静かな謀略 壱
穏やかな音。どこか安心するようなその音に、ゆっくりと瞼を押し上げる。
視界に映ったのは見知った天井ではなかった。おもむろに身体を起こすと、目の前には雄大な海原が広がっていた。
「海……」
静かな波が浜に押し寄せ、去っていく。その音を邪魔するものはここにはない。
そう思っていたというのに、すぐ隣から声を掛けられた。
「あ、起きた?」
「どなたですか……?」
あまりにも静かで気づかなかった。手元の文庫本から顔を上げた、つぎはぎだらけのその人は私の問いかけに笑って答えた。
「うーん、呪霊?」
そうだ、私、攫われたんだった。
あまりにも開放的な場所に居たものだから忘れていた。
私は寝かせられていたビーチチェアから思わず立ち上がる。警戒しだした私に目の前の呪霊は軽く笑って「いまさら?」と首を傾げた。
「…………」
「アハハ、君どうなっちゃうんだろうねぇ」
そんなの私が一番知りたい。
じわり、手に汗を握る。今の私にできるのは、無力にもこの場に似つかわしくない爽やかな笑顔を貼り付けたこの呪霊を睨みつけることしかなかった。
足元がザリ、と柔らかい砂に沈む。半歩後ずさった私は生唾を飲み込んだ。そもそもここがどこなのかすら分からないから、逃走経路を導き出すことすらできない。見たままにどこかの浜辺、それも人が寄り付かないような離島なのか、はたまた私には到底想像もつかないような場所なのか。
この場の空気に緊迫したものを感じているのは私だけだ。目の前の呪霊も、それを見守る広大な海もただそこに存在しているだけ。それ以上でもそれ以下でもなかった。私がどれだけ足掻こうが全て無駄なのだと諭しているかの如く、その平穏な空間は淡々と時を消費していく。
未だ張り詰めた緊張の糸。それが穏やかな海面からザバッと音を立てて出てきた謎の物体によって完全に途切れた。
「な、なにあれ……」
大きなタコに似た物体。大きな波を立てて浮上した割にはプカプカと、のどかに波に揺られながら「ぶぶぅ」とよく分からない音を発している。
「仲間だよ、気にしないで」
……仲間、ということはあれも呪霊なのだろうか。
どこかのご当地ゆるキャラのような出立ちに、すっかり気が抜けてしまった。
「私を攫った目的を聞いても?」
「んー、いいけど後でね。いろいろややこしいんだよ。今仲間がここに向かってる。話はそれからだ」
今すぐ私をどうこうするつもりはないらしい。それにしてもいろいろややこしい≠ニは攫ったくせに曖昧な返答すぎやしないだろうか。何か訳ありなのは察することはできるけど、どちらにしても私に悪い方向に進んでいることだけはわかる。
「分かってるだろうけど、逃げられないよ。大人しくしててね」
思い詰めた顔をしていたせいなのか、私がここから逃げる算段を立てていると勘違いした呪霊はそう釘を刺す。
正直なところ自力でここから逃げ出すのは諦めていた。呪具を持たない今の私じゃどうすることもできない。いや、呪具を持っていたところで勝てる確率はほぼないと言っても過言ではない。今の私にできることと言えば、上手い具合に立ちまわり、隙を見つけて助けを呼ぶことぐらいだろうか。それも上手くいくか分からないけれど。
私は素直に呪霊の言葉に頷いておく。
「暇なら遊んでなよ。そこ適当に漁っていいからさ」
そこ、と相手が指した先を見る。パラソルの影に置かれた大きな木箱。私はおもむろにそれに近づいて、思ったより重たい木箱の蓋を開けた。ギギギ、と軋む音と共に木屑が落ちていく。中を覗いてみればオセロに将棋にチェス、そして人生ゲームなど様々な卓上遊戯類が仕舞われていた。
「これ、全部貴方の……?」
「うん。ま、みんなで遊ぶ用だけどね。呪霊が人間の玩具で遊ぶのは不思議?」
「そう、ですね……」
確かに不思議ではあるけれど、まさか人間に危害を加えるくらいなら、ゲームに勤しんでくれていたほうが良い、なんて言えるはずもないので、曖昧に相槌を打った。
「人間の作り出したルールって言うのは呪術にも用いられていることが多い。だからそれはそのルールを学ぶための教材ってところかな」
「真面目……? なんですね」
「そうかな? せっかく考える力があるんだ。それを利用しない手はないと思うけど」
「そういうものなんですか」
予想外にも友好的に接してくれるのが逆に不気味ではあるけれど、初めから話も聞いてくれないよりは交渉の余地があるのかも。
そうつぎはぎだらけの呪霊の顔を盗み見る。すぐにその視線に気づいて「どうかした?」と声をかけられ気まずくなった私は、「何でもありません」とだけ告げて、また木箱の中に視線を戻す。
しかし、引っ張り出して眺めては戻すの繰り返しも飽きてきた。だからといって、この呪霊と仲良くボードゲームで一戦交える気にもなれないので、惰性でその行為を続ける。
色とりどりのパッケージに紛れた底のほうから、古びているけれど何やら歴史を感じさせる仰々しい箱が出てきた。
「これは……?」
「気になるなら見てみなよ」
呪霊の言葉通りにその箱の蓋を開けてみる。中には繊細な模様が施された巻物のようなものが入っている。普通のそれより何倍も太いそれは紙ではなく分厚い革で出来ており、しっかりとした作りをしていた。
取り出して厳重にとめられたベルトを外し、膝の上で転がし解いてみる。そこに現れたのは無数の指≠セった。
「これ……っ!」
見覚えのあるそれらは確実に宿儺さまの指だった。
「確か、君も一本持ってたんでしょ?」
いつのまにか隣に腰を下ろしていた呪霊の言う通り、私も宿儺さまの指を所持していた。その一本からは彼自身の肉体が確かに存在していたことを上手く思い描くことはできなかったけれど、今ならできる。呪物になる以前の、宿儺さまが宿儺さまとして確かに生きていた。今、私が手にした彼の指たちはその証だ。
「すごい……」
感嘆がため息に変わる。込み上げてくる想いを噛み締めて、少しずつ形や大きさが違うそれらを指の腹で撫でる。
すると、隣で大きな笑い声が上がった。
「アハハ! 君、気持ち悪いねぇ!」
「え……」
突然の悪口。なぜそんなことを言われなくてはならないのか。
私は笑いすぎて滲んだ涙を拭う呪霊を唖然と見つめた。その視線で理由を問うているのが感じ取ったのかペラペラと話し出した。
「だって宿儺の指見てこんなに目を輝かせる人間見たことないよ」
「そう、ですか」
控えめにそう呟いた私の肩に手を回し軽く触れた彼は、新しいおもちゃを与えられた子供のような顔で私を見つめた。
「それに君、魂の形も気持ち悪いよ。魂の根底に宿儺がいる。恐ろしいねぇ、執着や依存といった欲が根付いた魂は見たことあるけど、ここまで自分以外の何が基盤になっている魂は初めて見たよ」
流石に呪霊と言えど、初対面でこんなに気持ち悪いと連呼されればむかつくもので、思わず不機嫌に黙り込む。私から言わせれば、いきなり魂の形≠ネんてよく分からないことを嬉々と話し始めるこの呪霊の方が、よっぽど気持ち悪いと思う。「ああ! ごめんごめん、褒め言葉だよ」と弁解もなくフォローされるけれど、そんなの褒められても全く嬉しくない。
「うん、いじりたくなってくる」
「魂を、ですか」
「そ。興味はあるけどね、君にはやめとくよ。宿儺を本気で怒らせそうだ」
肩をすくませて「残念」と口を尖らせた呪霊。
魂をいじることができる、と聞いてますますこの呪霊の恐ろしさが露見する。どう考えたって魂の形を変えられては良い方向に転ぶことはないだろう。
今の私が見逃されているのは宿儺さまのお陰だと知る。命拾いをしたと安堵しながらも、この呪霊と宿儺さまの関係がどうしても気になるところであった。
「あの、宿儺さまと会ったことがあるんですか?」
「会ったことあるも何も殺されかけたよ。やっぱり宿儺は魂の格が違うね」
宿儺さまと対峙した時のことを思い出してか「あの時は危なかったよ」と苦い顔をした呪霊に詳しくその時の話を聞こうと口を開く。しかし、それはガチャリ、というこの場には似つかわしくない扉の開く音に掻き消された。
「真人‼」
そう大きな声を上げてこちらにやってくる、頭に山を引っ付けた一つ目の呪霊。呼びかけられた「真人」という言葉に隣の呪霊は反応を示したということは、これがこの呪霊の名前なのか。そう察しながらも呪霊に名前などないと思っていたこともあり少し不思議に感じた。
「何故ここへ連れてきた‼ これは夏油の言った宿儺の地雷に当たる人間だぞ!」
「漏瑚、遅かったね。花御は一緒じゃ無いんだ?」
「ああ、夏油と共に来るだろう」
「そ? あ、それに俺が攫ってきたわけじゃないんだよ?」
頭の上を飛び交う会話の中から、この一つ目の呪霊の名前が漏瑚なのだと導き出す。
そして、真人の発言に内心とても驚いた。私を攫ったのは、確実に真人だと思っていたから。実行したのは別にいるのか、と口を出すことはせず、彼らの会話に耳を傾けた。
「規律も守れない
「あの今度の計画で使う予定だった奴らか」
「そうそう」
軽く相槌を打った真人は、目の前の漏瑚の向こうへ言葉を投げかける。
「計画は伝えてあったはずだよね? 夏油」
「ああ、もちろんだよ。全く、作戦行動も取れない人間は困るね」
ちょうど扉から入ってきたのは、あの渋谷で遭遇した怪しい袈裟の男だった。