渋谷事変 肆







 は、と言葉にならない掠れた息が漏れた。
 身体を折ったまま地に臥す頭のない四肢と、原型すら留めていない肉塊は、間違いなく数刻前まで私と言葉を交わしていた美々子と菜々子のものだ。
 私は一歩、二歩と覚束ない足取りで、冷たいコンクリートの上に広がる血溜まりの元に寄る。
 冷えた身体に駆け巡る熱。徐々にぼやけていく視界が晴れたと思った時には、鮮血の上に目の端から溢れた涙が落ちていた。

「何故泣く。情でも移ったか」

 冷酷さを孕んだ宿儺さまの言葉に、私は首を横に振る。
 この感情を言葉にしてしまえば、私がどれだけ醜く浅ましいかが白日の下に晒されてしまう。己がどれだけ最低で身勝手な人間か、目を逸らしたくなるのに、ありありと突きつけられ自覚せざるを得ない。
 それでも私にはその感情を、今宿儺さまの目の前で白状しない術はない。

「……ずるい」

 震える声で吐き出した私に、宿儺さまは目を丸くした。

「は……?」

 虚をつかれたままポカンと口を開けた宿儺さまと、蚊帳の外で空気に徹していた呪霊などお構いなしに、私は浅ましい本心を吐露する。

「あんなに、大切な人のために必死になっていた人たちだったのに。協力はできないけど、気持ちは痛いほど分かると思ったのに……私、今すごく羨ましくて、羨ましくて、どうにかなってしまいそうなんです」

 ぼろぼろと落ちていく涙。
 拭っても拭っても込み上げてくるそれを、堪えようとすると言葉に詰まる。

「私と、同じ歳くらいの、女の子が、私より先に、宿儺さまの手によって死ぬなんて……ずるい、羨ましいって……こんなこと思うなんて、最低すぎる」

 身を焦がす嫉妬の炎を抑えるように自身を掻き抱く。それでも湧き上がるこの感情は、人の死を目の前にして抱いていいものじゃない。そう、分かっているのに、簡単に宥められるものではなかった。

「狂っとるな……」

 ポツリと火山頭の呪霊が呟く。その横で宿儺さまは肩を揺らし、盛大に声を上げて笑った。

「クク、まさかそのようなことで」

 弧を描く口元に手をやりながら、笑いを噛み殺す。
 身を竦ませた私は、彼の表情を直視することができずに顔を伏せた。また涙が込み上げてくる。震える唇を噛む。

「あぁ、泣くな泣くな。馬鹿にしたわけではない」

 嘲笑でないのなら、何故宿儺さまが笑ったのか分からない。
 コツリ、コツリ、と足音が近づき、宿儺さまの気配がすぐ傍に寄る。熱くなる目元をひたすらに拭う私は、するりと腰に腕が回ったことに驚いて顔を上げる。そして抱き寄せられるままに、彼の胸元に顔を埋めた。

「今さら殺生を目の当たりにして感傷的になったのか思えば、己と同じ年頃の娘が手にかけられたことへの嫉みとはな。悋気など随分愛らしいことをしてくれる」

 頭上から振る宿儺さまの声に安心感が満ちる。それでもなかなか引っ込みがつかない涙に、ぐずぐずと胸元も濡らし鼻を啜っていると、彼は上機嫌に言い継いだ。

「醜い感情だと蔑む必要はない。以前のように一人で思いつめ塞ぎ込むより余程良い」

 思い詰めがちな部分があるのは自覚してる。少し前に私は宿儺さまにとって何なのかと思い詰めてしまった例もある。ここ最近は指を持ち出した少女たちのことで頭がいっぱいだった。彼女たちが私と同じだったらどうしようと宿儺さまに直接問うのも怖かった。
 信仰心は全く揺らぎはしなかったのに、愛を一片の迷いもなく信じるのは、こんなにも容易く不安に思ってしまう。
 己の弱さが嫌になる。……宿儺さまはいつだって揺らぎはしないのに。
 そっと頬に手が触れた。顔を上げろと促されているようで、私は恐る恐る視線を上げ、宿儺さまを見上げた。

「安心しろ。我先に殺されたいなどと泣くのは、後にも先にもお前だけだ」

 いちいち泣いていては身が持たん、と少々呆れた口調で零す彼の瞳が甘やかに細められる。

「だが、それほど愛しているのだろう?」
「……はい。間違いなく、確かに、愛しています」

 私は震える唇で、確固たる言葉を音にする。
 微かに弧を描く口元。宿儺さまは私にしか分からない微笑みのまま、輪郭をなぞり眼差しを注ぐ。

「ならば勝手に死のうとするな」

 挑発的で試すような眼差しでいて、艶やかな視線で私を見定める。
 まだ乾き切らない涙が残る目尻を、指の腹で撫でた宿儺さまは、抱擁を解いて私の背を押した。

「行け。帳の外に出るのなら、来た方向とは逆へ向かえ」

 はい、と掠れた声が漏れ出た。
 振り返らず駆け出す私の背中には、宿儺さまの視線が刺さっている。見ずとも分かるその愛と言いようのない眼差しの温度を感じながら、私は宿儺さまに拭われた目元に触れた。
 ──与えられた愛だけを愛せばいい。信じようと変に意識をするから迷いが生じる。私がどんなに疑心暗鬼になろうとも、宿儺さまは私の愛を見てくれている。その事実だけで、私は何にも変え難いものを享受して生きているのだと前を向ける。
 だから、今生きてできることをする。死に方を考えるのは後からでも遅くはない。

 エスカレーターを駆け上がり、宮益坂東改札を通り抜ける。長い地下通路の先まで辿り、地上に出ると帳の外に出ていた。キョロキョロと辺りを見回すと、そこが一番初めに伏黒くんと別れた場所、七海班の待機地点だと気がつく。

「伏黒くん! 七海さん!」

 見覚えのある歩道橋を見上げ、声を張るが返答はない。やはり突入命令が出たのだろう。
 帳の中では轟音が鳴り響いている。この中に再び入り、元いた場所に戻る手もあるが、戦況が分からない以上、帳の外を迂回して戻った方が確実に辿り着ける。それに宿儺さまが帳外のことを口にしたということは、中にいない方がいいのだろう。
 私は明治通りから逸れて小道に入った。最初に地図と位置関係を覚えておいてよかったと安堵しつつ、頭の中に入れておくよう勧めてくれた補助監督に感謝する。なんとしてでも彼女を連れて硝子さんの元へ向かわなければ。
 そう気合を入れ直し、人気のない道を駆け出そうとした瞬間、爆風が吹き抜けた。腕で目元を覆い、顔を庇う。何が起きているのかは分からない。しかし、明らかに今から私が向かおうとしている方向が赤く燃えている。

「宿儺さま……」

 十中八九、あの火山頭の呪霊との戦闘によるものに違いない。私を遠ざけるために来た方向とは逆へ向かえと言ったのかと腑に落ちる。
 彼の心遣いを無碍にだけはしないように、巻き込まれないよう気を払い、補助監督の元に急いだ。









永遠に白線