静かな謀略 弐

 初めから敵意は感じていたけれど、本当に敵だったのか。
 夏油と呼ばれた男は額の傷跡をなぞるようにして軽く頭を抱え、後ろにもう一体の恐らく花御と呼ばれる呪霊を引き連れてこちらに歩み寄ってくる。
「真人、始末は?」
「したよ。実験体になってもらった」
「うん、それならいいよ。あの程度の呪詛師なら代わりはいくらでもいるからね」
 不穏な会話が飛び交う。私を攫った張本人である呪詛師は真人によって始末された後らしい。ということは、私が今ここにいる状況はこの呪霊たちにとっても想定外の出来事ということか。それなら、私が記憶を失っている間にほっぽり出してくれれば良かったのに。
「さて、それにしてもやってくれたね。宿儺を刺激するには最悪のタイミングだ」
 チラリ、私を目の端で捉えた夏油はそう言い放った。
 なるほど、私が捕らえられたままだった理由はそれか。会話の中に散りばめられたピースを集めては嵌め込んでいく謎解きゲームでもしているような気分で、明らかになっていく事実を整理する。
「どうするのだ、この娘にこちらの内情を話されたら不利になるぞ」
 私の今後について、一番重要な部分だけれど、話題の中心に据えられるのは居心地が悪くて、ついつい肩を寄せて小さくなる。
 そんな私の目の前のビーチチェアに座り、向き合った夏油は笑顔を貼り付けた。
「久しいね、元気そうで何よりだよ」
 そんなこと、これっぽっちも思っていないくせに。
 湧き上がる嫌味の数々を押し留めて、私は夏油に問いかける。
「貴方は人間……?」
「心配しなくても呪霊ではないよ」
「でも敵でしょう?」
「敵、ね。そうとも限らないんじゃないかな?」
 意図していなかったことだとしても攫った事実は変わらない。今更何を言っても何も信用できるわけがない。
 私がそう思っていることなど初めから分かっていたような素振りで、夏油は宿儺さまの名前を出した。
「私たちは宿儺の敵になるつもりはないからね。状況が変われば味方になり得る。君とは仲良くしたいと思っているよ」
「嘘、ですよね? 最初に敵意を向けてきたのは貴方ですよ」
「ああ、もちろん。それでも利害・・が一致すれば仲良くはできるだろう?」
 利害。彼の言うそれはもちろん私の、ではない。宿儺さまにとっての、だ。この男は自分の利害よりも宿儺さまの利害の方が私にとって比重が重いことを知っている。私の全てを掌握されているような気がして、何も言い返すことができなかった。
 夏油は軽く開いた膝の上で手を組んで、私から一度も目を逸らそうとはしなかった。指を組み替え手遊びを興じているものの、その視線の強さは変わらない。けれど、私に答える気がないと──答えられないのだと分かると、小さく息を吐いた。
「全ては宿儺がどう出るかだけれどね。できれば君が協力して宿儺を説得してくれると嬉しいけど」
「宿儺さまが望むなら協力しますけど、説得はしません。宿儺さまの意志に私如きが口出しするなんてできません」
「まぁ、そうだよね。君のことはある程度調べてあるから、その行動原理は理解しているよ」
 その言葉にこれまでの彼の言動と照らし合わせてみても、そうであるはずだと、逆にそうでなかったら心を読める力でも持っているのかと疑うところだった。そう変に納得してしまう自分と、まずいと焦り始める自分がいる。私が関わったあの事件のことやあの集落のこと、そして私に宿る謎の力のことを知られてしまうのはあまりにも不利に働いてしまう。
 弱みを握られれば握られるほど、私がここから逃げ出すことは難しくなってしまうから。どうにかして策を考えなければ。
 小さく息を呑んだ。それに伴って上下する喉元が、ヒヤリと冷たい何かに包まれる。
 手だ。それまで隣で大人しく私と夏油の会話を聞いていたはずの真人の片手が、私の首に掛かっている。
「焦ってるね。魂が揺らいでる」
 真人は「そんなにその力のこと知られるのが怖い?」と問いかけながら、僅かな力を手に込めた。けれど、それは私にとって生死に関わる力で、ジワジワと締め上げられれば、心の臓まで掴まれたように恐怖で硬直してしまう。
 息の仕方を忘れないよう意識しながら細く長く呼吸を繰り返す。それでも、好奇にギラつく左右で色の違う双眸から目を離せずにいた。
 生温い潮風が吹き抜ける。ただ冷や汗によって湿った肌を撫でるだけで、私を助けてはくれない。
「真人」
 嗜める夏油の呆れの混じった声が響いた。
「ごめんごめん、つい、ね」
 意外にもあっさりと手を引いた真人はペロ、と舌を出しておちゃめに謝る。
 戯れだったことに胸を撫で下ろすも、他者に己の生死を握られるということはこんなにも恐ろしいことだったのか、と今更ながら理解する。これまで私の全てを委ねていたのが宿儺さまだったから、何も疑問に思わずに過ごしていたのだ。
 皮肉にも新たな気づきを与えてくれた真人に絞められていた己の喉元にそっと触れる。思った通り、そこは冷え切っていた。
 複雑な表情で沈黙した私に「悪いね、本題に戻そう」と言う夏油。その言葉に私はおもむろに視線を上げた。
「君のその力≠ヘとても魅力的だ。高専の手元にあるのは惜しい。そして私たちの計画と相性が悪いんだ。本音を言うとこちら側に留めておきたい」
 結局彼らには全て知られていることに、全身が諦めで満たされる。彼の言葉の一つ一つが私を絶望に追いやっていくけれど、その中でどうしても引っかかる言葉を突いてしまう。
「計画……? 一体なんの……」
「聴きたいかい?」
 悪巧みを企てているような笑みを浮かべた彼の表情に嫌な予感がして「やっぱりいいです」と断ろうと口を開いた。けれど、夏油はまるで私の返事など初めから必要としていないかのように話を進める。
「五条悟の封印が私たちの最重要課題なんだ」
「五条さんの、封印?」
 一瞬では理解できなくて彼の言葉を反芻する。
 なぜ、五条さんを。そう思ったけれど、答えは意外とシンプルだった。単純に五条さんが邪魔なんだ。最強と呼ばれる彼を前にすればこの呪霊たちもそう簡単には勝てないのだろう。だからこそ、殺す≠謔閾封印≠ノこだわっているのだ。
 私に惜しみもなく情報を与える夏油に向けて抗議の声が上がる。
「夏油! 何故手の内を明かす⁉」
「まぁまぁ、落ち着きなよ漏瑚。宿儺の指を見られている時点で口封じはしなくちゃいけないんだからさ」
「見せたのはお前だろう、真人!」
「面白そうだったからね」
 隣で肩をすくめて戯けて笑う真人を横目に、そこまでして何を成し遂げたいのか、と湧いて出てきた疑問をそのまま口に出す。
 すると、漏瑚が私を見下し馬鹿にしたように鼻を鳴らした後、真相を教えてくれる。
「人間など紛い物にすぎん。呪いこそ真の人間なのだ。だから人間には消えてもらう」
 どうしたらそんな理論になるのか、どれだけ心を尽くして歩み寄って考えても全く分からなかった。あからさまに頭の上にハテナを浮かべた私に、漏瑚は「馬鹿にしているのか⁉」と頭の火山を噴火させ、それを見た真人は爆笑し、それまで見守っていた花御が宥めに入る。
 呪霊の思考なんて分からなくて当然だとも思うけれど、その様子に何だか少し申し訳ない気までしてきた。
「貴様がただの人間なら、この場で即刻灰にしてやったわ!」
「暑いよ、漏瑚。ただでさえここは気温が高いんだ。少しは手加減して欲しいな」
 夏油までもが片手で仰ぎ、風を生み出している。それもまた気に入らない様子の漏瑚が何か喚いているけれど、それをこの場にないものとして夏油は話を続けた。
「宿儺の元へ帰りたいかい?」
「……はい、それはもちろん」
 せっかく宿儺さまがすぐ傍とまではいかないけれど、近くにいる環境に身を置けているのだ。帰りたくないわけがない。
 念押しするように私の意志を確かめた夏油は、これは好都合とばかりに笑った。
「それじゃあ、解放する代わりに君にはここで見聞きした全てを忘れてもらおうか。そして、私たちの計画には一切関わらないでもらう……それで宿儺の元に戻れるなら、君にとっても悪い話じゃないだろう?」
 黒々と妖しく光る彼の瞳に絡め取られて、得体の知らない何かに引きずり込まれてしまうような感覚に侵される。
「──これは私と君の縛り≠セ」
 縛り。自分自身に課すものだと認識していたそれを、他者間で結ぶのは本来の使われ方なのだろうか。私の知識じゃ詳しいことは分からない。けれど、もしリスクがあるものだとしても、私はこの提案を呑まないという選択はない。それで宿儺さまの元へ帰れるならどんな危険性があったとしても受け入れてしまう。それを彼も把握した上で、私にこの条件を提示しているのだろう。
「他者との縛りは避けるのではなかったのか」
「基本はね。それでもこの子を攫ったことは遅かれ早かれ宿儺にバレる。どうせ宿儺を怒らせるのなら少しでもこちらに都合が良いように事を運びたい」
「なるほど、だからわざわざ縛りを設けるワケか」
「そういうこと」
 明らかに縛りを交わす張本人の前でする話ではない。聞かれたからと言って私には断れないと高を括っている。
 本当のことなだけにふつふつと怒りが湧いてくる。私は声に怒気が乗らないよう気をつけながら、一つ一つ条件の内容を噛み砕くように言葉を発する。
「つまり、一連の出来事は無かったことにして、貴方たちの計画の邪魔になり得る私を縛りによって事前に排除しておこう、と?」
「ああ、そうだね」
 あからさまに私を下に見ている彼の態度に、このまま食い下がることはできなかった。
「それでは少し、貴方たちに都合が良過ぎませんか」
「おや」
 予想外の返答だったのか、夏油は目を見開いて驚いた。私はそんな彼を真っ直ぐ見据えて問いかけた。
「どちらにしても私を返さないと不味いんですよね? 本来なら無条件で解放するのが筋だと思うんですが」
「へぇ、意外と強気だね。私に譲歩しろと?」
「はい」
 間髪入れず答えた私と夏油はしばらくの間睨み合った。
 ここで屈してしまえば彼らの計画に加担してしまうようなもの。それではあまりに屈辱的だ。だから何が何でも譲れなかった。
 彼の眼差しに影が落ちた。視界の端にちらつく陽の光。それらを細かく反射させる水面の輝きも相まって、余計にその黒が得体の知れないもののような気がして、怯んでしまいそうになるのを堪える。彼の瞳に渦巻いているものが何であっても私には関係ないと言い聞かせて、ひたすら時が過ぎるのを待った。
 波の音だけが響く静寂に終止符を打ったのは小さな息を吐く音。先に折れたのは夏油だった。
「それでは、こうしよう。君が私たちの計画に関わらない代わりに、私もこれ以降君に接触をしない。これなら公平だろう?」
 私だって端から無条件での解放なんて無理だと分かっている。だから少しでも彼らの計画の破綻を願って足掻いただけ。そして何よりこれ以上彼らに関わりたくはなかった。
 妥協点はここだろう。一拍置いて私は致し方なしに首を縦に振った。
「……分かりました、その条件を呑みます」
「よかったよ。交渉成立だ」
 ほとんど脅しのくせに交渉も何もあったものじゃない。この差し出された彼の手を叩き落とせたらどんなに良かっただろう。縛りを結んでしまった今、これ以上彼に噛みついても良いことなんて一つも生まれないので、おとなしくその手を取った。
 彼と交わした縛りの条件は二つ。私を解放する代わりに、私は攫われた一連の出来事を忘れること。そして、これ以降私に関わらない代わりに、私もまた彼らの計画に関わらないこと。
 改めて情報を整理してみても彼の言う「公平」にはほど遠い条件。げんなりしながら、もう二度とこんな腹の探り合いはやりたくないと緊張で力の入っていた身体を脱力させる。
 夏油は「さて」と握っていた手をそのまま引っ張り上げて私を立たせる。
「一件落着したことだし、私は彼女を送ってくるよ」
 彼は呪霊たちにそう告げて、熱い砂を踏み締めて歩く。
 結局、この浜辺の謎は解けなかったな、と思いながら出口の扉を開いた彼の後に続いた。彼に問いかけてみても良いけれど、どうせ全て忘れてしまうのだ。無駄に終わるのなら別に知らないままでいい。
 扉の外には何の変哲もないマンションの廊下があった。部屋の一室があの浜辺に繋がっていたのか。あの場所では太陽が真上にあったけれど、こちらは真っ暗で東の空が徐々に白み始めている。
 早朝の街は当たり前に静かだった。私も夏油も特に言葉を交わすわけではなく、自分たちが響かせる足音だけに耳を傾けていた。
 それでも都心の大きな駅に近づくと、ちらほら既に活動を始めている人々を見かける。駅の構内に入り、電光掲示板を見上げる。もうすでに始発が動いている時間だ。券売機で買った切符を手渡され、改札前で立ち止まった。
「高専まで送れなくて悪いね。見つかるといろいろとまずいんだ」
「気を使うふりなんてしなくていいですよ、どうせ忘れるんですから」
「ハハ、形は大事だろう」
 そう笑って「それじゃあ、気をつけて」と手を振る彼に踵を返し、改札を通り抜けた。一度も振り返ることなくホームにたどり着いた私は、発車待ちのほとんど人のいない車内に乗り込んだ。なんとなく目についた一番端の席に腰を下ろすと、急に睡魔に襲われる。
 なるほど、これで記憶がなくなるのか、と直感で分かった。
 静かな車内に発車のアナウンスが響く。扉の閉まる音。ゆっくりと動き出す電車。心地の良いリズムを作り出すその振動に揺られながら、私はゆっくりと目を閉じた。

   

◇◇◇


 夏油は改札の向こうへ消えていく彼女の背中を見送っても尚、そこに留まり続けていた。
 一人の少女を縛った。それも彼女が思っているより何倍も不利な条件で。それは裏の読み合いでは夏油の方が何倍も上手だったということ。当たり前だと言えばそれまでだが、その当たり前すら彼女は分かっていなかった。
 彼が譲歩したように見せたこれ以降彼女に接触しない≠ニいう条件は、あってないようなものだ。一連の出来事を忘れる≠ニいうことに頷いている時点で、この縛りのこと自体を忘れてしまう。もし仮に彼女の方から接触して来た場合はこの縛りには引っかからない。
 そして、全てを忘れている彼女がタイミングが悪く夏油たちの計画に接触して来たとしたら、縛りを破った彼女には罰が下る。そうなれば、彼女は────
「──ま、私個人としてはそうならないことを祈ってるよ」
 そう口では言いながらも、夏油は彼女と再会する予感を拭えずにいた。
 いや、それはそれで良い。寧ろそちらの方が上手く事が運ぶだろう。後は高専側の対応と、宿儺次第、か。
 全ての鍵を握っているのは、己が縛った少女を庇護する呪いの王。厄介な立場には変わりないが、どう転んでもこちらに軍配が上がることは確定した。
 彼女が乗ったであろう電車が発車し、電光掲示板が入れ替わる。それを見届けた夏油は、絶対的な確信と共に袈裟の裾を翻した。


永遠に白線