記憶の行方 壱

 朧げな意識のまま、駅の改札を出た私は朝の澄んだ空気を吸い込んだ。
 頭の中がスッキリと冴えていく感覚が心地良いけれど、先ほどまで自分が何をしていたか上手く思い出せずにいた。
 ……そうだ、確か伏黒くんとコンビニにいて……ああ、だったら彼を探さなきゃ。
 どこにいるかなんて見当もつかなかったので、あてもなく歩き出す。すれ違った日々に摩耗されていそうなサラリーマンが駅に吸い込まれていく。それが何だか新鮮な風景に見えて、ようやく私一人で外をふらついていることに違和感を覚える。
 閑静な住宅街に迷い込んでいた私はふと足を止めた。高専のある山間部の方へ目を向ける。
 もしかしたら高専に戻った方がいいのかも。
 そう思ってそちらの方へ歩き出そうと足を踏み出した、その時。十字路の向こう側から誰かが駆け抜けていく。切羽詰まったような表情をした少年は、間違いなく私が探していた彼だった。
「あ、伏黒くん」
 そう小さく呟けば、彼は足音を緩め立ち止まる。
「ごめん、知らないうちにはぐれちゃったみたいで」
 謝罪を口にして固まったままの彼に声をかける。
 呆然と口を開けた彼はまるで幽霊でも見たかのような顔で私を見ている。初めは怒っているのかと思ったけれど、どうやらそういうわけでもなさそうだ。
「は……、大丈夫、なのか……?」
「え? う、うん……」
 体調も悪くないし、怪我もしていないので自分自身では大丈夫なのだけれど、彼の指しているものが何なのかよく分からないまま曖昧に頷いた。そんなはっきりしない態度の私の元にツカツカと足早にやって来た彼は、ガシッと私の両肩を掴んだ。
「呪霊か⁈ 呪詛師か⁈ どうやって逃げてきた⁈ 何か手がかりになることは……っ!」
 揺さぶりながら私を追い立てるその勢いに、何故こんなに必死なのか分からず狼狽える。私は彼を落ち着かせるようにして軽く胸板を押した。
「ちょ、ちょっと待って! 何のこと……?」
「覚えて、ないのか……?」
 彼の言葉に混乱している頭の中を掘り起こす。
 ……そうだ、彼とランニング後にコンビニに行って────その次に覚えていることと言えばさっき駅から出てきたことくらいだ。
 どう考えても空白の時間がある。なぜ今まで気づかなかったんだろう。あの時は日が暮れ始めて辺りが暗かったというのに、すっかり朝になってしまっている。よく考えればわかることだったのに。
「そう、なのかも……」
 視線を落として考えてみても、穴の空いた記憶を補う術なんて持ち合わせていなかった。
 肩に掛かる力が強くなる。よく見れば小さく震えているその手に気づき、彼の顔を覗き込んだ。
「悪い……あの時外で待つよう言ったのは俺だ」
 眉を寄せてそう謝る彼があまりに痛々しくて胸が詰まる。
 いつもそうだ。私は彼に懺悔させることしかできない。傷つけたい訳じゃないのに、私の行動が全て裏目に出てしまっているせいで彼を苦しませてしまう。謝るべきなのは私の方だ。だけど、私が彼の謝罪を望んでいないように、彼もまた私の謝罪を望んでいない。それだけは確信できる。
「私も全然危機感持ってなかったから、謝らないで」
 そう告げても彼の表情は晴れない。「それじゃあ、お互い様ってことにしよう」と微笑めば、肩に乗っていた力が抜けていく。だらり、と腕を脱力させた彼は決まりが悪そうに小さく笑みを作った。
「……帰ろう」
 彼は私の手を取った。もう二度と自分の目の届く範囲で居なくならないように。込められたその想いが鮮烈に伝わってきたから、彼を受け入れるように握り返した。
 高専への帰り道、私が居なくなった間の状況を教えてもらう。まず、私が消えたのは昨日の夕方ではなく、一昨日の夕方だったらしい。夜を二つ越していることを考えると、それは確かに心配するな、と先ほどの彼の切羽詰まった表情に合点がいった。
 皆、大騒ぎで私のことを探してくれているらしく、申し訳ないの一言に尽きる。今日も朝から二年の先輩たちも一緒にここら辺一帯を捜索してくれているとのことなので、すぐに私が見つかったと伏黒くんに連絡を入れてもらう。即刻、既読がついたトーク画面を苦笑いで見つめながら、寮の前で皆の帰りを待った。
 初めにやってきたのは真希さんにパンダ先輩。そしてその後ろから野薔薇がやって来る。何も言わずにに目の前までやってきた彼女は私の肩口に拳を入れた。
「……勝手にいなくなってんじゃねーよ」
「うっ……、ご、ごめん……」
「この二日の記憶がないって本当なの」
「……うん、そうみたい」
 また彼女を心配させてしまった。
 ドスの効いた声がとてつもなく怖かったけれど、怒らせたのは私なので反省の意味を込めて彼女の拳を受け入れた。
 それを見守っていた先輩二人にも「お騒がせしてしまってすみません」と頭を下げる。
「とにかく無事に戻って来れてよかったな」
「何呑気なこと言ってんだ、パンダ。本当に無事に済んだのかよ。記憶ないんだぞ。早く硝子さんに見てもらったほうがいい」
「あー!いたー‼」
「しゃけ〜!」
 こちらに向かって駆けてくる虎杖くんと狗巻先輩の掛け声によって、真希さんの神妙な声音が掻き消された。
 走り寄って来た虎杖くんが「良かった〜」と安堵のため息と共に、私の両腕を掴んで腰を屈める。
「心配かけちゃったみたいでごめん」
 虎杖くんだけではなく、皆に向かって「探してくれてありがとうございます」と感謝の気持ちを述べた。
 ──その時、右腕を何か生暖かいものが流れていく感覚に心臓が跳ねた。
「え……」
 視線を落とすと、指先を伝った雫が地面を赤く染めていた。ポタポタと血が滴るその音に、一同が一斉に注目する。
 私を含めた皆、何が起こったのか分からなかったけれど、一番初めにその状況を理解したのは虎杖くんだった。咄嗟に私に触れていた己の手を放すと、クッキリと血に濡れた赤黒い歯形が残っていた。
「ハ、宿儺、お前何やって……」
 己の手のひらにありえない、と言いたげに目を落とす彼に、私もまた同じようにして鋭い歯が見え隠れする宿儺さまの口を見つめた。
 私の血で汚れた彼の口周り。それを長い舌が舐め取っていく。綺麗に拭われていくその様子にどこか恍惚とする自分と、次に何を言われるか見当もつかず身構える自分がいる。ゴクリ、思わず喉を鳴らした。
「──何処の下愚の凶行だ」
 地を這うような声音が体の内側を震わせた。今まで一度だって向けられたことのないその圧に、全身から汗が吹き出す。
 口元の上に彼の瞳が見開かれた。刺すような視線で、宿儺さまは確実に私を追い詰める。
「答えろ」
 初めて自分に向けられた彼の殺気を浴びる。
 私は彼の言葉に従おうと張り裂けそうな心の臓を押さえ、懸命に喉元を震わせた。
 一挙一動が己の生死に関わっている。
 直感的にそう思った。初めて受けたそれが恐ろしくないわけがない。けれど、同時にとてつもなく魅力的なものに見えた。
 喉の奥が引き攣っているのは恐怖の所為か、感嘆の所為か。あるいはどちらもなのか。
 けれどそんなことは今考えるべきことじゃない。今はただ、異物のようにつかえたこの言葉を音にしなくては。
「……き、記憶がなくて。分からないんです」
 絞り出したように告げた私に、宿儺さまは何も答えてはくれず微動だにしなかった。
 強制された沈黙がその場を支配する。皆、呼吸を殺し空気に成りすます中で、彼の瞳がギョロリと動いた。
「小僧」
 呼びかけられたのは虎杖くん。私ではない。少しの落胆を飲み込んで、狼狽える彼を見つめた。
「な、何だよ」
「暫く眠れ」
「いや、それはムリ……」
 彼が拒否を口にした途端、何かによって引っ張られたかのように地に伏した。「ちょっ、いきなり何すんだ……っ!」と抗うように苦しそうな声を上げた彼はそのままピクリとも動かなくなった。
「虎杖!」
 それまでこの場に存在していないものに徹していた皆が声を上げ、一斉に彼へ駆け寄った。
「オイオイ、大丈夫なのこれ」
「おかか……!」
「早くあのバカに連絡しろ」
「さっきこっちに向かってるって連絡が来たんですけど」
「緊急事態だってもう一度連絡しなさいよ!」
「やってる」
 皆が膝を付き彼を囲んで言い合っている中、私は一人立ち尽くす。
 今、彼の中で何が起こっているのか分からないけれど、彼が危険に晒されている可能性が高いことだけは容易に想像がついた。
 それだというのに、私は彼へ僅かにでも嫉妬の感情を抱いてしまった。それがあまりにも情けない。
「虎杖くん……」
 慚愧の念に零れ落ちた彼の名前。皆と同じように膝を付いて、倒れた際に汚れてしまった彼の頬を、血のついていない左手でそっと払った。
 虎杖くんは何も悪くないのに。ごめんね、と心の中で謝って目を伏せると、触れていた部分から引っ込めた手を誰かに掴まれた。よく見ると相手の手首には黒い二重の線が差している。
 まさか、と彼を確認するとさっきまではそこに無かった紋様が顔に浮かび上がっていた。私と同様にそれに気づいた皆は息を呑む。
「無理やり、乗っ取ったのか……」
 皆の心の声を代弁した真希さんの言葉が響いた瞬間、四つの目が開眼した。


永遠に白線