救済と陥落 弐

 掴まれた肩の骨が軋んでいる。痛みは感じなくともその悲鳴は鮮明に感じ取れた。
 それでも、この絶望から拾い上げられた歓喜には勝らない。このまま折られてもいいと思った。そっちの方が、これが私の願望を詰めた幻想なのではないと証明出来そうだったから。
 触れた手の感触が、肌の温もりが、不思議でたまらなかった。私にはあの指と私にしか聞こえない声でしか宿儺さまを判断する材料がなかった。だから、今こうして肉体と肉体が触れ合っているのがどうにも信じられずにいた。
 ようやく止めることのできた涙は、まだ私の頬の上を濡らしている。私はどうしても宿儺さまが宿儺さまであることを確かめたくなって、彼の胸から顔を上げた。
「宿儺さま、本当の本当に宿儺さまですよね……?」
 彼はそれまで真っ向を見据えていた視線をチラリ、見下ろすように腕の中にいる私へ向けた。思わず四つの瞳に写った自分の姿に息を呑んだ。
 私が、宿儺さまの視界に映っている。
 私が、宿儺さまの見据える世界に存在している────
 当たり前だと言うのに、畏怖をも覆す悦びに身を震わせた。
 私は自分の手の内に指はあれど、実体のない神だと思っていたのだ。こうして相見えることになるなんて思ってもいなかった。それも、死んだと聞かされていたのだから尚更のことだ。
 宿儺さまは私の肩を掴んでいた力を緩め、会話をしやすいよう少し体を離した。
「他に誰がいると言うのだ。もうこの声を忘れたか? あんなに構ってやっていたというのに薄情な奴め」
「違います! 違うんです、自分の都合の良い夢なんじゃないかって……だから! 断じて宿儺さまのことを忘れたわけでは……っ!」
「ククッ、そう必死にならずとも良い。ただの戯れだ」
 小さく笑いを含みながら、「それにそう簡単に死にはせん」と宣った宿儺さまに心の底から安堵した。
 宿儺さまは宿儺さまだ。私の知っている宿儺さま。何も変わっていない。
 そのことに緊張の糸が緩み、止まっていた涙が再び視界を揺らす。力が抜け、脚に力が入らない。ずり落ちて行く自分の体を支えるようにして、私は再び宿儺さまに縋りついた。
「お願い、します……もう二度と、置いていかないでください……! 私が用済みになった時は……宿儺さまが私の傍から居なくなる時は、どうか、どうか殺して、ください……」
 生涯を掛けた願いだった。それさえあれば後は何もいらない。
 お願いします、お願いします、と額を彼に押し付け繰り返す私に、彼は片腕で腰を抱いた。そして、強制的に立たせるかのようにして引き上げる。
 彼は距離を詰めて私の顔を覗き込むようにして顔を近づけた。互いの鼻先がぶつかる距離。身体の内では鼓動が煩いほど鳴り響いている。心臓が飛び出しそうで、耐え切れずそっとその胸板を押すけれどびくともしない。腰を固定されているせいで逃げ場がなく、ただ仰反ることしかできなかった。
 私は彼の反応を怯えながら待つ。不安の色に揺れた瞳で、見開かれた彼の眼を見つめ返した。
「いいだろう。この世に生がある限り、お前は俺の存在によって生かされ、俺の手によって死ね」
 ──ああ、良かった。
 この瞬間、救われたと実感した。
 生殺与奪の権を全て宿儺さまへ委ね、受け入れられ、握られているその事実に生きた心地がした。
 もうこれで何も恐れることはない。私が私として生きていられるのは、宿儺さまが私を私として終わらせてくれるから。それだけあれば私はなんだってできる。
 小さく吐いた息が震えた。「ありがとうございます」と彼に礼を告げようと口を開いた。
 その刹那、彼は私の腰を抱いていた手を離した。重心を失った私は後ろによろめき、膝裏にぶつかったベッドの上に腰をついた。
 スプリングが軋む音がやけに耳についた。何が起こったのか分からず、見上げると彼はドロリと視線を溶かしていた。
「──そう言えば、お前は悦ぶのだろう?」
 悪意に満ちた瞳を細め、そう突き放した彼は無骨な手で私の顎を掴んだ。
 ジッと一時見つめた後、顔の輪郭を確かめ、肌の産毛を撫でるように指を沿わせる。
 その感覚に身をよじりたくなるけれど、視線を逸らすことは許されていない。私は泣き出したくなるのを堪えて、宿儺さまの言葉を待つ。
「お前を殺すのは赤子の手を捻るのと同義だ。いや、赤子ですら泣き喚くくらいは抵抗するだろうに、お前は喜んで受け入れるのだろう? それではあまりにも味気ないではないか。なあ? 俺もお前ならもう少し愉しませてくれると期待しているのだ」
 耳の近くを執拗に撫でられる。それが痺れとなって身体の奥に響くくせに、彼の言葉で身体の芯が冷えて行く。
 チグハグな感情を抱きながら、私はその言葉を否定することはできずに耳に入れたくもない次の言葉を聞かざるを得ない。
「──だから、独りで生きてみろ」
 ……どうして。なんで私を生かそうとするの。それも、独りでなんて。要らないなら殺してくれればいいものを、何故生かそうとするの。そんなの生きていたって何の意味もない、ただの生き地獄だ。
 そんな胸の内を全て見透かしているはずなのに、宿儺さまは容赦なく私を追い詰める。
「俺が存在しない絶望に打ち震え、苦しみ喘ぎ生きる様を見るのもまた一興よ。人間の生を願ってやるなんて、優しい神・・・・だろう?」
 そう宿儺さまは神の顔≠ナ微笑んだ。
 今まで私はこんなにも彼に私の神さまでいて欲しいと願っていたのに、あまりにも残酷に思えた。けれど、それは私の身勝手な願いで勝手に傷ついているだけだ。そうだと分かっているのに、今の私には到底耐えられるものではなかった。 
「いや、いやですっ! 宿儺さま……っ、お願いします、独りに、わたしをひとりにしないで……! 生きろなんて……そんな、酷いこと言わないで……」
 嫌だ。いやだ、わたしをおいていかないで。
 ほんとうは、ずっとずっといっしょにいてほしい。
 目の前が熱く歪んでいく。抑えなどきかない涙を流しながら、抵抗した。首を横に振り、何度も何度も嫌だと訴える。
「何故拒む。優しい神さま≠セと言ったのはお前だろうに。望み通りお前の、お前だけ・・・・の神として慈悲とやらを与えてやっているだけなのだが、何が不満なのだ? そら、言ってみろ、ん?」
 突きつけられているのは絶望だというのに、何故だか彼の瞳に宿った甘いものに身を委ねたくなる。
「わたし、わたしは……っ」
 追い詰められた私は言葉を吐く。何もまとまっていない、無意味な言葉を。何か言わなくてはという強迫観念だけが私を突き動かしていた。
 不満、不満。少し前の私なら宿儺さまのすることに不満などないと言うだろう。けれど、今はどうしても抗わなければならないと心が叫んでいる。
 そう、もちろん始めは神だと思っていた。いや、今でもそう思ってることに間違いはないのだ。私が祈りを捧げていた宿儺さま。私の命を救ってくれた宿儺さま。呪いでも何でもいいと神格化してきた宿儺さま。
 そうやって神と呼んでおきながら、私は何を彼に望んでいる?
 あわよくばずっと傍にいたい、ずっと一緒にいてほしいだなんて。矛盾している。それは神に望むことではなくて、もっと別の何か────
「気が付いたか」
 ビク、と肩が跳ねた。自分を追い詰めることに没頭していたせいで、彼の言葉はキツい物言いではなかったはずなのに大袈裟に驚いてしまった。
 宿儺さまはゆっくりとした動作で、覆い被さるように私の顔を覗き込んだ。
 今までも彼はこんなにも甘い瞳で私を見ていたのだろうか。不思議に思うのと同時に、これ以上ないほど胸が苦しい。それだけで私の全てを手放してしまいそうになる。
「失ってから気付く≠セったか、愚かな人間の常套句だが、たまには役に立つ」
 照らし出していた月の光を覆い、影が差す。逆光がその佇まいを荘厳なものにしていた。
「そう焦ることもない、時間をやろう。今はまだお前だけの神で居てやる」
 猶予を与えられた。けれど、不安な感情が表に出ていたのだろう。彼はゆるりと未だ乾かぬ頬を撫でて微笑を携えた。
「時が来れば殺してやる、安心しろ」
「ほんとに……? 本当に殺してくれる……?」
「ああ。時が来れば、の話だがな」
 今度こそ心の底から安堵した。何が目的だったのか途中から理解が追いつかなかったけれど、とにかく「殺してやる」と言質を取れたことに胸を撫で下ろした。
 そう脱力したところで彼に名前を呼ばれる。脱力感で顔を伏せていた私は弾かれたように彼を見上げた。
 瞬間の弾力。柔らかい。
 何かが唇を掠ったような気がした。それが何であったか確かめようと口を開き掛けたその時。
「うわーーーー‼」
 ドン、と思いきり突き飛ばされた。その大声の主は確実に目の前の彼のものであったはずなのに、明らかに別人の声だ。
「なっ、なななっ‼」
「あー、悠仁やっと戻った……このままどうなるかと思ったよ」
 急に視界が明るくなったと思ったら、どうやら五条さんが部屋の明かりをつけたらしい。
 挙動不審に後ろに下がって行くその人物の顔には特徴的な模様は消え失せ、先程まで私を写していた四つの目の下半分は閉じられている。
 彼がもともとの身体の持ち主で器と呼ばれていた虎杖という名の少年か。記憶をたどり、思い返すと彼が死んだから宿儺さまも死んだと聞かされたあの時の出来事がよみがえった。
 同じ身体だというのに別人に見えるほど随分と宿儺さまとは表情が違うのだな、と不思議に思った。
 そうまじまじと彼の顔を見つめていると、パカリと彼の頬が開いた。口だ。そんなことがあり得るのかと、唖然としているとそこから宿儺さまの声が発せられた。
「何だ、小僧。口吸いくらいで大袈裟な」
「あ、もしかして悠仁キスしたことないの?」
「無いケド⁉ 悪い⁉」
「よかった、よかった、悠仁がウブなお陰で過剰な接触は防げたよ、ナイス!」
「ぜってー褒められてないよな、これ」
 どういう状況だ。一体何が起こったというんだ。口吸い……キス……
 私は自分の涙に濡れた唇に触れた。わずかに感じた感触を、そして彼らが言った言葉が定かであるのか確かめるように。
 信じられない思いで呆然としてる私に、彼は傍にあったティッシュの箱を掴み押し付けるようにして差し出した。
「えっと、あぁ、あの……これ、使って」
「あ、ありがとう……」
 彼の手からティッシュを受け取る。そして二枚ほど取り出して、泣き腫らした目に当てて水分を吸わせた。
「いや、あの。口……」
「くち……?」
 気不味そうに言った彼の様子を見てようやく分かった。どうやら彼は涙を拭わせるためにティッシュを寄越したわけではなかったようだ。彼の意図では無いものの自分の唇が触れてしまったことに罪悪感を覚えた末の行動らしい。
 しかし、そうは言っても本人の前に拭うほど無神経な思考回路はしていないので、戸惑っているとそれを見ていた五条さんが「青いねぇ」と呟いてから思い出したように手を叩いた。
「ああ、そうだ! ちゃんと紹介してなかったよね、宿儺の器、虎杖悠仁くんでーす!」
「それは話の流れで分かりましたけど……五条さん、死んだって言ってたの嘘だったんですか?」
「いやいや、心臓取り出されちゃったから間違いじゃないでしょー。実際、君に話した時は悠仁、解剖に回される寸前だったし」
「じゃあ、生き返ったってことですか?」
「まぁー、宿儺によって心臓取り出されて、宿儺の力で治癒されたって事だから厳密には違うけどその認識でも間違い無いよ。まったく、宿儺も人騒がせだよねぇ」
 おちゃらけた様子でそう告げた五条さんにふつふつと怒りが込み上げてくる。
「でも、それを今まで隠してたわけですよね?」
「あぁーっと、うーん……ま、そういうことになる、かな……?」
 歯切れの悪い彼の答えに我慢の限界だった。
「酷い! 最低……っ! 私……、わたし、あんなになやんでくるしんだのに」
 もっと早くに宿儺さまが生きてると教えてくれていたのなら、こんなことにもならなかったかもしれないのに。
 涙腺が緩んでいるせいで怒りに任せて涙が込み上げる。幼い子供のような泣き出し方をした私に、流石の五条さんも慌て出した。
「あ、あ〜〜ごめんごめん僕が悪かったからさ! よしよし、お願いだから泣かないで〜」
 あわあわと腫れ物を扱うような態度がまた癇に障る。
 どうしたら泣き止むかと考えあぐねた結果、子供をあやすように抱きしめた彼のその行動はあまりにもデリカシーがない。信じられない、ありえないと訴えるようにして泣きながら声を上げた。
「さっさわらないで、ください〜〜っ!」
 彼の胸板を殴りながら「五条さんのバカ〜〜っ」と泣いて暴れるけれど、それもまた抑え込むようにして再び抱き締める力が強くなったので、遠慮なく気が済むまで殴りつけた。
 そのうち体力も無くなって、結局彼に体を預けるような形になってしまう。私は全て観念したように見て見ぬふりをし続けていた本音を吐いた。
「分かってます、五条さんが私のためにやってくれたことは分かってるんです。でも無理です、やっぱり私には宿儺さまがいなきゃ駄目なんです……私、五条さんに救ってもらう準備、出来なかったから、だから……っ」
「分かった、分かったよ。もうそれ以上言わなくていい。僕のやり方が悪かった。ごめん、ちょっと荒療治が過ぎた」
 切実な想いをさらけ出した私をなだめるように、何度か肩を叩いてから彼は身体を離した。恐る恐る高いところにある彼の顔を見上げた。顔の半分は覆われていて見えないというのに、彼が傷ついた表情を隠したのは明らかだった。
 傷つけられたのは私だというのに、なんで五条さんがそんな顔をするの。
 そう目で問い掛ければ、彼はヘラリと笑った。そんなもので誤魔化されはしないと彼も分かっているはずなのに。何故だか、彼とは相容れないと突きつけられた気分だった。
 そんな私たちの元に、ツカツカと足音を立てて野薔薇がやって来る。彼女は五条さんを一瞥した後、迷いなく私の頬を打った。
「人の部屋で死のうとしてんじゃないわよ‼」
 痛みはないから良いものの、受けた衝撃で唖然としながら左手で頬を抑えた。
 男性陣からは狼狽えた声が上がるけれど、彼女はそんなことなど気にも留めず、私に真っ向からぶつかってきた。
「ご、ごめん……」
 呟いた謝罪は掠れていた。恨めしそうに睨みつける野薔薇は目の端に滲むものを見られたくなかったのか、俯きがちに抱きついた。
 五条さんのそれとは意味合いが全く違ったので、私は彼女を受け入れるようにその背中に手を回した。
「……嘘。生きててよかった」
「……うん」
 今日はよく人の温もりを感じる日だ。
 どれもこれも死んでいたら感じることはなかったのかと思うと、なんだか少し感慨深く思えた。


永遠に白線