救済と陥落 参

 残暑の抜け落ちた風が、校舎の濡れ縁を歩く私の髪を弄んだ。
 宿儺さまが私の元に戻ってから既に一ヶ月ほどの時間が流れた。あれから私は監視の目から解放された。部屋は野薔薇の部屋の隣に移され、高専内ならどこでも一人で歩きまわることが許された。
 やはり一番の理由は、私が死ぬ理由がなくなったからだ。それに、ストレスを与えてまた呪霊を生み出されたら困るという理由も大きいのだろう。
 そして、私が監視の対象だけではなく生徒≠ノなったから。もちろん例外でだ。私は強い呪術師にはなれないということは分かりきっているけれど、高専側としては外面を取り繕うにはそれしかないという結論らしい。五条さん曰く、腐ったミカン≠ェ首を突っ込んできたら面倒臭いから、とのことだ。何となく呪術界という世界が一枚岩ではないことを察しながら、私にも都合が良かったので素直に頷いたのだった。
 ふと外に目を向けると虎杖くんが歩いていた。光を受けて赤みを帯びた色素の薄い髪がきらめく様子に、日向がよく似合うな、と視界に映った光景をそのまま感じ取る。
 そんな彼に「虎杖くん」と呼びかけると、すぐに私に気がついてこちらを見上げた。
「どこか行くの?」
「今から任務なんだ。近場だからすぐ帰って来れると思うよ。一人でも大丈夫なくらいの任務だから安心してよ」
 そう宿儺さまには影響ない≠ニ当たり前のように主張する彼は、私に気遣ってか「宿儺呼ぶ?」と聞いてくる。そんな彼に私は首を横に振った。
「ううん、大丈夫」
「そっか」
「任務、気をつけてね」
 自分で呼び止めたくせに、それ以上声をかけられないよう足早にその場を去った。
 その一部始終を見ていたらしい野薔薇がこちらにやって来た。
「…………」
 ジロジロと失礼にも人の顔を眺める彼女に「どうかした?」と問う。
「わざわざ虎杖呼び止めるくらいなんだから、本当は宿儺と話したいんでしょ? なんで断ったのよ」
「みんな勘違いしてるよ。流石の私でも虎杖くんと宿儺さまの分別はつくよ。だから、虎杖くんが虎杖くんでいる時は私も本人と向き合ってるつもりなんだけど」
 当たり前の話だが、私は虎杖くんと宿儺さまは別物に見ている。確かに彼に宿儺さまの様子を問うことはあっても、そこの認識は誤らないよう一線を引いている。
 だというのに、みんなして私が常に宿儺さまに狂ってると思っているのだ。……これまでの行いのせいだとは理解しているけれど、何だか解せない。
「変なところで気を使うのね」
「だって、自分を通して誰かを見られたら誰だって良い気はしないでしょ」
「アンタって本当によく分かんないわね。イカれてるけど、イカれてない」
「それ、五条さんにも言われた。完全に狂えたのなら楽だったのにね」
 それなら彼にも私を救えるなんて希望を与えずに済んだのに。
 人の善意を邪険に扱うなんて最低だけど、それはお互い様だ。私は自嘲すると共に目を伏せた。
「それに私は宿儺さまが生きて傍にいてくれれば、それだけでいいから」
 私の手足としての役目は終わった。私なんかいなくたって器を手に入れた宿儺さまは己の目的を達成できる。
 だから本当は虎杖くんが羨ましい。私が虎杖くんだったらよかったのに。そう思わざるを得なかった。
 用済みなのに目を掛けてもらっている時点で幸せなことなのだろう。けれど、胸の内に刺さった小さな棘がズキズキと痛むのだ。
「ただね、ちょっと距離を置こうと思って」
「……どういう風の吹き回し?」
 ギョッと信じられないもの見る目で、何か変なモノを食べたか、それともどこかに頭でもぶつけたかを彼女に問われる。
 失礼な、と思いながらも私はかぶりを振った。
「あの時、宿儺さまと離れたくないと思った。ずっと宿儺さまの側にいて、独り占めしたいと思ったの」
 私はあの時──宿儺さまと再会できた時、宿儺さまに切り捨てられて殺されるよりも、もっとずっと辛い選択肢があることを突き付けられた。追いやられて極限の身に湧き上がった感情が、自分が思っていたものより遥かに欲深い物だと知った。
「私はずっと神さまだと言っておきながら、そんな自分よがりで見苦しい想いを抱いてたんだと思うと、上手く言えないけど、こう、やるせなくて……」
 それに気づいたからといって、私は結局どうすることもできない。
 呆然と口を開けている彼女に「どうすればいいと思う?」と問いかける。すると、それまで静かだった彼女は半分怒ったように声を上げた。
「好きなんでしょ! 宿儺が!」
「うん。それはもちろん」
「違う! 神とか信者とか抜きにして好きなんでしょ⁉ あー、やっぱり狂ってる……正気じゃないわよ、あんな特級呪物と恋愛……? どんなガールズトークだよ、普通こんなところでする話じゃねぇ……」
 ぶつぶつと呟きながら頭を抱え始める野薔薇。
 正直、今までそんなこと考えたことがなかった、というよりこの気持ちをそういう下賤な色恋に結びつけて良いのだろうかというのが率直な疑問だった。
「それって、呪術師から見ていいの? セーフ?」
「まずもって、そもそもそういう次元の話じゃないけど、私がアウトって言ったらアンタ、宿儺から離れてくれるわけ?」
「いや、それはないかな」
 それは即答できる。何があってももう二度と宿儺さまから離れたくはない。それだけは絶対に譲れない。
「宿儺は呪いよ。そして、私たちはそれを祓う。結局死ぬのよ」
 肩の上で髪を揺らし「虎杖と一緒にね」と付け足した彼女の顔が陰った気がした。
「……野薔薇は虎杖くんを助けたい?」
「そんなこと思ったことないわ。アイツがそう決めてこの道を選んだなら外野がとやかく言うことじゃない」
 嘘だ。そんなこと言いつつ、虎杖くんを殺さずに済む手段に僅かな望みがあればそちらを選ぶはずだ。彼女は本当にどうしようもない私のことまで思いやってくれるほど優しい人だから。
「私も、宿儺さまが何をしようと、それが彼の意志なら何も言うことはないよ」
 嘘だ。もしまた私を置いてどこかに行ってしまうことがあれば、きっと私は全力で抗うだろう。もう二度とあんな想いはしたくない。
 それでも、半分は本当だ。例えば私が情を移している人間を、彼が彼の目的のために殺したとしても、私はきっと何も言わない。だからこれは本音でもあり建前でもある。もしかしたら彼女も同じなのかもしれない。
「そもそも私の力じゃどうにもできないし、もし宿儺さまが死ぬとしたらその前に私も殺してくれるって約束してくれたから大丈夫」
「それは大丈夫とは言わないわよ」
 彼女は首を振り、真剣な目で真っ直ぐに私を見つめる。
「生死じゃアンタを動かせないことは知ってる。けどね、アンタが死んだら悲しむ人もいるのよ」
「そうだね……少なくとも野薔薇は悲しんでくれるもんね」
 あの時、「生きててよかった」と言ってくれた彼女に微笑んだ。
「ありがとね」
「アンタねぇ……」
 ため息混じりの言葉を吐いた。「苛立ちを通り越して呆れたわ」と言い放った彼女はそのまま背を向けて去っていった。私もその姿を見送って、彼女と同じ黒いスカートを翻した。
 この気持ちの名前を探す前に、今の私にはもっとしなければならないことがある。それは自分の立場の確立だ。私はここで宿儺さまと共にあるために己を有用な存在だと主張しなければならない。本人の意思でなくとも、呪詛師や呪霊に利用されれば簡単にテロ行為が起こせる力を持つ人間だと、ただの危険分子として扱われて自由を奪われるより、その力を制御できる、または利用される前にその相手を排除できる力を身につけるべきだ。
 呪術高専に生徒として身を置くのならば、術式が無くとも鍛錬はしておかなければならない。せめて自分の身は自分で守れるよう努力を怠らないこと。そして、任務に着いていくことを許されるくらいには力をつけることが目下の課題だ。
 術式のない私には呪術師は無理かもしれないが、やりようはいくらでもあると希望を与えてくれる人がいる。
「踏み込みが浅い! 重心の移動が雑! しっかり相手の動きを見ろ!」
 鋭い叱責が飛ぶ。放課後に一つ年上の先輩である真希さんに体術の稽古をつけてもらっていたのだが、完全に身体がついていかない。運動は好きな方だったけれど、それとこれとじゃ話が違う。
 私が今まで経験してきたのはあくまでスポーツであって、本気の命の取り合いはしたことがない。基礎の基礎から彼女に見てもらえることになったのはありがたいけれど、なかなかにスパルタだった。ここはしぶとく粘るしかない。痛覚を失ったことが幾らかポテンシャルになって痛みで怯むということはない。けれど、疲労は溜まるので私はそのまま音を立てて地面に倒れ込んだ。
「お前、呪霊は見えんだろ」
 仁王立ちで私を見下ろした彼女の問いに「はい」と答える。
「じゃ、私よりは呪術師に向いてるよ。まぁ負ける気はしねーけどな」
 悪巧みを企てているかの如くニヤリと笑った彼女は、未だ這いつくばっている私に向かって手を差し出した。
 真希さんのようにもともと呪いが込めてある呪具を扱うことができれば、自分の身を守ることくらいはできる。だから、私は彼女のようになりたかった。
 私は疲弊した身体を起こし彼女の手を取る。力強く引き上げられて何とか立ち上がった。
「ボコボコにされたな」
 遠くで五条さんと私たちの様子を見ていた硝子さんが、ポケットに手を突っ込みながらこちらにやって来る。傷を治してくれるというので、その言葉に甘えて彼女の治療を受けることにした。
「さっき、五条さんと何話してたの?」
 硝子さんから視線を逸らす。既に五条さんが先ほどまで居た場所には、もう彼の姿はなかった。
 いつもならうるさいくらいに話しかけて来るくせに、今は声を掛けずに去って行った。別に話しかけて欲しかったとかではなく、ただいつもと違う雰囲気を感じ取っただけだ。恐らく私のことを話していたのだろう、というのは何となく察しがついていた。
「自分でも分かってる。大して強くなれるわけじゃないって。呪霊が見える程度の呪力しかないし、それに術式なんてものはもっとない。だから安心して、もし私がみんなの……呪術師の敵になったとしてもそう大した脅威にはならないから」
 私が必要以上に力を付けることは彼らは皆望んでいない。だから、保険をかけるようにそう言い訳した。
 寧ろ、元からある封印を解く力の方が厄介なんだろうな、なんて諦め半分でため息を吐く。
 けれど、強くなれなくてもやりようはいくらでもある。本来、私の目的は呪術師の敵になることではない。宿儺さまの傍にいることなのだ。
 私程度の力でも簡単な結界術などは使えると聞いた。それならば術師ではなく補助監督という道もある。不純な動機だと、本気でやっている人間を舐めるなと思われるかもしれないけれど、私はふざけてこんな厳しい道を選んだわけではない。現実を見て手に入れられそうな可能性と、自分なりの覚悟を持って選択した道だ。
 呪術師側である硝子さんが答えるには、随分と意地の悪い私の言い様に「そんなことは……」と否定しかけた彼女の発言に被せて、予期せぬ言葉が降ってくる。
「どっか怪我したの?」
「い、虎杖くん」
 背後からやってきてヒョコッと顔を出した彼に驚いて言葉に詰まってしまう。それを取り繕うように「おかえり」と言い添えた。
「真希さんに稽古をつけてもらったらこんなことに」
「あ〜なるほど」
 全身ボロボロの私の姿に全て悟ったように納得したようだった。彼は任務帰りだと言うのに傷一つない。「一人でも大丈夫」と言っていたから、そこまで難易度の高くない任務だったのだろう。
 私と彼じゃ、そもそも初めから持っているものが違う。そこを羨んでも今更仕方がない。
「硝子さんありがとう。私、行くね」
 何となく負い目を感じてその場から立ち去ろうと立ち上がった時、虎杖くんが私の腕を掴んだ。「え、あれ? ごめん、なんか勝手に」と狼狽えている本人をよそに、私を掴んだ手の甲が当たり前のように開いた。
「何故逃げる」
「……逃げてはいません。ただ、いろいろどうして良いかまだ分からなくて」
 私の返答に宿儺さまは心底面倒くさそうなため息を吐いた。
「時間をやるとは言ったが逃げて良いとは言っていない。お前が選ぶ道はどのみち一つしかないのだ。強制的にその答えを出させることも可能なのだと努努ゆめゆめ忘れるな」
「はい……」
「見て見ぬ振りをせずとも良いのだぞ。何を怯えているのかは知らんが、悪いようにはせんと前々から言ってるだろうに」
 その言葉に何と返答しようか迷っていると、虎杖くんが眉を顰める。
「ハァ? 宿儺、お前何企んでんの」
「小僧には関係のない話だ」
「関係なくはないだろ! 俺の身体なんですけど⁉」
 言い合いが続く両者の会話にどうすることもできずにまごついていると、硝子さんがこれ以上彼と話すのは危ういと判断したのか「もう行け」と先を急がせる。それこそ逃げるようで躊躇われたけれど、どこかほっとした自分がいたことに情けなくなる。
「今日は早いな」
「うん、ちょっとね……」
 一度部屋に戻って制服からジャージへ着替えを済ませた私は、なんだかんだずっと続いている伏黒くんとのランニングのため門の近くで彼を待っていた。
 まさか、先程の宿儺さまとのことを一から説明するわけにもいかず、言葉を濁した。それでも彼は気に留める様子はなく、「行くぞ」といつも通りに走り出したのだった。

「コンビニ寄っていいか?」
 軽く流し終えた彼の横で、私は大きく肩を上下させていた。少しは体力がついたと思っていたけれど、なかなか思うようにはいかない。
「うん、何買うの?」
「釘崎から雑誌買ってこいって頼まれた」
 手元のスマホを傾け、「こんなやつ」見せられた画像は私でも辛うじて知ってるティーン向けの雑誌だったので少しほっとした。野薔薇は私と同じで田舎育ちなのにおしゃれに敏感だ。そういうことに疎いとは自分で分かっているので、私の知っているものが彼女と合致している事実は安心材料だった。
 彼に続いて店内に入ると店員のやる気のない挨拶が飛び交う。田舎にはコンビニもそうそうなかったため、それを聞くのが未だに慣れずにいた。高専の最寄りのコンビニはもちろん結界の外だけれど、高専関係者同伴なら問題ないと上……というより五条さんから許可を貰っている。
 手際良く会計を終えた彼が、袋の中からスポーツドリンクを取り出した。
「やる」
 以前なら「いいの?」と聞いていたけれど、そもそもダメなら彼はこんなことはしない性格だと心得たので「ありがとう」と素直に手渡されたそのボトルを受け取った。
「すっかり秋だね。空気が冷たい」
「そうだな、そうこうしてるうちにすぐ冬が来る」
 日が短くなりつつある夕暮れにそんなことを言い合いながら、コンビニの前にあるベンチに座る。冷たい飲料が火照った身体に染みていく。
「あ」
 隣でスマホを操っていた伏黒くんは小さく声を上げた。
「どうかした?」
「先輩からもパシられた」
 真希さんとのトーク画面には「コンビニ行くなら先に言えよ」と若干理不尽な文句と共に二年の先輩たちの欲しいものリストが挙げられていた。
「すぐ買ってくるからそこで待っててくれ」
「うん」
 私は苦笑いで彼の背中を見送った。だんだんと闇に侵食されていく空をぼんやりと眺めながら、彼に貰ったスポーツドリンクを口に含もうとボトルを開けた。
 瞬間。背後から殴られたような衝撃。そして、その後を追うように視界が暗転していく。
 何が起こったのか理解が追いつかない。けれど、思い当たることは一つ。たった今、呪詛師か呪霊に攫われようとしている。
 こんなに早くこの時が来るなんて。今の私は呪具を持っていない。いや、持っていたとしても退けることは叶わなかったはずだ。
 ああ、伏黒くんに着いて行けば良かった。そう後悔してももう遅い。
 そうして私は、完全に意識を手放した。


永遠に白線