雑踏に落ちる 壱

 故郷を飛び出して早ふた月が過ぎ去った。世間は新生活の季節に浮き足立っていたようだが、それも次第に落ち着きを取り戻している。
 街角で女子高生とすれ違う。未だ糊の利いた新品のブレザーを身につけているところを見ると、同い年なのだろうか。私も事件など何もなく、あのまま受験を受け、中学を卒業していたら、彼女たちのように新しい制服を身に纏って高校へ入学していただろう。
 雑踏を避けた人通りの少ない脇道。よく分からないセンスで塗りたくられたカラフルな落書きが施された壁に寄りかかっていた私は、彼女たちを目で追い、傍の喫煙所より漏れ出た副流煙に肺を汚しながら、切り捨てた一番身近な未来だったものに想いを馳せた。
「普通≠ェ羨ましいか?」
 私の心を見透かした宿儺さまがつまらなそうに問う。
「いいえ、そんなことではないんです。ただ、人生何があるか分からないなって……」
「ハッ、たった十年其処らしか生きていない小娘が知った口を」
「宿儺さまから見たらそうなのかもしれないですけど、私が今こうして渋谷にいること自体、元々の人生では考えられなかったことなんですよ」
 頭の上を通る電車の音が私の言葉を攫って行く。それもまた大型ディスプレイから流れる広告の反響の中に溶けていった。
 あの田舎町からこんな大都会までやってくるまで名古屋や熱海、鎌倉などいろんな街を転々としてきた。時折、話の通じる呪霊に情報を聞き出したり、力のない呪霊に纏わりつかれたら容赦なく殺したりと、なかなかハードな日々ではあったけれど予想より順調に事が進んでいる、のだが……
「そろそろ仕事を探そうと思うんです」
 ずっと心の中にある不安。それは金銭面について。両親から子供が持つには多すぎる金額を渡されているが、何も感じず浪費するほど人の心は捨てていない。
「金が尽きたか」
「いえ、まだ余裕はあるんですけどちゃんとした収入があったほうが今後のためかと」
 通常、高校生からは学校の許可が降りればバイトができると聞く。学校には通っていないが、口座と身分証は持っているので後は履歴書を誤魔化すか、履歴書不要の働き先を見つけるだけ。これまでも日雇いのシール貼りや梱包のバイトはしてきたので、意外と採用基準が緩いということは分かっていた。
 もちろん、今回も同じように日雇いでも良いのだけれど短期でガッツリ働いた方が収入はいいし、精神的にも良い気がする。タダで親から与えられた金が少なくなって行く度、私の僅かに残った良心が痛むストレスからは解放されそうだ。
「フム。それについてだが、少し状況が変わってな────」
 そう宿儺さまが言いかけたところで会話が遮られた。
「お姉さん、今暇ですか?」
 ……ああ、またか。
 ラフにスーツを着こなした男が黒いクラッチバックを小脇にこちらへやって来た。ヘラヘラと笑顔を浮かべているものの、目は品定めするかのように不快に光っている。
 もちろん暇じゃない。この男が宿儺さまとの会話に割って入ってきただけだ。相手からは無線通信機能の付いたイヤホンなど使って手放しで通話をしている奴か、ただ単に独り言を言っている変な奴かにしか見えていないはずだけれど、命知らずもいいところだ。
 都会に近づけば近づくほど人は他人に無関心になっていった。未成年で学校にも通わず街をふらつく私は、他者から見たら不良少女に違いない。これまで地方の都市に滞在していた時は「学校はどうしたの?」や「家は? ご両親は?」と声をかけられることが多かったけれど、こちらに来てからそんな事はほとんど無くなった。ただ、このように怪しい人に声をかけられる事は多くなったが。
 私は無視を決め込んだ。都会に来てからこういうことは多くなったけれど、それは決して私が千年に一度の美少女で芸能事務所にスカウトしたい≠ニか、そう言うことではない。「簡単に金が稼げる」などという甘い話に乗りそうな女だと、無知な田舎者を舐めてかかっているのだ。
「学生さんですか? バイトは何してるんですか? もしよければ短時間で稼げるバイト紹介しますよ。顔の分からないようなアングルでちょっと撮らせて貰うだけの簡単な仕事なんですけど」
 初めから怪しいが、言っていることはもっと怪し過ぎる。
 このマシンガントークの内容について行く人は居るんだろうか。居るからこんな手口で近づいて来るんだろうな。そもそも、そんな話に簡単に引っかかりそうだと思われていること自体が癪に触る。
 いつもならこんな状況の時は、大抵相手は青い顔をして逃げていった。恐らく宿儺さまが何かしてくれているのだろう、というのは分かっていたけど具体的に何をしたのか聞くのは何となく躊躇われた。迷惑をかけてきた相手に興味がなかったというのも本音だが、触らぬ神に祟りなし≠ネどと意味深なことわざが脳裏をよぎったせいでもある。
「……はぁ、ウザ」
 そう言ったのはもちろん私ではない。宿儺さまだ。
 イライラを隠そうとしないその一言の後、目の前の男が吹っ飛んだ。あろうことか、後ろにあった店の軒先に品出ししていた棚にぶつかり大きな音を立てた。
 人々と足を止め男の様子を見た後、お前が吹っ飛ばしたのかと問うようにギョッと私を見る。切実にやめてほしい。ギョッとしたいのは私の方だ。
 今の私が厄介ごとを起こせば、確実に警察に家のことを聞かれるので、大事になる前に足早にその場を後にした。人の波をかき分けながら焦った私は宿儺さまに問いかける。
「す、宿儺さま! いったい何をしたんです⁉」
「フン、助けてやったというのに随分な物言いだな」
「いえ、助けていただいてとってもありがたいのですが、人目に留まることはいかがなものかと……」
「少しばかり呪力を当てただけだ。大したことではないだろう」
「……今まではそんな事してこなかったじゃないですか」
「これまでの奴等は呪力を少し解放しただけで身を引いていたから見逃してやっていたが、さっきの男はあまりにしつこいのでな。お前も苛立っていただろう、殺さなかっただけでもありがたいと思え」
 まさかいつもは抑えている呪力を放っただけで追い払っていたなんて知らなかった。宿儺さまが本気を出せばいつでも人を殺せるということを──今、私が行動を共にしているのは人智の及ばぬ存在なのだと、改めて肝に銘じておかなければ。トラブルに巻き込まれたら確実に私が捕まる。
 宿儺さまもそこを分かっているから手加減をしてくれているのだろうけど、念には念を入れ気を付けておく分には損はない。当然ながら「何が不満なのだ」と悪びれる様子などなく、先程の男へ毒を吐く宿儺さまに乾いた笑いを零す。
 それでも、困った時に助けてくれる神さまが傍にいることは何と心強いことか。宿儺さまの傍は居心地がいい。恩返しのつもりが更なる恩を受けているようで気が引ける部分もあるけれど、端から一生をかけて報いる腹づもりでいた。
「とんでもございません。感謝しておりますよ、宿儺さま」
 そう、様々な意味を込めて礼を述べると、彼は鼻を鳴らした。
「お前のことは存外気に入っている」
「ふふ、光栄です」
 あんな凄惨な事件が私たちを結びつけたというのに、この逃避行にも似た日々は穏やかでとても幸せなものに思えたのだった。

 私は渋谷駅≠ニ大きく書かれた高架下を走り抜けた。明治通りと宮益坂が交わる開けた交差点の前でやっと足を止め、息を整える。そうしてビルの合間に覗く文句なしの晴天を見上げた。
 梅雨はまだだというのに、何だか夏の香りがした。
 人の群れに紛れ赤信号が変わるのを待つ。ふと、車が行き交う先、向かい側の歩道に視線を向けた。ゆっくりと階段を上がって出てきた袈裟の男が目に留まる。地下鉄の出口なのだろうか、B4と書かれたその場所から出てきた男とカチリ、視線が交わったような気がした。
 珍しい格好だったのもあり、つい見つめてしまったこちらが悪いのだけど、怪しげな鋭い眼光を向けられるのは些か居心地が悪い。
 信号が青に変わる。人々はまばらな足並みで横断歩道を渡っていく。私は正面からやって来る袈裟の男と目が合わぬよう視線を逸らしながら、彼の左側をスルリとすり抜けるようにして通り過ぎた。
 ────はずだったのに。何故か、己の右手を掴まれていた。
 無骨で、大きくて、人肌のはずなのに底冷えするような冷たさを纏った手。
 足を止めざるを得なかった私はゴクリ、喉を鳴らして視線を手から男の顔に写す。すると、彼はその体温とは裏腹に、眉を下げ切長の瞳をさらに細めて微笑んだ。
「君、持っているね?」
 威圧のない柔和な声だというのに、全身に悪寒が走った。触れ合った男の何もかもが・・・・・チグハグで噛み合っていない。人間でも呪霊でもない、得体の知れない物のように思えて薄気味悪い。
 そして何を℃揩チているか、敢えて口にしない様は全てに確信が満ち溢れていた。
「面倒な奴に絡まれたな」
 宿儺さまはため息混じりに言った後、少し声を硬くして「此奴は呪術を使えるぞ」と警戒を促した。
「……何をでしょう」
 私は芝居を打って袈裟の男を見つめ返した。例え見透かされているとしても、私が首を縦に振ることはない。
「嫌だなあ、分かってるくせに」
 男は困ったように首を傾げる。サラリ、崩れた前髪が額の傷を撫で瞳に影を差した。光を失った瞳には、先程と打って変わって嫌悪を孕んでいるように見えた。それは確実に初対面の相手に向けるものではない。
 私が一体何をしたと言うのだろうか。
「まさか、非術師が特級呪物両面宿儺の指≠持っているなんてね。君の手には余るだろうに。────渡してくれるかい?」
 青の点滅が視界の端で逃げろと警告を鳴らしている。
 周りの人間たちが小走りで通り過ぎて行くにも関わらず、私たちは横断歩道の真ん中で立ち尽くす。まるで両者の間に流れる時間だけ止まっているかの如く、それは永遠より長い一瞬だった。
「どなたか存じ上げませんが、」
 小さく吸った息を吐きながら、毅然とした態度を崩さず言葉を紡ぐ。
「貴方、私のこと嫌いでしょう?」
 男の細められていた瞳が僅かに開かれた。赤に変わった信号と、左折してきた自動車にクラクションで急かされた瞬間、その手を振り払って走り出す。
 隙を突いた、と言えば聞こえはいいが、確実にあの男によって逃がされた≠セけだった。
「おや、よく分かったね。察しが良すぎるというのも憂き目を見ることがあるからね。……気をつけた方がいい」
 どんな顔をしてその台詞を吐いたのか知りたくもない。けたたましい警笛に掻き消されることなく耳に届いたその言葉を背に、私は振り向くことなくただ走り続けた。
 学生の時、毎日登下校で山道を往復していたお陰で体力はそれなりにある。体育祭では色別リレーの選手に選ばれるくらいには走ることは得意だったし、好きでもあった。しかしそうは言っても、こんな命がけで走りたくはない。
 はち切れそうな心臓と、揺さぶられる脇腹の悲鳴を無視して必死に駆け抜けた。アスファルトを蹴り付けて、逃げて、逃げて、ようやく足を止めた時にはすっかり見覚えのない場所に足を踏み入れていた。
「ここどこ……」
 荒い息を整えながら手掛かりになりそうな看板や標識を探す。
 都会というのは何故こうも迷いやすいのだろうか。しかし、当てもなく歩いても必ず何処かの駅に行き着くのが都会の利点だ。
 とにかく前に進もうと不安げに左右を見渡しながら歩を進める。
「なんだ、迷ったのか」
「はい、完全に……」
 宿儺さまに独り言を拾われたので素直に肯定し、ガクリと肩を落とす。しばらく彷徨えば六本木≠ニ書かれた道案内図にたどり着いたので自分の所在地と駅を確認して胸を撫で下ろした。
「とりあえず、しばらくは渋谷に近寄らないようにした方がいいですよね」
 渋谷から離れた場所で身を寄せられそうな場所を探そうと、バッグの中から先日、本屋で買った地図を広げる。普段はスマホを持っていなくても誰に連絡するわけでもないので不便はしないが、調べ物や位置情報の取得、電車の乗換検索が簡単にできるという点では喉から手が出るほど欲しい。買おうと思えば買えるのだが、月々の支払いを含めて考えるとこの先不安なので先送りしていた。
 何かあればネットカフェに駆け込めば解決するけれど、この際安い中古の端末でも買ってフリーWi-Fiに繋げば何とかなりそうだな、と今後について思索する。今夜は近くのネットカフェかカプセルホテルにでも泊まってしまおうかと思ったが、ここは六本木。誰もがイメージする通りの大人の街だ。私のような立場の人間が宿探し出来る場所じゃない。
 とにかく駅へ向かおうと歩き出すと、ポツリ宿儺さまが呟く。
「……なるほど。丁度良い」
「何がです?」
 先程の話の流れに繋がっていたのだろうか。
 そう首を傾げて問いかけるけれど、答えは返ってこなかった。


永遠に白線