芽吹き 参

そして長い山道を登りきり、家の前を通り過ぎて朝訪れたばかりの神社にやって来た。
 日に二度訪れるのは珍しいけれど、なんとなく今日のことをトコヌシさまに報告しておきたかった。
 朝に比べて階段に積もっていた雪が少ない。自然に溶けてなくなったわけではなく、しっかり処理されたように見えるのできっと神主さんが昼間のうちに雪かきをしてくれたのだろう。
 ありがたい、と思いながら階段脇にそらした視線の中に、森の中では見慣れない色が目に留まった。
 ──ピンク、色……?
 ありふれた色だけれど嫌な予感がした。一部雪に埋まっていたのを掘り起こしてみる。
「ピンク色の、靴……」
 鞄の中にしまわれたビラに書いてあったピンク色のスニーカー≠フ文字が脳裏をよぎる。
 まさか。まさかね。でも、ここにはこんな小さな靴を履く子供は住んでいないし、今朝ここに来た時にはこんなものなかった。
 疑念が確信に変わる。私は靴を拾い上げ、祠の元──トコヌシさまの元へ急いだ。

「そんなに急いでどうしたんだい?」
「あ……」
 鍾乳洞の中に入った途端、背後から声をかけられた。声からして神主のものだと分かって安心したのも束の間。
 その腕の中には女の子が死んだように・・・・・・眠っていた。
 ──身長135センチ、顎の下くらいの長さでおかっぱの髪型、右手の親指の付け根に大きなほくろ、灰色のパーカーにデニムのショートパンツに黒のタイツを身に着け、そしてピンクのスニーカーを履いた九歳の女の子。
 あの事細かに書かれた情報が頭をよぎる。まさに、私が今目の当たりにしている女の子はあのビラに書かれた通りの服装で、片方のピンクのスニーカーは脱げていた。
 女の子は確実に川原くんの妹、アヤちゃんだった。
「これはトコヌシさまの供物だよ」
 じりじりと近づく距離に思わず後ずさった。神主の腕の中でダラリと脱力している少女から目が離せない。
 恐ろしいと思った。それは、あの初めてここまでやって来た時に感じた恐怖の比ではなかった。
「君も一緒にお供えしよう」
 その言葉に私は反射的に首を横に振った。もしかしたらただの震えだったのかもしれない。
 神主の小さな子供に言い聞かせるような口調が不気味だった。
「どうして拒否するんだい? 皆の同意の上でやっていることだよ。君の両親だって知っていることだ。そうか、子供の君にはまだ教えられていなかったんだね」
 皆、真相を知っていて黙認している。
 信じられなかった。私だってトコヌシさまを心から信仰してはいるけれど、そのために人は殺せない。
 私がおかしいの? 私の信仰心が足りないの?
 違う、皆だ。この土地に住む皆。おかしい。狂ってる。信仰は伝統だとしても、生贄なんて時代にそぐわない。
 とにかく怖くて、逃げ出したくて。でも、出口には神主が居て逃げられない。逃げるように後ろに下がっても行き止まりだ。
 神主は石灯籠の足元にアヤちゃんを置いて私を見据えた。
「しょうがない。でも、供物が増える分には困ることはないからね。トコヌシさまも喜ぶだろう」
 神主が何を言っているのか分からなった。けれど、自分の身に危険が及びそうなことだけは理解できた。
 逃げろ。逃げろ。早く! 足を動かせ!
 心の自分はうるさいくらいに喚いているのに、体は一ミリも動かない。
 神主の大きな手が伸びてくる。思わずぎゅっと目を瞑った。
「うっ……!」
 思い切り突き飛ばされて後ろにある祠にぶつかった。
 バキッと何かが割れたような音と頭への衝撃。視界が赤く染まる。
 何が起きたか分からず、額に手をやるとぬるり、と生暖かい感触に思わず手をひっこめた。
 血だ。
 ヒッ、と喉の奥で悲鳴を上げた。
 私は砕けた扉の破片の中で無様に地を這う。そして、トコヌシさまに救いを求めるように祠に縋りついた。
「たす、けて……」
「捧げられる神にそれを願うのはお門違いだろうに」
 ぼたぼたと地面に落ちる血の音が生々しく耳にこびりつく。けれど、そんなことはお構いなしに血まみれの手で祠にしがみつくと、何かが降ってきた。
 この祠の御神体と思われる木箱。私たちの信じる神さま。その中身が出る。何か文字の書かれた紙のようなものにぐるぐる巻きにされたそれが何なのかは分からない。
 分からないけれど、そんなものどうでもよかった。私には、これに──両面宿儺≠ノ助けを乞うことしか道はないのだから。
 私は迷わずソレを掴んで叫ぶ。
「助けて……! 宿儺さま! 両面宿儺さま……‼」
 幼い時に一度だけ呼んだことのある名前が響き、この狭い空間を揺さぶった。
 しかし、奇跡など起きてはくれない。
 何も起こることなく反響が止み、シンと静まった。
 私の血に染まったソレは巻かれていた長細い紙がスルスルと地面に落ちる。
 全てを諦めかけたその時、誰かが笑った。
 この無様な私を。
 確かに「ケヒッ」と私の耳元であざ笑ったのだ。
 まるで、あの時のように。
「──良いだろう」
 刹那、一陣の風が吹き、目の前の神主の首の肉が爆ぜる。
 血飛沫を浴び、肉片が頬をかすめた。
 それは決して人間が発して良い音ではなく、転がり落ちた首はまだ私を見つめていた。
「あ、ああ……」
 言葉にならない音が口から漏れる。
 赤に染まった地獄が虹彩に焼き付いた。
 そうして「死んだか、つまらん」という神主を蔑む声が、その場にへたり込む私を正気に引き戻す。
「──満足か?」
 望み通り助けてやった、と主張する声音で問いかけられる。
 そこで私はようやく自分が必死に握りしめていたモノを見つめた。自分の血で染まった両掌に収まるそれは、指≠セった。
 相当古いものであるというのは見ただけで分かる。赤黒くおどろおどろしい色をしたそれは私の血を浴び、テラテラと妖しく光っている。
 私にはそれが希望の光に見えた。
 これが、トコヌシさま。
 私が今まで信じてきた神さま。
 私を助けてくれた、私の、神さま。
 再びその指──トコヌシさまを震える手で握りしめて胸に抱いた。
「ありがとう、ございます……」
 地面に額を擦り付け、絞り出した言葉と共に熱いものが込み上げてくる。目の中で揺らぐ波は視界をぼやけさせ、地面を濡らした。
 涙を流したのは襲われたのが怖かったからではない。神≠ノ救われたのが嬉しかったのだ。
 今まで信じ、畏れ、慈しみ、自分の中にある全てを差し出してきた唯一の心の支えに命を助けられた。外部と交流の少ない田舎の片隅で息を潜めるように生きていながら、この地に根づく神に祈りを捧げることだけを生き甲斐にしてきた今までの人生が報われて。それは身に余るほどの光栄でもあり、魂が救済された瞬間だった。
 べそべそとみっともなく泣きじゃくる私に、鬱陶しげな色を乗せたため息が降った。不快に思わせてはいけないと目頭に力を入れるけれど、震える瞼は止めどなく湧き上がる至福の涙を止めてはくれなかった。
「全く、此奴は趣味が悪い。自己満足で生贄をよこしおって。死体よりも生きた女の方が好みだと言うのに」
「それで、私を助けてくださったのですか……?」
 純粋な問いかけだった。
 生きた女だから≠ニいう理由でも、助けられたことに変わりはない。だからこそ、トコヌシさまが望むなら恩に報いるためにこの身を捧げても良いと思った。
 あんなに死にたくはないと、殺されるのは怖いと思っていたくせに、己の信じる神が願えば簡単に心が揺さぶられる。
「それもあるが、お前とは名を交わした」
「名前……?」
「お前が童の時、馬鹿正直に名を告げただろう」
「ああ……初めてお参りした時の」
「そうだ。ベラベラとどうでも良い事ばかり話しおって……あまりに呆れたのでな、気まぐれで俺もお前に名を明かした」
 あの時、確かに名前の他にもどうでも良い事ばかり話していた気がする。幼稚園児のすることなんてみんなあんなものだろうけれど。
 小馬鹿にしたような笑い声を掛けられたのはそういう理由があったのか、と合点がいった。むしろ、目に留まるような行動をしたお陰でこうして覚えられていたのだから光栄な話だ。
 私は涙で濡れた目で両手の中の指を見つめ、トコヌシさまの言葉に耳を傾ける。
「本来、神に真名を告げるのはそれなりの覚悟を持たなくてはならない。嫌でも縁が結ばれるからだ」
「あの時に、縁が結ばれた、と。だから、助けてくれた……」
「たまたまだ。図に乗るなよ、小娘。大体、お前が毎朝話しかけるせいで眠りを妨げられるのだ。うるさくて敵わん」
「迷惑でしたか……」
 まさかそんな風に思われていたのは知らなかったとはいえ、不快に思わせてはしまったのはとんでもなく無礼なことだ。
 申し訳ないという気持ちと落胆の色を乗せてつぶやいた言葉に、トコヌシさまは「まあ、外界の時の流れを知るには丁度良い」と鼻を鳴らした。
「お前が死ねばそれも叶わん。今は久々に血を浴びたお陰で機嫌がいい。許してやらんこともないぞ」
「トコヌシさまはやっぱりお優しい神さまなんですね」
 棘のあるぶっきらぼうな言い方ではあったけれど、その言葉の中に温かいものを感じた気がした。
 私はしみじみと、噛み締めるようにその慈悲深い神さまの指を撫でる。
 けれど、そんな私をトコヌシさまは笑い飛ばして一蹴した。
「呪いに向かってお優しい≠ニは随分と生温いぞ、小娘」
「呪い? トコヌシさまが……?」
「宿儺と呼べ」
 ピシャリ、言いつけたその声が昂然とその場に響いた。
「お前たちがトコヌシさま≠ニ土地神扱いするのは勝手だが、神と祀り上げられるのはもう飽きた。……まあ、ここは俺にとっても都合が良かった。神社という一種の結界に守られて奴らに気取られることもない」
 この信仰自体を当の本人はよく思ってはいなかったのだろう。けれど、利用価値があったから見過ごされていた、ということか。
 言葉の意味を一つ一つ理解しながら噛み砕いていくけれど、どうしても分からない言葉があった。
「あ、あの。奴ら、とは……?」
 何を指しているのか見当もつかない。彼は誰かに狙われているのだろうか。
 私はこの土地の神さま、両面宿儺≠フことをほとんど何も知らない。いや、知ろうともしなかった。神の意志など知るよしもなく、ただ安直に伝承を信じ、伝統を守ろうとした。それはなんと愚鈍なことだったのだろうか。
 彼は私の問いには答えずに新たな問いを投げかける。
「ここの連中が何故両面宿儺≠ニ呼びたがらないか知っているか?」
 幼い頃の記憶が蘇った。
 あの、「りょうめんすくな」と迂闊にも呼んでしまったあの時のこと。両親に二度と呼んではいけないと叱られたあの理由は何なのだろう?
 そう自分に問いただしながら私は首を横に振った。
「奴ら──呪術師≠ェやって来るからだ」
 ──じゅじゅつし……呪術、師。
 聞き慣れない言葉を口の中で復唱しながら頭の中で漢字に変換していく。
 呪術師──呪いの術を使う人。文字のままそう漠然とイメージしたけれど、具体的に何をする人なのか分からない。ただ、心象はあまり良くはなかった。
「呪術師は両面宿儺を呪いとして祓うために、全ての指を探している。お前が持っている指は二十本あるうちの一本だ。信者にとっては御神体を取られることになるのだから困るのだろう。だから何代も何代も長い時をかけてここを守り、外の人間の目に触れることがないよう厳重に警戒してきた。俺も奴らに祓われるのは御免なのでな。利害が一致したというわけだ」
 私はただ頭を抱えた。何も言えなかった。と言うより、理解が追いつかなかった。
 僅かな沈黙の後、真っ白な脳内に私の名が響く。
 そう、私は縁の結ばれた神≠ノ名を呼ばれた。
「さあ、お前の願いは叶えてやったぞ。健気に祈りを捧げてきた信者であるお前は、俺の願いを叶えたくはないか?」
 「命の恩人に恩を返したいだろう?」と悪どく笑うこの声を、人は悪魔とでも呼ぶのだろうか。
 仮にそれが私を利用しようとしているのであろうとも、救ってくれただけではなく恩に報いる機会まで与えてくれる。私にとってそれは慈悲深い神の手が差し伸べられたも同然だった。
 私はその手を取るように問いかけた。
「何を、願われるのですか?」
「ここから出せ」
 タン、と矢が的を捉えたような鋭く力強い声音に息を呑んだ。背筋が伸びる。ビリビリと身体の内側が震えている。
「言っただろう、祀り上げられるのは飽きたと。──お前が封印を解いたのだ。特別にこの俺の手足になることを許そう」
 両面宿儺≠ェ祓われる。
 そんなことは、許されない。
 土地神だの信仰だの関係無しに、私は私の意思で自分の信じる神を両面宿儺≠ノ決めたのだ。それが呪いであったことなどは、些細なことに過ぎない。私は私の意思と信じるもののため、それを守りたい。
 ひと時の静けさを、水滴の落ちる音が支配する。
 それが鍾乳洞のつらら石から落ちる雫であったのか、それともこの場に飛び散った滴血であったのかは知る由もない。
 私はその音を打ち消すように声を張った。
「──はい、宿儺さま」

 神も呪いも紙一重。今の私にとってはどちらであっても関係のない話だ。


永遠に白線