潔白な罪 弐

 人気のない空き家に足を踏み入れた私は、あまりの異臭に口元を押さえた。玄関に転がったいくつもの靴。両脇に置かれたゴミ袋は、いつのものか分からないほど黒く変色している。
 高さのある上がりかまちを土足のまま上り、仏間の畳を踏んだ私は立ち止まった。
 外は晴れているのにも関わらず、日光が差し込まない異様な薄暗さが居座る部屋の中。壁紙や障子が剥がれ、この家の住人の先祖なのか、鴨居の上に掛けられていた遺影も色褪せ傾いている。目の前に鎮座した仏壇の燭台は倒れており、蝋が一面を汚していた。すぐ横の香炉もひっくり返り、灰にまみれている。
 どうしたらこんなことになるのか分からないほど荒廃した室内。そして、何より壁一面に張られた異常な量のお札が、不気味さをより際立たせていた。
 何かにのし掛かられたように空気が重い。いかにも曰くつきだと主張するそれらにゴクリ、生唾を飲み込んだ。
 ……一体ここで何があったのだろうか。
 ここは故郷から少し離れた町。恐らくまだ県もまたいでいないはずの駅で、たまたま電車を降りたところ、宿儺さまが指示する通りにやって来たわけだが、何の目的があるのかは全く分からない。
「さて、そろそろ良いだろう」
 宿儺さまは重い腰を上げる言いぐさで呟いた。私もまた全身の気怠さに小さく息をつくと、宿儺さまは全て見透かしたように問いかけた。
「身体が重いか?」
「は、はい。何故それを……」
 気付かれないようにしていたのに言い当てられてしまい驚いた。
 この部屋に入ってから、雰囲気もあってか余計に重怠い。ただ単に疲れが溜まったのだと思っていたけれど、宿儺さまの様子からどうやらそれは違ったようだ。
「背後に目を凝らしてみろ」
「? 何も──」
 言われた通りに背後に目を向ける。先ほど自分が通った玄関に続く廊下があるだけだったのだが、ゆらゆらといくつかの黒い影が揺れている。ざっと見て七つほど。それらをジッと見つめているとその影が形を成し、輪郭がはっきりしていく。
 その得体のしれない存在を認識すると、先ほどより比べ物にならないほどの質量が肩に乗る。
 ま、まさか。
 息苦しさを感じ、おそるおそる目の端で肩の上を見る。そこには蛇のような鱗を持った何か・・が首に巻き付き、頭上で大きな口を空けていた。
「見えたな」
「はい、見えました……」
「クックック、どうやら誰が先にお前ごと俺を食うか、機を伺っているようだ」
 機を伺うどころの話じゃない、飲み込まれる寸前だ。
 愉快そうに笑う宿儺さまをよそに、私は目と鼻の先にいる得体のしれないそれに悲鳴を上げる一歩手前だった。冷や汗でじっとりと肌が湿っていく。何重にも連なる牙を前に息もできず、ただ運命に身を任せた。
 ──ああ……駄目だ、食べられる。
 そう確信した時、目の前の異形に碁盤の目状に赤い筋が入る。私の鼻先で自身を殺そうとしていたソレはバラバラと崩れ去っていった。
 グロテスクなその様に喉元をひくつかせるけれど、一度人間が爆ぜて死ぬ様を見ているので何とか耐えられた。今回は人間の姿をしていなかっただけ幾分かマシに思える。
「あ、あの。これは一体……」
「呪霊だ。雑魚だがな」
「呪霊……」
 今まで見えた事のなかった異形のそれらを見つめる。
 一般的に想像するシーツを被ったようなお化けとは比べ物にならないほど奇妙な姿は、説明する語彙すら湧いてこない。
 呪霊たちは一体宿儺さまに殺されたことで、怯えたように揺れているがその場を動く様子はない。いや、動けないのかもしれない。
「呪術を使えぬ者には見えん。だが、命の危機に晒されると見える人間もいると聞く」
「つまりは……私は危機的状況だったから見えたと……」
「喰われていてもおかしくなかったなあ? まあ、見えるようになったとは好都合。わざわざ雑魚を連れて散歩しただけの甲斐があった」
 それが目的でわざと私を襲わせたのか。命がいくつあっても足りないなぁ、なんて現実逃避をしている暇などなく、すぐさま私という足手まといが何をすればよいのか指示を仰ぐ。
「私は何を」
「そのまま動くな」
「はい」
 そのまま足に力を入れる。私は大事にしまっていた宿儺さまの指を取り出した。
「力のない者ほど良く群れる」
 一言。宿儺さまが発した瞬間、それまで私の感じたことのないプレッシャーを感じる。それだけで息が詰まり、心臓が握りつぶされそうだ。
 突風と共に一本の赤い線が走った。傍のタンスや襖や窓を巻き込んで、呪霊たちは真っ二つになる。言葉には聞こえない叫び声が響いた。
 私はそれを聞きながら雪崩のように崩れてくるタンスの中身を避け、割れた窓ガラスの破片が飛んでくるのを手で防ぐ。
「っ!」
 幸い刺さりはしなかったけれど、掠めた鋭利な破片によって手のひらに血が滲む。
「どうした」
「いえ、少し手を切っただけです」
 指先から血が滴り落ちるけれど、傷自体は深くない。これなら普通の止血で事足りるだろう。そう思いながらハンカチで止血をしようと鞄を漁っていると、少し考えこんだ様子の宿儺さまが口を開いた。
「……そのまま呪符に触れてみろ」
 呪符……?
 何のことだか一瞬分からなかったけれど、壁一面に張られたお札のことを指しているのだろう。
「ここで問題ないですか?」
「ああ」
 仏壇に張られたひと際大きい呪符に触れる。
 和紙にジワリと私の血が染み、まるで血を吸われているような感覚に侵される。次に何が起こるか身構えていると、ミミズが這ったような呪符の文字が、水面と化した血の上で揺れる。ゆらゆらと漂った後、血に吸い込まれるようにして文字が消えた。
 その様子に宿儺さまは笑い声を上げた。腹の底から面白がるような爆音は静かな室内に降り注ぐ。
「やはりそうか! 愉快! 愉快!」
 何が愉快なのかは全く見当もつかない。問いかけようと思ったけれど、目の前で風が吹き荒れ視界を奪われた。
 思わず瞑った目を開けると、足元で跪く三つ目の老爺がシワシワの両手を畳の上に付き頭を垂れた。
「りょ、両面宿儺様が一体どのような御用で……」
「フン、分を弁えているか。安心しろ、そうすぐ取って食いはしない。そう伝えろ」
「分かりました」
 どうやら宿儺さまの声は人間はもちろん呪霊にも聞こえていないらしい。唯一意思疎通の図れる私が呪霊に宿儺さまの言葉を伝えるが、呪霊は怯えきってより一層額を畳にこすり付けた。
 知能が高い分、先ほどの宿儺さまに殺された呪霊たちを見てどのように立ち回れば良いか分かっているのだろう。
「この呪霊は言葉が通じるのですね」
「さっきの雑魚とは違って封印される程度には力がある。だが、この乱雑な封印──呪術をかじった程度の人間の仕業か。普通の呪術師ならこの程度封印せずとも祓えるだろう」
 乱雑な封印、と聞いて数打ちゃ当たると言わんばかりの手当たり次第に張られた呪符を見て納得した。
 宿儺さまは最近呪霊や呪術師に何かあったかと尋ねたので、私は傷口にハンカチを巻き付けながら目の前の呪霊に同じことを伝えた。
「ここらの田舎では特に変わったことはないのですが……思い当たることと言えば去年の年の暮れ、ここより東西二箇所の地で呪霊を使った大規模な反乱が同時に起こったようで、何やら大変だったと聞いております。何分ここを溜まり場にしていた呪霊より伝え聞いた話ですので正確なことはわからないのですが……」
「ほう、どうりで騒がしかったわけだ」
 あの集落一帯に張られていた結界の中にいた宿儺さまにまで届く程の大きな騒ぎだったのだろう。そんなことがあったなど私は当然知らなかったので、呪霊の言う話が別世界の話のように聞こえた。
 どうやらその出来事は百鬼夜行≠ニ呼ばれている、という情報まで得て宿儺さまは満足したらしい。
「行くぞ」
「はい」
 来た時よりもさらに荒れ果てた空き家を出た私は、随分と機嫌の良い宿儺さまに気になっていたことを尋ねる。
「あの呪霊は見逃しても問題なかったのでしょうか」
「良い良い。そのうち俺の残穢を追って呪術師が来る。どうせ祓われるだろう」
「そうなのですね……。良かった、と言ってもいいのか分かりませんが安心しました」
 あの呪霊は宿儺さまを恐れていたからないとは思うけれど、もしまた憑かれでもしたら、目の前で呪霊解体ショーが行われる。それは少し遠慮したいところだ。
 何度か見れば慣れるとは思うが、進んで見たいものではないので、なるべく呪霊と遭遇するのは避けたい。それを考えると、やはり一つの場所に留まるのはやめた方が良いのだろう。見えなかったものがいきなり見えるようになったのだから、これから苦労が絶え無さそうだ。
「手の傷はどうだ」
「血は止まってるので大丈夫だと思います」
「それなら良いがきちんと手当はしておけ。──俺にとっても大事な手なのだからな」
「ええ、ありがとうございます」
 私は宿儺さまの手足なのだから労ってくれているのだろうと、どこか含みがあるように聞こえることには目を瞑り、その言葉の意味のまま捉える。
「これからあの呪霊の話で出た場所へ向かわれるのですか?」
「ああ。結果的には、だがな。──策がある。ひとまず東へ向かえ」
 立ち止まることは死と同義だ。追われる立場の身で、立ち止まれば即座に捕まってしまう。一つのところに留まることはせず、一歩一歩確実に進んで行こう。宿儺さまの望むがまま、宿儺さまの言葉だけを信じて。
 再び電車に乗り込んだ。一面に広がる田んぼを切り裂くように伸びた線路。その上を進む列車の中でそんなことを思いながら、窓側のボックス席に背を預けた。


永遠に白線