渋谷事変 参







「はぁ……ようやく抜け出せた……」

 解いた縄をその場に残し、窓口の外に出る。
 姿を消したあの二人がどこに行ったかは知らないけれど、鉢合わせないことを祈りつつ駅構内を駆けていく。
 私には元いた地上へ逃げるより、地下の様子を見に行く選択肢しかなかった。機能していない電光掲示板の下を抜け、階段を駆け下りる。
 そうして降り立ったB5F、副都心線ホーム。そこには、まるで魂を抜かれたように立ち尽くす人々がいた。
 私はその異様な雰囲気に息を呑む。大丈夫ですか、と目の前の人に声をかけようと口を開いた瞬間、静けさの中に男の声が響いた。

「──まさか君が来るとはね」

 咄嗟に声のした方へ視線を向ける。胡座をかき悠々と座り込んでいた声の主は、ゆっくりと立ち上がった。
 袈裟を纏った長髪の僧侶と思しき男。その姿には見覚えがあった。

「貴方、前に渋谷で……」

 東京にやって来たばかりの頃、すれ違ったことがある。少し前の出来事だが、この特徴的な風貌は記憶に残りやすい。
 男は虚を衝かれたようにキョトンとした後、何かを思い出したのか鷹揚に頷きながら、目を細め妖しく笑った。

「ああ、そうか。そうだった。君は忘れているんだったね」
「……どういうことですか」
「私が忘れさせたんだ」

 その彼の発言に、私は訝しげに眉顰める。
 
「君の意図でやってきたわけじゃないのだろうけど、これは縛りを破ったことになるのかな。五条悟の封印に関与したわけじゃないから、一線は超えていないのか」
「縛り……?」
「縛りを破ったものにはどんな罰が科されるか分からない。つまり、今の君はいつどんな災いが降りかかってもおかしくない可能性がある。いつ爆発するか分からない時限爆弾を抱えているようなものだ」

 一歩、距離を詰めた男に後退りするも、背後は気を失っている人々に阻まれている。私は彼の視線に捕まったまま立ち尽くした。

「まぁ、その時限爆弾が作動しているかは神のみぞ知るってね」

 独り言のようにペラペラと言葉を紡いだ男は、そう言って何も分からずにいる無知な私を嘲笑った。

「何も分からないって顔をしているね。それでいいんだよ」

 確かにそうかもしれない。だとしても、大した会話もしていない相手に馬鹿にされる謂れはない。
 私は鋭く視線を研ぎ、口元に笑みを浮かべたままの男を見据える。

「そんなことより、五条さんの封印ってどういうことですか」
「ああ、それも知らないんだね。もう呪術師側には伝わっていると思っていたけれど……そうか、君を連れてきたのはあの双子か。それなら無理もない」

 肩を竦めた男はそのまま横に避け、地べたを指差した。

「五条悟だよ」

 コンクリートにめり込んだ正方形の物体。側面についている無数の目玉が一斉に私を見た。

「これが……?」

 訳も分からず拾い上げようとしゃがみ込んだ。瞬間、脇腹に鈍い衝撃が走る。

「おっと。触ってもらっちゃ困る」

 見事に蹴り飛ばされた私は、ホームドアに背中を打ち付けた。
 膝をついたまま何度も咳き込む私を、男は遥か高みから見下ろしている。

「君の力は何が起こるか分からない。もしここで封印を解かれでもしたら、今までの苦労が水の泡だ」
「……やっぱり、貴方は敵なんですね」
「敵ならどうする? 五条悟奪還のために闘うかい? 私も獄門疆を動かせるまでの間暇なんだ。一戦交えてあげてもいいよ」

 余裕に満ちた口ぶりの彼に、私は地べたに這いつくばったまま首を横に振った。

「そんな無謀なことできません」
「へぇ、それならどうするつもりかな? 君に残された選択肢は逃げる∴ネ外にない」

 力の差は歴然だ。挑んでも勝てるわけがない。しかし、逃げるよりも最善の選択があった。
 会話ができるのならば、時間稼ぎくらいならできる。誰かがここに辿り着くまで、引き留めればいい。
 私はゆらりと立ち上がりながら、目の前の相手に問いかけた。

「……何と引き換えになら、五条さんを返してくれますか?」
「そうだねぇ」

 意外にも真剣な面持ちで彼は顎に手をやる。首を捻りながら思考し、そして良い笑顔で答えた。

「君の命、というのはどうだろう?」
「え。そんなものでいいんですか?」

 拍子抜けだ。もっと利のあるものを言われると思っていた。目を丸くする私を見た彼は、私へ呆れた視線を受けた。

「五条悟のためなら命なんか惜しくないって? まさか宿儺だけじゃなく、コレにまで入れ込んでいたなんてね」
「一緒にしないでください。五条さんは宿儺さまとは違います」

 そう睨みつけると、男は「そんなに怒らなくても」と戯けて見せる。
 私はそれを無視して、彼の向こう側にある五条さんが封印されているという立方体の呪物へ視線を向けた。

「……あの人はみんなに必要とされている人で、私も同じように思うから」

 五条さんが唯一無二の存在だということは、呪術界というものに少し触れただけの私でも十分知っている。私のような個人的に恩がある人間も多いだろう。だからこそ私の周りにいる人たちは皆、彼を助けたいと思うはずだ。

「だから命と引き換えてもいいって? 自己犠牲が美しいと思っているなら平和ボケもいいところだ。まったく、先が思いやられるね」
「そうだったら良かったんでしょうけど、ただ単に身勝手な理由です」

 自己犠牲なんて目的ではなく手段に決まっている。ただ単にそうなってしまうだけであって、進んで命を差し出すなんて宿儺さま以外にはあり得ない。
 理想は私の生死の理由も全て宿儺さまであって欲しい。けれど、宿儺さまが見ている私の人としての生き様を全うするのであるならば、するべきことは決まっている。

「少しでも恩を返してから死にたいんです。五条さんを奪還できたらみんなの役に立てるかもしれない。ただの自己満ですけど、自分の納得できる死に方をしたい」
「確かに自己満。身勝手だ。死に方を選べない人間なんてごまんといるのに」

 彼は乾いた視線で周囲を見渡した。意識を失った人間の中で、横たわった肉塊。血に濡れ生き絶えた、死に方を選べなかった者たちが、静かに私を否定していた。

「……私もそう思います」

 納得のできる最期を迎えたいなんて贅沢なのかもしれない。……それでも、足掻くくらいいいじゃないか。
 誰のものか分からない血痕が、赤黒くこびりついた足元に目を落とす。私は唇を噛み、スカートの裾を握りしめた。

「まぁ安心していいよ。君が死ぬのは今じゃない」

 ゆったりと勿体ぶるような動作で、地面にめり込んでいた立方体の箱を拾い上げた彼は、それを私に見せつけるように目の前に掲げた。

「五条悟の封印は成功した。宿儺の復活は代案に過ぎなかったけど、こちらに火の粉が降りかかってもらっても困る。ここで君を殺すのは得策ではない」
「返してくれる気もないのに、長話なんて悪趣味ですね」
「責めるなんて酷いじゃないか。君だって薄々勘づいていたくせに。だが、おかげでいい暇つぶしになったよ」

 私の思惑など知っていて尚、大したことではないと一蹴するような口ぶりだった。
 五条さんが封印されたそれを、袈裟の袖に仕舞い込んだ彼に、私は身を切る思いで頷くことしかできなかった。

「……そうですね。私と五条さんじゃ命の価値が釣り合わない」
「よく分かってるじゃないか」

 背を向け線路に降りた彼の足音に、凹んだ地面を見つめていた私は顔を上げた。

「待って、どこに行くの」
「私にはまだやらなければならないことがある」

 足止めご苦労様、と薄ら笑い混じりに言った彼は、私の前に低級呪霊を複数放った。
 行く手を阻まれた私は、彼が明治神宮方向へ去って行くのを見送ることしかできない。低級と言えど、このまま放置して彼を追ってしまえば、一般非術師が無抵抗のまま犠牲になってしまう。
 私は辺りを見渡し、生き絶えた駅員の元に歩み寄る。最期の最期まで乗客のために戦い続けたのだろう。握っていた刺股を拾い上げた。



      ◇◇◇



 どのくらい時間が経っただろうか。最後の一体を祓った時の衝撃で折れてしまった刺股から手を離す。
 立ったまま気絶している人たちに気を払わなければならないこともあり、全て祓いきるまでだいぶ時間がかかってしまった。
 とにかく今は誰かと合流しなければ。まだ七海班や日下部班は最初に配置されていた場所にいるだろうか。もしいなくても地上に出れば誰かしらいるだろう。硝子さんと合流できれば御の字。補助監督も助けられる。
 私は乗れと言わんばかりに扉が開いたエレベーターに乗り込む。あれだけの戦闘があった中でまだ動くのか。確かに照明はついていたし、電気が止まっていないのなら動くか、とぼんやりした頭で考えながら、一つ上の階、B4Fのボタンを押した。
 ゴウン、と嫌な音を立てて動き出し、すぐに扉が開いた。

「え────」

 目の前に広がっていた光景に息を呑む。

「宿儺さま……?」
「ああ、ようやく終わったか」

 血飛沫と二つの亡骸の前に立つ宿儺さまが、私に笑いかけた。









永遠に白線