渋谷事変 壱







 十月三十一日。俗にハロウィンと呼ばれるこの日の渋谷は、世間では問題視されるほどの賑わいを見せ喧騒に包まれる、らしい。
 田舎育ちの私が実際にそれを目にしたことはない。物珍しさ目当てでハロウィンに参加しようと仮装用の衣装を選んだは良いものの、皆先日の内通者の件やその方の任務が忙しくなり、全員が揃うことはなくあえなく中止となった。
 しかし、何の因果か私たちはそれぞれ夜の渋谷に降り立つこととなった。突如、渋谷に降ろされた一般人を閉じ込める帳。その中にいる何者かが五条悟を呼んでいる。被害の規模を抑えるために彼一人が帳の中に入り、他の術師・補助監督は帳の外で何かあった時に備えて待機するようにと指示が下された。

「本当に私までついてきてよかったのかな」

 渋谷に向かう車の中。後部座席に座る私は得体の知れない不安に怖気付く。
 都会のど真ん中、それも非術師が大勢巻き込まれている状況に、今まで経験したことのない大規模なテロ行為に巻き込まれていると地に足がつかない思いでスカートの裾を握った。
 先ほどまで虎杖くんが座っていた隣の席を見る。彼は青山で降ろされ、冥冥一級術師との合流を見届けた。
 一年生はそれぞれ別の場所に配置されることになったため、野薔薇は真希さんと別の車で移動中だ。今この車に乗っているのは同じ方向に向かう伏黒くんと二名の補助監督のみ。緊張感が漂う中、端に座った伏黒くんがこちらに視線を向けた。

「許可は出てるんだから大丈夫だろ。それに、さっき高専で説明があった時、先輩たちが言ってただろ。一人でいる方が危ない≠チて」

 真希さんたちが口を揃えてそう主張していたことを思い出す。三人ともあまりに真剣な面持ちで言うものだから、理由を聞く余裕もなく頷くしかなかった。

「去年の十二月にあった百鬼夜行のことですかね。……あの時は乙骨くんと他戦力の分断が目的でしたから、彼と同期の二年生がそう言うのも無理はないですね」

 チラリと助手席の伊地知さんが、後ろに座る私たちを見た。
 先輩たちは経験不足の私とは違い、いろいろな経験をしているのだろう。中でも特級術師だという乙骨先輩。その名前だけはよく耳にする、まだ会ったことのない先輩の名を口にした。

「乙骨先輩って今はどうしてるの?」
「海外にいる。五条先生が言うにはアフリカだって話だけど、詳しい場所は他の先輩たちも知らないんじゃないのか?」
「そうなんだ。強いとそんなところにまで行くんだね」
「まぁ、かなり特殊な例だと思うけどな」

 私は辺鄙な山の中から東京に出てきただけで大きな変化だと思っていたが、海を渡ってはるばる海外で任務に就くなんてそれだけですごいことだ。
 伏黒くんが言うには唯一手放しで尊敬できる先輩らしい。きっとすごく頼りになる人なんだろう。
 対向車線を走る車とすれ違うことがなくなり、帳に近いところまでやってきた。運転している女性の補助監督が「着きました」と声を上げる。

「七海さんと猪野くんは現着してますね」

 伊地知さんの言葉に窓の外へ視線を彷徨わせると、歩道橋の下に先日お世話になった七海さんが立っていた。

「私たちはもう少し先での待機です」
「分かりました」

 運転席に座る彼女にそう声をかけられる。
 外に出ていく伊地知さんと伏黒くんを見届け、私は窓を開けて顔を覗かせた。

「伏黒くん、気をつけてね」
「ああ。人の心配だけじゃなく自分の心配もしろよ」

 ふ、と小さく笑った彼は、私を安心させるように柔らかな口調で口を開いた。

「何かあったらうちの班と合流する手筈だろ。大丈夫だ」

 伏黒くんは七海さんたちと同じ班だという。私はこちらに近寄ってくる七海さんに視線を注ぎ、伏黒くんへ頷き返した。

「うん……七海さん、その時はよろしくお願いします」
「何もないことが一番ですからね。合流することがないことを願います」

 ゆっくりと車が動き出す。私は前に向き直って窓を閉めた。



 ──時刻は二十時十四分を指している。
 首都高速三号渋谷線が頭上を通る高架下。パーキングに車を停めて外に出た私たちは、一切車通りのない車道に降り立つ。
 普段なら駅周辺の混雑で赤いテールランプが連なり渋滞するであろうその場所で、目の前に聳える黒い壁を見上げた。灯りの少ない静寂に包まれた街並みの中。月明かりに照らされた帳は異様さが際立っている。

「我々はあくまで連絡役なのでここで待機が指示されています」

 戦力に数えられている皆とは違い、私は高専での待機ではなく現場に送られる代わり、補助監督と同様の役割に徹することになっている。自分の身は自分で守れる程度の力はあるが、単独での敵との戦闘は任せられないと判断されたのだろう。
 ある意味自分にもできることがあって良かったと、胸を撫で下ろした。混乱した現場でただのお荷物になるのだけは御免だ。

「もし仮に非常事態になった場合は、近くの班と合流して連携を取りつつ動きます」
「近くの班って伏黒くんたち……七海班のことですよね?」
「七海班もですが、ここからだと日下部班も近いので。これを見てください」

 タブレットで地図を起動させた彼女の手元を覗き込む。
 彼女は現在地のアイコンを拡大し、周囲の道筋を指で示した。

「ここは渋谷三丁目の六本木通りなので、地図で言うと……ここですね。渋谷一丁目、明治通りには、先ほど別れた七海班と伊地知さんが待機してます」

 ここから見るとあっち側です、と帳に向かって右手側を差した彼女の言う通り、ビルの谷間へ目を向ける。
 そのまま彼女は左側を指差した。

「そしてJR新南口の方に日下部班が待機してます。何かあった時はこの二班と動くので、簡単に覚えておいてください」

 私は指し示された方向と地図を照らし合わせた。山手線の路線図を思い浮かべながら、現在地から原宿側に七海班、恵比寿側に日下部班という風に記憶する。

「なるほど……やっぱり地図で見ると分かりやすいですね。渋谷でもあまりこっち側に来たことがないので、土地勘がなくって」
「繁華街は駅を挟んだ向かい側ですもんね。そっちはよく行くんですか?」
「時々ですけど、野薔薇たちと買い物しに行きます。109とか、PARCOとか」
「何でもありますもんねぇ。私も学生の時はよく行ってたなぁ」

 しみじみと噛み締めるように言う彼女に「最近は行かないんですか?」と問う。すると彼女は「仕事に追われてのんびりショッピングする暇がなくて」と疲労を滲ませ、力無く笑う。
 多忙な補助監督業に思いを馳せていると、彼女の携帯が鳴った。

「五条さんが現着しました。文化村通りから帳内への進入を確認済みです」
「……始まるんですね」

 緊張感に息を呑む。全て丸く収まることを願って、再び帳を見上げたその時、その足元に二つの人影が見えた。

「ほんとにいた」

 少女の声だった。それが私たちに向けての言葉かどうか考える間もなく、補助監督の彼女が声を張る。

「ここは危ないです! すぐに離れて!」
「待ってください。この二人、どこかで……」

 なんの変哲もない学生服を身に纏った少女たち。それが記憶の中であの監視カメラに映っていた二人であると気がついた時にはもう手遅れだった。
 パシャッとシャッター音が鳴ったと同時に、隣にいた補助監督が吹き飛ばされる。

「あぁ……ッ!」

 声を上げて彼女の元に駆け寄ろうと少女たちに背を向けた一瞬の隙に、胴体に何かが巻き付いた。それが縄だと認識した瞬間、ぐんっと上に引っ張られる。

「ぐ……ぅ」

 高架下のパイプに括り付けられた私は、食い込む縄の拘束に小さくうめく。
 それを見上げる少女たち。人形に巻きつけた縄をピンと張った黒髪の少女の方が口を開いた。
 
「私たちのお願い、聞いてほしい」
「……いきなり襲っておいてお願い≠ナすか」

 私は肋骨に食い込む縄に息苦しさを覚えながら、声を絞り出す。

「スーツの人は急所を避けたから死ぬことはないよ」

 代わりに連絡手段は断たせてもらうけど、と金髪を頭の高い位置でお団子に結った少女が、補助監督の携帯を足で踏み潰した。
 致命傷でなければ助けられる。けれど、彼女たちの言葉を鵜呑みにはできない。
 じっと探るように彼女たちを見つめれば、淡い色のカーディガンのポケットから見覚えのあるものが取り出される。

 ──宿儺さまの指。
 目を見張る私へ、彼女たちは呪符が巻かれたそれを掲げるように見せつけた。

「両面宿儺へ指を返す。だから見返りに一つ、頼みがある」
「アンタには口添えをしてほしいの。お願い」

 懇願するような真剣な声音、表情。もし宿儺さまが絡んでいなければ、何か力になってあげたいと考えただろう。
 しかし、私は考える余地もなく拒否した。

「無理です」
「……理由も聞かずに断る気?」
「たとえ聞いたとしても、答えは変わらないので」

 私はゆるゆると首を振った。

「私には宿儺さまの意思を捻じ曲げる力なんてないし、捻じ曲げようとも思わない」

 宿儺さまに無理を通すために私を利用するなんて、根本から間違っている。私が口添えをしたからといって、彼女たちの思うようになるわけではないのだから。
 どちらも視線を逸らそうとはしない。眼差しだけが交わる沈黙が訪れる。

「……菜々子、時間がない」
「しょうがない。術師を入れない帳が降りる前に連れて行こう」

 瞬間、吊り下げられていた縄が解かれる。ふっと重力に従ったまま落下し、受け身を取ることもできず、音を立ててコンクリートの上に転がった。

「美々子、まだ拘束は解かないでよ」
「分かってる」

 落ちた衝撃か、頭と視界がグラグラと揺れている。意識が落ちるか落ちないかを彷徨う中、二人がかりで持ち上げられ、帳の中へ運び込まれた。









永遠に白線