潔白な罪 壱

「親子の縁を切る」
 父が淡々と口火を切った。あまりに気持ちのこもっていない言い様が、より残酷で、重たく冷たいものに変化させる。
 布団に寝かせられていた私は、少し離れた戸の近くに座った両親の方を向いた。
 何が起こったのか、状況がよく呑み込めなかった。
 助けを求めるように母を見るが、母は何も言わずただ床の一点を見つめている。私はあきらめて木目なのかシミなのかわからない跡がついた天井を見上げた。
 私は、あの後──宿儺さまに受けた恩を報いると誓いを立てた後、どうしたんだっけ……?
 おぼつかない足を必死に動かして、あの暗い場所から這い出して、雪に足を取られながら山を下り、人に見られないよう気を張りながら神社を出て、集落の入り口にある公衆電話で警察に連絡して────
 そこまでは覚えている。
 もしかしてあそこで倒れたのだろうか。出血もしていたし、しょうがないのかもしれない。
 そっと、自分の額を触る。案の定、包帯が巻かれていた。意識すると傷口がズキズキと鈍く痛む。
 ──あ、宿儺さまは。
 あんなになくさないよう、見つからないよう、大事に大事に握りしめていたというのに、今自分の手の中に彼の指がない。
 サッと血の気が引いた。
 どうしよう、もし倒れたのならあの公衆電話の付近に落としてしまったのかもしれない。
 普段なら集落以外の人が来ることはないから、拾われずにそのままになっている可能性の方が高い。けれど、外の人間を……警察を呼んだのは自分だ。
 もし、もしも、見つかって取り上げられてしまっていたら。もしくは、集落の人間が落ちている指を見つけてしまっていたら。それが、自分たちの神だと気づけば即、元の場所に戻されるか、もっと見つかりにくい場所に隠すはずだ。
 そんなことをされたら、私が探し出すのは不可能に近い。
 痛む頭で最悪のことを考える。親子の縁を切ると言われたことなんてどうでもよくなってしまった。
 早く、早く宿儺さまを見つけなければ。そう、身体を起こした時。
「起きたか。小娘」
 不機嫌そうだけれど、どこか愉し気で嘲弄を含んだ声が、この身の内を震わせる。
 ──宿儺さまだ。
 記憶はないけれど、ちゃんと手放さないでいたらしい。それに対し、よかったと思うと共に、あの誓いが夢ではなかったことにも安堵する。
「お前が寝ている間、随分と面白いことになっているぞ。そこの二人にどのくらい寝ていたか聞いてみろ」
 両親の手前、堂々と返事をするわけにはいかず、宿儺さまに言われるがまま問いかける。
「えっと……私、どのくらい寝てたの?」
「一ヶ月だ」
「い、一ヶ月……!」
 父の言葉に少々大袈裟に驚いてしまう。長くても三日くらいだと踏んでいたため、予想以上の答えに開いた口が塞がらない。
 そういえば、身体中の節々が軋んでいる。先ほど勢いよく起き上がったせいかと思ったが、違ったようだ。それだけ寝ていればいやでも身体が固まってしまう。
 一ヶ月。改めてその時間の長さを思えば、受験も卒業式もすべて終わってしまっているということに気づく。
 親子の縁を切ると言われているのに、そんなことを心配するのはおかしいのかもしれないが、それもこれも突きつけられる事実が、何もかも現実味のないせいだ。
 今できることと言えば、両親の話を聞きながら、窓の外に広がる雪がとけた後の、桜が舞う季節を見つめることしかない。ぼうっと夢現にその様子を眺めていると、険しい父の声が私の名を呼んだ。
「──一ヶ月前、自分が何をしたか覚えているだろう」
「…………」
 しばしの沈黙の後、正直にコクリと頷く。
 あの事件はどう対処されたのだろうか。あの子の遺体はちゃんと家族の元へ帰ったのだろうか。……そして、私はどうなるのだろうか。
 両親が親子の縁を切ると言い出したということは、私と関わりを持ちたくないということ。きっと、神主を殺害したのは私ということになっているのだろう。
 そうやって私を殺人犯にしておけばこの土地に住む皆で隠蔽していた女子児童失踪事件の真相──生贄の事実を闇に葬ることができる。
 あの行いが正当防衛だとしても、宿儺さまの力によって死んだ神主の死に方は普通ではない。きっと過剰防衛、もしくは猟奇殺人ともとられかねない。
 そうだ、警察に捕まる前に逃げた方がいい。私にはやらなければならない使命があるのだから。
「お前のせいでトコヌシさまがいなくなってしまった……! 御神体が、なくなってしまったんだ!」
 意外にも父が叫んだのは、事件のことでなかった。「どこにやった? まさか持ち出したわけではないよな……?」という疑いの目から目をそらすまいと、答えを考えながら見つめ返す。
 宿儺さまの声がするということは、この部屋のどこかにあるに違いない。
 けれど、私にはどこにあるのか、帰ってきた時の記憶がないため見当もつかないのだ。両親に気づかれないような場所あるのだと信じたいけれど……
 そう薄く唇を噛むと、宿儺さまは耳元で心底愉快そうに笑った。
「ククッ、お前はあの日、自力でこの部屋まで帰って来たぞ。そして、倒れた。そう、意識を飛ばしながら隠した場所──そこの引き出しの一番上だ」
 ハッと息をのみ、思わず宿儺さまの言う通り、勉強机の横にある引き出しに視線を移してしまった。
 しまった、と思った時にはもう遅い。「本当に持ち出したのか」と私に蔑んだ視線を送りながら父は引き出しの取っ手に手をかける。
 そうして勢いよく開かれた音に、私はギュッと目を瞑った。
「安心しろ。お前が隠した場所は物置の床下だ」
 本来なら緊張感のある場面だというのに、悪戯が成功した子供のような大爆笑が頭の上から降ってくる。
 私は両親の手前何も言うことができず、真顔を保った。
「そう怒るな。ちょっとした戯れだろう」
 怒っていない、決して怒ってはいないのだ。己の信じる神に怒るわけないだろう。
 冷や冷やさせないで欲しいとは少し……一瞬思ったけれど、私が怒るわけない。きっと宿儺さまも暇を持て余していたのだろう。
 そうやって自分に言い聞かせながら、おちょくってくる宿儺さまの言葉を聞かなかったことにする。
 たいして物の入っていない引き出しの中を見た父の「紛らわしい反応をするな」という言葉を生半可に聞きながら、自らの胸の内に生まれた苛立ちを不敬≠フ二文字で打ち消した。
 そして、私は父に毅然とした態度で言い返す。
「御神体が落ちたところは見たけれど、私は知らない」
「……信用したわけではないが、今はそういうことにしておこう。ただ、皆はそう納得してくれはしない。お前が神主を殺し、生贄のことを警察に漏らしたことは許されない。──皆、お前を殺せと言っている」
 父の口にした事実。この土地に住む皆が私を殺そうとしている。顔を合わせばにこやかに挨拶を交わし、親切にいろいろと気にかけてくれるあの人たちが手のひらを返し、殺意を向けられているのだと考えたらゾッとした。
「事件自体は神主が女児を誘拐し自殺した≠ニいうことになっている。だが、不自然な点が多いと未だ警察が出入りしているから、お前を殺すのはリスクが高い」
「……それで、この一ヶ月見逃されていた、と」
「そうだ。現場を発見して通報したのもお前ではなく別の人間ということになっているからこの時点では目を付けられていない。だから、今のうちに追い出すことにした」
 なるほど、と腑に落ちてしまった。
 犯罪者として娘が逮捕されるのが嫌なのではなく、殺されるのは時間の問題だというギリギリの状況に立たされている娘を追い出すことで逃してくれるということなのか。
 親から完全なる拒絶を向けられていなかったことに心の片隅で安堵する。
 祠の前には私の血液が付着しているはず。それが誰のものかわからないから警察も事件を解決とするわけにはいかないのだろう。
 それについても、一ヶ月自室で死んだように眠っていたことは都合が良かったのだ。私に捜査協力が依頼されれば一発であの祠にこびりついた血液の人物だとバレてしまう。
 まさか警察が「神さまが助けてくれたんです」だなんて信じてくれるわけもないのだから、警察に捕まる前に、そして殺される前に、この土地から出るという提案は願ってもないことだ。
 私にも宿儺さまへの恩返し≠ニいうここから出ていきたい立派な理由がある。
「──出ていきます」
 膝の前で揃えた指を布団の上につき「これ以上迷惑はかけられません」と言葉を添えて頭を下げた。
 頭上で両親の息をのむ音が聞こえた。
 私は二人が生贄を黙認していた罪を暴かなかった。そして、二人もまた私の殺人の罪を暴こうとはしなかった。まあ、勝手にそう思われているだけで私は殺してはいないのだけど。
 それでも、ここには僅かではあるが、確かに家族を想う絆がある。褒められたことではないことはわかっているけれど、ここに宿儺さまが留まらなければ、生贄の習慣は意味を成さなくなり、無くなるのだ。罪を犯した人間は、どちらにしろどこかで罰を受けるのならば、放っておこうと思う。
 完全な私情だけれど、どこかの神か呪いか、それとも人か、それすらも分からないけれど、きっと何とかしてくれるだろう。
 ゆっくりと顔を上げた。私は今、この場にそぐわない清々しいほど晴れ晴れとした表情で、両親を見つめているだろう。
「今までありがとうございました」
「……発つなら早い方がいい。今夜にでも荷物をまとめてすぐ出ていけば、町の駅の始発には間に合う」
 私物もそう多くはないからすぐ準備はできる。何を持っていくべきか考えていると、それまでずっと押し黙っていた母が口を開いた。
「……これを持っていきなさい」
 そう言って差し出されたのは通帳だった。そこでようやく金銭面について全く考えていなかったことに気づく。
 二人も自分の子供を追い出すということに負い目があるのだろう。「あなたの学費のために貯めていたものだから使いなさい」と握らされたものは軽いのに重い。それはまるで、一人で生きていくということの重みを叩き付けられたようだった。
「……お父さんもお母さんもここに残るの?」
 私を逃がしたと周りに知られれば、二人の身も危ないだろう。
 私の問いかけに母は首を横に振った。
「御神体を探したいところだけれど、警察によって神社周辺は立ち入り禁止にされているから動けないの。この土地の信仰を守ることができないのなら、ここにいる理由はないわ」
 土地神信仰の信者としての模範解答に、ただ「そう」とだけ答える。
 それが正しいのか間違っているのか分からない。私だってきっと普通≠ニ比べればその価値観が歪んでいる。そんな人間が何を想い、何を告げたところで、この場では意味を成さない。
 両親が部屋から出ていった後、着替えと財布をバッグに詰め込む。そして、押し入れの段ボールを退かし、重たい床下収納の蓋に手をかける。取っ手には薄らと血がこびりついていた。それをウェットティッシュで拭いゆっくりと開ける。そして、地下に隠してあった宿儺さまの指を取り出し、和紙に包んで首から下げられるようなポシェットにそっと入れた。
「ケヒッ、あの童女が命を狙われるまでに成長したとは、実に感慨深いな」
 それまで静かだった宿儺さまから、褒められているのか貶されているのか分からない言葉を投げかけられる。
「それは成長とは言わないと思います……。それより私の寝ている間、何か変わったことはありましたか?」
「そうだな、いろんな人間が訪ねてきたが、全てお前の親が追い返していた以外特に面白みのない日々だった」
 聞けば家に近所の人や警察が来たらしい。両親は一切彼らを家にあげることなく私を匿い続けていたと言う。そもそも、警察に関しては特に私に疑いをかけていたわけではなく、ただ事件の情報を集めるために一軒一軒尋ねていただけらしいけれど。
 話の内容からは両親の苦労が窺えた。口に出して言わないけれど、二人から家族としての無償の愛を注がれていたのだと、小さな温かいものがスッと溶けていくような気がした。
 そうして準備を終えた後は早かった。久しぶりの食事に久しぶりのお風呂。あれだけ眠っていたのだから仮眠はいらない。夜が更けたら別れの時だ。近所に悟られないようそっと裏口から家を出る。「元気で」「二人こそ」交わされたのはその言葉のみ。味気のない別れだというのになぜか私たちらしいと思った。
 私たち家族の中心にはいつもトコヌシさま≠ェあった。この別れは私たちを繋ぐ神のためのもの。父や母が私の立場なら、きっと二人も私と同じ選択をしただろう。そして私もまた二人と同じように家族を逃がしていた。ここには確かに私たちを家族たらしめる絆がある。
 少し嬉しかった。こんなことがなければ知ることもなかったから。
 両脇に山桜が咲き誇る山道を下る。一面に敷き詰められた花びらの絨毯は白い雪が積もっていたあの日を思い出させる。
 随分と身軽になってしまった。けれど重くのしかかていた自身を縛るものに解き放たれたような爽快感もあった。
「宿儺さま、これからどういたしましょうか」
「ひとまず、すぐにここを離れろ。お前を追っているのはあの土地の人間や警察とやらだけではない。結界を出たらいつ呪術師に気取られてもおかしくないのだからな」
 その言葉に歩幅が大きくなる。容赦なく桜の花びらを踏みつけ、進んでいく。
 今までずっと運動も勉強も人並にこなすことができ、周りの手を煩わせない聞き分けの良いいい子≠ナ通って来た自分が、いきなりそんなに多くの敵を作ってしまったのが何だかおかしくなって、笑みを零してしまった。
「何故笑う」
「ふふ、ごめんなさい。これからたくさんの人たちから逃げなきゃいけないっていうのに、不安じゃないんです。こんなに笑っていられるほどに。それもまたおかしくて。……ありがとうございます、宿儺さまのおかげです」
 いつまでもクスクスと笑いの止まらない私に「よく分からん娘だ」呆れた声が降ってくる。
「心の支えは、今も昔も宿儺さまだけなのですよ」
 それが嬉しいのだと宿儺さまに伝え、私は故郷に別れを告げた。


永遠に白線