記憶の行方 弐

 彼は己を囲み、見下ろす私たちをジロリと見回す。
「邪魔だ。散れ」
 言い放たれた言葉に後ずさる皆を横目に、私も宿儺さまの傍を離れようとするけれど、未だ手首を掴んでいる彼の手によって従うことを阻まれてしまう。
 徐に起き上がった彼は決してその手を離すことなく、私を立ち上がらせた。
 手首に凄まじい力が込められる。筋の浮き上がった彼の手を見つめることしかできなくて、ついに締め上げられて鬱血していく己の手は限界を迎えた。バキバキ、メリメリ、形容し難い己の骨が砕かれる音に、痛みは感じないとは言えど悪寒が走っていく。
「テメェ……!」
 凍りついた空気に一人噛み付く野薔薇と、それを制する伏黒くんが視界の端に映る。宿儺さまもまたその様子を一瞥した後、興味がないと言いたげな感情の乗らない声音で告げた。
「邪魔をすればその首が飛ぶと思え。一度として許さん」
 そう言い終えた途端、目の前が真っ逆さまになる。己のみぞおちに入る違和感と息苦しさに、宿儺さまによって肩に担がれていると理解した時にはもう皆の姿は遠く、見えなくなっていた。
 もの凄い速さで辿り着いた先は見慣れた自室であった。
「うっ……」
 ベッドに放り出された私は小さく呻いた。頭に上った血が即座に引いて行く。その感覚によって引き起こされた目眩に襲われ、思わず眉を寄せた。
 なんとかクラクラする頭を抱えながら目の前に立ち塞がる宿儺さまを見上げた。彼は見下ろしたまま、無言を貫く。
 やはり、私には何も言ってはくれなかった。あまりの静けさに鼓膜が痛い。心臓が、痛い。
 私が何も覚えていないから、呆れているのだろうか。それとも、私に隙が多いせいで何かしらの厄介事に巻き込まれたこと自体を怒っているのだろうか。
 居た堪れなくて、手元にあったシーツをぐしゃり、握り潰す。乾き切らなかった血液が真っ白なそれを赤黒く汚した。コントラストが目の奥を刺す。
 痛い、痛い。全身が痛い。本当なら痛みなんて感じていないはずなのに、私の感情による痛みまでは消してはくれない。どうせなら全て感じなくなってしまえばよかったのに。
 悲鳴を上げているそれらの声を無視することはできず、沈黙に殺されそうな私を何とか助けて欲しいという願望を込めて彼の名を呼んだ。
「宿儺さま……」
 ……何でもいい、何か、私に言葉をください。
 もうあの頃みたいに僅かな希望だけで、何も答えてくれない宿儺さまに話しかけるだけの日々では耐えられなくなってしまっているから。無視を決め込まれてしまうとどうして良いのか分からなくなってしまう。
 祈りにも似たその願いが通じたのだろうか。苦痛に目を瞑った私に彼の声が降って来た。
「脱げ」
「は……あ、あの……」
 確かに何でもいいから何か言葉が欲しいと願ったけれど、これは流石に予想外だった。「脱げ」とはそう言う脱げ≠ネのか。それとも私の知らない言葉か、何かの隠語か、と彼の言った脱げ≠フ意味を懸命に考える。
 そう戸惑っている私に決定打が下された。
「無理矢理脱がされたいか?」
「じ、自分で脱ぎます……」
 自分の考えた通りの脱げ≠ナ困惑を隠せなかった。
 けれど、従う以外の選択肢はない。
 土足だったことに気づき、まず靴を脱いだ私はベッドの上から這い出した。代わりにスプリングに腰を沈ませた彼の目の前に立つ。
 着ていたウインドブレーカーのチャックをゆっくりと下ろしていく。噛み合っていたファスナーの歯が左右に分かれて行く様を、ただ一つの動作≠セと思い込みながら見つめる。
 乾いた衣擦れの音と共に足元へ落ちたそれを見送って、中に着ていたTシャツに手をかけ、視線を上げた。その先にあったのは、何の感情も乗っていない宿儺さまの視線だった。かち合ってしまったものを振り払うことはできず、私もまた彼の瞳を見つめ返した。
 彼は何を思ってこの行為を眺めているのだろうか。いっそのこと滑稽だと笑い飛ばしてくれた方が精神的に楽なのだけど。……だからこそなのかもしれない。ある意味この行為も私への罰なのかもしれない。そう思えば納得がいった。
 けれど、同時に真実を知りたいと思った。彼が今何を考えているのか。何の意図があるのか。愚鈍な私なんかの思考じゃ到底答えに辿りつけはしないから。教えて欲しい。貴方のことを。貴方ばかり私のことを知っているから。……どうか、私にも貴方のことを教えて欲しい。
 自分が全てを差し出したからといって、相手にも同じことを願うのは押し付けがましいにも程がある。それはただの私のエゴでしかなかった。それでも、願わずにはいられない。この想いはもう神≠ナある彼に向けたものではないと気づいてしまった。……いや、とっくに気づいていた。気づいていたけれど、どうして良いのか分からなくて戸惑って、見なかったことにして、遠ざけた。しかし、私は何をしたって彼からは離れられないのだ。自分から先に距離をとったくせに、いざ彼に突き放されてしまえば感じないはずの痛みまで感じて苦しみ、今すぐ縋り付いてしまいたくなる。
 唇を噛み締めてTシャツを脱いで行く。紫色に変色した左手首が全く動かず、動作がもたついてしまう。袖口が引っかかってしまった部分を、前方から伸びて来た手が手助けをするように引っ張った。そのまま綺麗に剥ぎ取られてしまえば、手に取られたTシャツは乱雑に放り投げられた。部屋の片隅に落ちたそれを目で追うと、正面に立った宿儺さまに顎を掴まれ無理やり視線を絡め取られる。
 何かを確かめていくようにジリジリと舐め上げるような視線と、わざと肌を粟立たせるような撫で方の手つきがあまりに扇情的で、私は思わず彼の向こう側にあるシーツの波に視線を逸らした。触れた肌からこの早鐘を打つ鼓動の音が伝わりませんように。そう願いながら。
 どのくらいそうしていただろうか。目の前の彼が鋭い舌打ちを零した。その音につい驚いて肩を揺らしてしまう。乗っていた肩紐がずり落ちるのを感じるけれど、彼の纏った空気に気圧されて身を硬らせた。
「──縛りおったな」
 これ程ないまでに低く、唸るような声音だった。
 言葉の意味を尋ねるか迷っていると目の前に影が差す。背中に回った手が首を掴んだ。抱きすくめるようにきつく固定され、そのまま首筋の薄い皮膚が裂ける感覚に目を見開いた。
 ──噛みつかれている。
 包まれる生温かさは私の血液によるものなのか、彼の体温によるものなのか真っ白になった頭では答えを導き出すことはできなかった。
 舐め上げる音が耳の裏まで響く。水音なんて可愛らしい音ではなく、もっと粗野で獣じみたものだった。脳内を支配する音に足の力が抜けそうになるのを、懸命に堪えて、堪えて。
 そして、ようやく顔を上げた彼は眉を寄せた。
「そうか、痛覚を失っていたか。それでは仕置きにならんな」
 耐えるために、ただただ固まっているだけの私の反応がお気に召さなかったらしい彼は、フンと鼻を鳴らした。腰を這った手がショートパンツのゴムにかかる。その背後で何かが破壊されたような大きな音に思わず振り返った。
「へぇ、宿儺。そういうプレイが好きなんだ」
 ドアを蹴破って入ってきた五条さんは口元に不敵な笑みを浮かべてそう言ってのけた。
「あんまりホイホイ出てこられちゃ困るんだよね」
「邪魔をするなと言ってあったはずだが」
「少なくとも僕は聞いてない」
 確かにあの場に五条さんはいなかったけれど、その言葉には確実に棘があった。「余程死にたいようだな」と睨みを効かせた宿儺さまに、私は慌てて五条さんに声をかけた。
「あ、あの! 大丈夫、ですから」
 ここで宿儺さまと五条さんが争いでも始めてしまえば私に止められる術はなく、寮が全壊してしまう。それは流石に私も困るし、皆も困る。
 私は傾いたドアを横目にそう告げると、五条さんから予想していたより冷たい言葉が返ってきた。
「大丈夫? どこが」
 目隠しを取り去って責めるような嘲笑を交えた彼は、透き通った青が眩しいその瞳孔を開いて私を見据えた。
「そんな格好で、傷だらけで、どうやってそんな曖昧な言葉を信じろって? ウケるね、冗談だったら今すぐこの場で腹の底から笑ってあげるよ」
 砕けた口調でも冷え切った言葉は怒気を孕んでいた。五条さんは意地の悪いことを言うことはあったけれど、こんなにあからさまに怒りを向けられたことはなかった。寧ろ、諭すことの方が多かったのに。
 宿儺さまだけではなく五条さんまで怒らせてしまったことに、私は打つ手もなく萎縮してしまう。
「服。着なよ」
「でも、あの……」
「いいから」
 有無を言わせぬその言い様に逆らうことが出来ず、いそいそと足元の上着を拾い上げたはいいものの、このまま五条さんに従っても良いものかとチラリと宿儺さまを伺う。
「怪我を治すのが先だ。……宿儺」
 私の様子に全てを察したのか「邪魔をするな」と五条さんは瞳で制した。宿儺さまはその言葉に私の傷を一瞥する。
「貴様のせいで興が削がれた。勝手にしろ」
 宿儺さまが目を逸らしたことを良いことに、私の手から上着を剥ぎ取って無理やり羽織らせた五条さんは、そのまま私を部屋の外まで押し出して歪んだ扉を乱暴に閉める。
「硝子のとこに行ってな」
「五条さん、」
 隙間からそう言った彼に駆け寄り、縋った。まだ怒っているのかと伺い遠慮がちに声をかけた私に彼はようやく無表情を解き眉を下げた。
「心配しなくても少し話をするだけだよ」
 話って、何を……
 先ほどまでの一触即発の空気に無事に収まるとは思えなかった。
 私はあのままでも良かった。でも、五条さんが私をどうしたいかも知っているから、それを彼の前で堂々と選ばず結局彼を突っぱねて答えを出すことができなくて、中途半端に逃げてしまった。このままじゃダメだと、分かっている。皆も自分自身も欺くのはここらが潮時だ。
 やはり、私は中に戻るべきだ。ちゃんと、私の口から告げなくてはならない。
 そうやって、押しても引いてもびくともしない扉を叩くけれど、五条さんは開けてはくれなかった。


永遠に白線