記憶の行方 参

「これは……」
 何も言わずに項垂れている私に、硝子さんは言葉を失ったかのように口を閉ざした。
「釘崎と伏黒は戻っていい。心配せずともこの程度の傷なら跡も残さず治せる。左手首の複雑骨折は多少は手こずるかもしれないが、まあなんとかなるだろう」
 彼女の言葉に野薔薇も伏黒くんも一拍置いてから無言で保健室から出て行った。
 あの後、寮の部屋の前でへたり込んでいる私を強引に連れて行こうとする野薔薇に「待って」と懇願するも「誰が待つか」と一喝されてここまで引っ張られてしまったのだった。
「また派手にやられたな」
 怪我の状態をもう一度確認してから反転術式で傷を治してくれる硝子さんは、いつものように変わらず笑みを携えたままそう言った。
 彼女のそういう何があっても態度を変えずに接してくれるところが好きだった。私は彼女のその気遣いに応えるようにして「そう、かな」と呟いた。
 先ほどまであった生々しい傷たちはすっかり塞がっている。彼女に礼を述べて私は目を伏せた。
「五条は嫌いか?」
 私に降ってきた問いは、いつか聞いたことがあるものだった。あの時自分は何と答えたのか、記憶の糸をたどる。
 ……そうだ。「はい」と即答したんだった。
 思わず苦笑いを零した。今じゃもう肯定も即答もできなかったから。
「……いいえ」
 力なくかぶりを振った。
 あの人の優しさを前に、私は何もできなかった。だからと言って、これから彼の望むようにもできないから。私にはあの人を嫌いになる資格などない。
 もう何も知らないあの頃には戻れない。無知とはなんと愚かなことなのだろうか。そう悟りながらも、私はこれからもあらゆることを何も知らないままで生きていくのだろう。
 私は愚かな人間として、これからも彼のような優しい誰かを傷つけて、悲しませて、失望させて生きていく。それが酷いことだと分かっていながら辞められないのなら、それから決して目を逸らしてはならない。善人にも悪人にもなりきれないのなら、戒めとしてそれくらいはしないときっと地獄にも行けやしない。
「そうか」
 吐息と共に笑った彼女はそう呟いた。
「余計な世話を焼かれただけだと、そう思われなかっただけでもアイツは報われるよ」
 ……そう、なのだろうか。
 ただの宥めなような気がして、力なく彼女を見上げた。形の良い眉を下げた彼女の表情は先ほどの五条さんそっくりで、改めて彼女と彼が共有してきた時の長さを痛感した。
 ──ああ、彼女が言うならそうなんだろう。
 そう妙に納得して私は頷いた。心の中が一つ一つ整理されていくようで、こんな時だというのに安堵してしまった。
 そうして、彼がやって来たのは一時間ほど経った後だった。その姿からは怪我をしている様子も見られないので、本当に話し合いで済んだのか、と少し驚いたけれど安心したことには変わりない。
「あの、それでどうなったんですか……?」
 気を利かせて外へ出た硝子さんを見送って、彼にそう問いかけた。
「傷、治った?」
「は、はい。この通り……」
 私の質問は当然の如く黙殺された。五条さんに左手を見せグーとパーを繰り返すと、「そう」とだけ返ってきた。けれど、それは先ほどのような冷徹なものではなく、安堵が混じっていた。
「……宿儺は悠仁の中に戻ったよ」
 何があったのか多くは語らず、それだけ告げた彼を前に「そうですか」としか言えなかった。目の前の椅子に座った彼は膝の上で手を組んだ。何か考えるように力を入れては弱める動作を繰り返した後、彼は口火を切った。
「宿儺は君のことになると無理やりにも表に出て来る……ということは、宿儺はやろうと思えば自分の意思で出てこれることが証明されてしまった。その事実は悠仁の器としての価値を問われる。つまり、悠仁が宿儺をきちんとコントロールしていると上に示さなきゃいけないのに、こんなに高頻度で出てきてもらっちゃこっちとしても困るんだよね」
 淡々と語る彼に、私もただ「はい」と頷いた。
「監督する立場としてはこれ以上の宿儺の暴走は見逃せない。このことがいつ外部に漏れてもおかしくないしね」
 高専側としては、私の存在をお荷物だと思っているというより、いつ爆発するかも分からない爆弾を強制的に爆発させるスイッチと同義の厄介な人物をどう扱って良いか手を焼いているのだろう。
 では、私が宿儺さまを表に引きずり出してしまうトリガーにならないようにするにはどうすれば良いか。それは────
「君と宿儺は切っても切り離せない。それはもう十分すぎるほど分かったよ。────だから、きっと君もそれ・・を望んでいるんだろうね」
 諦めの中に浮かんだ笑みとは、こんなに頼りないものだったのか。
 そう思わせる彼の表情に言葉が詰まるけれど、それを無理やりこじ開けて絞り出す。
「……はい」
 目を逸らさないと決めただろう、と己を奮い立たせて彼を見つめた。
「……本当に、考えは変わらない?」
「え……」
 念を押す、と言うよりも未練によって引き止めるような言い様に思わず声が漏れた。
「言ってることが違うって思ってるでしょ」
「……は、はい」
「自分でも思うよ。往生際が悪いってね」
 彼の顔の上で諦めが自嘲に変わる。その様子をどんな表情で見つめて良いか分からずに、膝の上で硬く拳を握った。
「本来ならば君を宿儺に差し出すべきではない。いや、差し出したくはないんだ。……だって、そんなのまるで神を鎮めるために捧げられる供物じゃないか」
 抗うような声音の彼が「皮肉だね」と言うものだから、私も「そうですね」と同意を示した。
 結局は全ての始まりに行き着くのだ。あの集落の悪習が、どこまでも深く私に根付いている。私はあのまま殺されていても生贄として捧げられていたし、今もこうして生きていても彼の例え通り生贄のような役割を果たしてしまう。これを皮肉と呼ばずなんと呼ぶのだろう。
 けれど、ただ一つ違うことがあるとすれば、もう宿儺さまは神ではないし、私は生贄ではないと私自身が認識していることだ。
「呪いは神なんかじゃない。呪いは呪いなんだと、そう考えを改めさせたいと思っていたけど、君は……君たちは、そうやってお互いの関係が揺るがないものだと突きつける」
 そう揺らいだ言葉に私は「五条さん」と彼に呼びかけた。
「私、もう宿儺さまのこと、神さまだなんて思ってません。思えなくなってしまったんです。だから……五条さんの言う通り、考えは改めました」
 その言葉は寄り縋った彼の手を振り払う行為と同じだった。
 これが彼の思惑通りの改心ではないことくらいは分かっている。彼からすれば寧ろもっと悪化した結果であることの皮肉だった。
 笑みを交えて告げる私はきちんと悪人になれているだろうか。そうでなくちゃ困る。どっちつかずはもうやめると決めたのだから。
「……そっか。じゃあ、僕から君にとやかく言うのはこれで最後だ」
 全てを悟った彼はため息混じりの声を張った。
「君は、どうする?」
 その問いかけに私は真っ直ぐに彼を見据えた。
「五条さん……──ありがとうございました」
 感謝を過去にする言葉が残酷に転がった。そして、私はそれを目で追うように頭を下げる。
「ん」
 そう小さな音だけを返した彼は、大きな手でくしゃりと私の髪を乱した。


永遠に白線