女の世界は彼女と宿儺だけで構成されている。他人が……僕が入る余地などなかったのだ。
「一体何が……っ!」
「恵、野薔薇……」
 急に部屋を出ていった虎杖の様子が明らかにおかしかったこと、そして宿儺の呪力が強まっていたことに異変を感じた伏黒と釘崎は、迷いなく彼の後を追ってここまでやって来た。昼間の事件で負傷した伏黒はまだ本調子ではない。釘崎の肩を借りて辛そうにしている伏黒の言葉に五条は唇の端を噛んだ。
「……呪霊を生み出して、自分自身を襲わせたんだ」
「そんなはず……! だって、最近はずっと安定してたわ! そんなことする素振りなんて一度も……っ」
 声を上げた釘崎に、虎杖の形をした呪い≠ェ笑った。千年以上もこの世に存在する呪いの王。気の遠くなるような時間を生きてきたそれが、生まれ落ちてからそう大した歳月も重ねていない人間に、皮肉にもこの世のことわりを説いた。
「人が人の心をそう容易に見抜けるのであれば、もう幾分かマシな世になっていただろうなぁ」
 返す言葉など見つかるはずもない。己より遥かに長い間、現世を見続けているこの呪いに何を言ったところで負け犬の遠吠えだ。
 部屋にはただ彼女の啜り泣く声だけが響いている。悔しさを抑え込む彼らに、宿儺は追い討ちをかけるように嘲笑い、己に縋り付いていた彼女の薄い肩を半ば見せつけるように掻き抱いた。
「コレを救いたかったのだろう? 残念だが、もう手遅れだ」
 宿儺に依存した彼女をここ暫く近くで見過ぎていたせいで、この可能性をすっかり忘れていた。
 この呪いもまた、この少女に異常なほど執着しているのだ。


永遠に白線