
いくつかある入口の一つ。鳥居が連なるその場所で、赤く染め上げられた地面に横たわる影。ようやくそれが人だと認識した瞬間、ドッと嫌な汗が全身に滲んだ。
血の赤と、制服の黒。そして、地面を撫でるように吹き抜けた風に揺れた白。目に焼きついた色彩が何であるかを一つ一つ咀嚼するようにして脳内に言葉を浮かべる。
畏怖の対象であるその白髪の持ち主を、私は一人しか知らない。
「五条、先輩……?」
肉を引き裂かれ、首の皮一枚で繋がっている頭と胴体の前に膝をついた。
──五条悟が死んだ。あの、五条悟が。
この世に生まれ落ちた瞬間から世界を変えた人。そして、私の存在理由だった唯一の目的。それが今、私の目の前で、ただの肉塊に成り果てている。
私は、ようやく五条悟から解放されたのか。彼が死んだことにより、私は家の狂った目的から解き放たれたんだ。
腕を持ち上げる。脈を取るべく、ダラリと垂れ下がった手首に指を伸ばす中、私は自分の中に芽生えた自由¢ホし、疑念が駆け巡る。
──本当に、そうだろうか? 彼がこの世からいなくなったとしても、自分の中に刷り込まれた五条悟という概念≠ェ消えることはない。例え、家の目的からは解放されても、私は私という存在を許し、認め、愛することが本当に出来るのだろうか。
普通の人間が当たり前に育んでいる自尊心を、今更己の中で構築することが出来るとは到底思えなかった。
彼が生きていても、死んでいても、私が救われる日など来ないのならば、どうか生きていて欲しい。彼が死ぬより、生きていることで報われる人が大勢いるはずだ。それほどまでに彼がこの世に存在する価値は大きいのだから。
震える指先で彼の手首へ触れた。微かに、しかし確かに、律動している。あたたかい。いきている。
目に映る惨状では、確実に死体であった彼は生≠諦めていなかった。私の中での五条悟≠ニしてではなく、私はただ一つの生命としての強さを実感した。
私は、血に濡れた彼の手を握りしめた。何故だか分からないけれど、猛烈にその命の輝きを手放したくはなかった。
「ハハ、お前か」
陽の光を細かく反射させる、透き通るような色素の薄いまつ毛が押し上げられ、目の前でジワジワと傷が塞がっていく様子を息を呑んで見つめていた私へ投げかけられたのは、乾いた笑い声だった。
「ごじょう、先輩……大丈夫、ですか」
「何、心配してくれんの? 俺に嫌われたいんじゃねぇのかよ」
予想外の言葉に、私は状況も忘れて目を見開いた。
「……なんで」
「あんなとこでベラベラ喋ってるからだっつーの。聞きたくなくても聞こえただけ」
七海との会話を聞かれていたなんて、考えてもいなかった。知られたくなかった胸の内まで彼に知られてしまっていることに、動揺で視線を彷徨わせた。
そんな私を拒絶するように、未だに握りしめていた手を、彼は振り払った。
「本当は俺のこと憎いくせに、心配する素振りなんか演じてんじゃねーよ」
憎い、なんて思ったことはなかった。それに近いものは抱えていたけれど、彼自身が悪い訳ではないと、ちゃんと理解していたから。それに、これは演技ではない。本当に、心の底から彼の手を取りたいと思ったのだ。
そう弁解しようにも、瞳孔を開き昂揚している彼に遮られてしまう。
「勝手に嫌ってろよ。お前なんか初めから勝手に生まれて、勝手に親の謀略に飲まれて、勝手に自分の価値を落としてるだけなんだから今更だろ? だから、俺も勝手にお前のことを嫌ってやるよ」
爛々とした瞳に映し出された私は、彼に肩を掴まれる。手加減なしのその力に顔を歪めると、勢いよく起き上がった彼の反動で血の海に叩きつけられた。
反転した世界。真っ青な空の中で赤く染まった彼がよく映えた。いつだって美しい彼は「良かったなぁ」と口元だけに笑みを携えた。
「うじうじいじけては孤独に酔って同情でも買おうとしてんの? それで悲劇のヒロイン気取ろうってか? そんなことしてる暇あんなら役立たずは役立たずなりに這いつくばって死に物狂いで努力でもしろよ。それができないなら少しは頭使って生きろ。本当はできるくせに何もできないみたいな顔すんなよ。ウザいんだよお前」
止まらない彼の言葉に同意出来ることもあったし、否定したいところもあった。それをしなかったのは、彼が「皐月」と、忘れていると思っていた私の名を呼んだから。
「安心しな。お前のこと、心底嫌いだよ」
吐き捨てられた言葉に、心が震えた。それを噛み締めるようにして、目を伏せる。
「チッ、めんどくさ。泣いてんじゃ、ねー……」
私は安堵した。彼に嫌われたいのは家のこともあるけれど、何より私も私のことが嫌いだったから。初めて他人と意見が合ったことが嬉しかった。そして、初めて彼を──五条悟≠好意的に見ることができた。
伏せていた目を瞬いて、彼を見上げた。空の色によく似た彼の瞳が私を見下ろしていた。
「ハ……」
小さく零れ落ちた彼の吐息。私は、目の前に広がる光景に閃いた。
──ああ、空の色に見覚えがあると思っていたのは、彼の瞳の青だったのか。
私の中にある全てが晴れやかだった。何もかもがどうでもよくて、それが何より心地よかった。
「意味わかんねぇ」
彼はそう一言告げては私の肩から手を離し、フラリと立ち上がった。遠ざかっていく彼の足音に、私は静かに目を閉じた。
ぬくもりを保っていた彼の血液は、外気に晒されひんやりとしている。すっかり染まってしまった赤い手のひらを空に掲げてみる。太陽に透かしてみても、子供の頃に歌った歌のように己の血潮など見える訳もなかった。ただただ鮮烈に焼きついた青と赤の対比が目の奥を刺した。
その光景をぼんやりと楽しんでいると急に視界に影が差し、伸ばしていた手を掴まれ引っ張り起こされる。
「何を、してるんですか」
「……空を見てただけだよ」
いつの間にか目の前に佇んでいた七海に、少し間を空けて答える。七海の後ろには灰原が両手いっぱいに紙袋をぶら下げて立っていた。
二人とも怪我をしている様子ではなかったことに、よかったと胸を撫で下ろす。
「おかえり」
彼らに何の迷い間も無くそう言えたのは、今の私は孤独ではなかったから。良くも悪くも私にとって唯一の存在が、私を嫌いだと私の価値観に同意したことで、もう独りではないと思えたおかげだった。
結果的に彼に救われてしまった。私が救われる日など来ないと、思っていた矢先の出来事だったばかりに少し可笑しくなった。
私は込み上げる感情を、目の前で立ち尽くす七海と灰原に向けるものに変えて、笑顔を咲かせる。
終わりかけの春。私はその季節に私の一部を置いて、初夏へと歩き出した。