他人が恋に落ちる瞬間。その光景を目にしたのは初めてだったというのに、七海は瞬時に理解してしまった。決して分かりたくもなかったのに。その明敏な頭脳を持ってしまったが為に理解せざるを得なかった。
 血に塗れた男に押し倒された少女は、紛れもなく男の存在に生かされて、狂わさせていた。多大な影響力を宿しているその男、五条悟の髪は風に弄ばれ気怠げに揺れている。赤く染まった前髪の間から覗く彼の表情が抜け落ちた後、コトリと確かに心が傾く音が聞こえてしまったのだ。
 皐月が彼に向けたものが何であったかは、七海の居た位置からは見えなかった。けれど、それが確実に碌でもないものであることだけは察しがついた。
 痛々しいまでに己を嫌悪し、自尊心が欠如している彼女の考えを汲み取れたことなど、これまで一度もなかった。常人である七海にしてみれば、彼女のロジックはいつも予想の斜め上なのである。それは五条にとっても同様なのだろう。期待した反応を裏切られ、見事に想定外の場所を刺されたのだ。
 七海は瞳に空虚を抱いた五条がその場を去るのを、目で追おうともしなかった。ただ、その場に残された彼女がどんな表情しているのか、その疑問が頭の中を支配する中、七海は己が間違いなく彼女のことを好いているのだと、確信を持たざるを得なかった。
 己の境遇に自己嫌悪を繰り返す彼女に、大丈夫だと声をかけ寄り添って、貴女は愛されてもいいのだと抱えた胸の内を告げ、自身の愛で包めたらどんなに楽だったか。彼女はそれを良しとしない。七海が抱いてしまったのは、自分自身が大嫌いな彼女を否定する感情だった。
 七海の中で、共に過ごした時間の端々に刺さった彼女の言動が、行動が、ジワジワと傷を広げ、悲痛な愛が身を抉り、治癒しないまま壊死していく。
 それでいい。彼女を大切にしたいと思うこの気持ちは、彼女を苦しめる。優しくすることで同情と取られるのなら……嫌われることを彼女が望むなら、このまま暖かな気持ちだけ閉じ込めてしまった方がいい。
 それでも、七海には空を掴むように伸ばされた彼女の手を掴む以外に選択肢はなかった。手を取ってこちらに引き戻さなければ、どこか遠い場所へ行ってしまいそうなほど頼りなかったから。
 一見した彼女の様子は、酷いものだった。因縁と呼んでも差し支えのない、切っても切り離せない存在である五条に無理やり血の池へ押し倒されたまま、彼が去った後も七海に引っ張り上げられるまで、起きあがろうともしなかった。彼女の服を肌を汚すその様子は、近くで見るとより一層、目を背けたくなるような暴力的な何かを孕んでいる。その中で異質だったのは彼女の表情だった。暴言を吐かれたのだから、もっと辛そうな顔をすれば良いものを、憑き物が落ちたような穏やかな表情に、七海は絶句した。そして、すぐに先ほどの五条の様子が腑に落ちた。
 今すぐこの腕で抱き留めて守りたいとも、時間をかけてその細い首を己の手で締め上げたいとも思わせる彼女もまた、他人を狂わせる才能を持っていた。庇護欲を掻き立てられ、加虐心を煽られたら最後、それ・・は既に始まっているのだ。





「七海?」

 己の名を呼ぶその声に、七海は火照った瞼を押し上げる。心配そうに覗き込む皐月が一番に視界に飛び込んできたことにより、彼は目を閉じ、意を決してからまた瞼を開けた。

「大丈夫? 熱中症?」
「……いや、少し考え事を」

 まさか、あの日のことを考えていたなんて言えるわけもなく、七海は手元の冷えたスポーツ飲料のペットボトル捻り開け、逃げるように口を付けた。
 あれから──あの星漿体の事件からは、二ヶ月ほど時が流れていた。七海は、自分の中で火蓋が切られた、薄寒くも迸るほど熱い感情を持て余していた。どうすることも出来ないまま、ただ何事も無かったような顔をして生きている彼女の斜め後ろから、以前より朗らかに笑うその横顔を、筆舌に尽くし難い想いで見つめていた。そんな彼女の表情を引き出しているのが、お世辞にも褒められたものではない、あの五条の行為からくるものだと思えば思うほど、余計に痛ましく目を背けてしまいたかった。けれど七海は、それをしなかった。嫉妬という己を狂わせる感情に屈することは、彼の矜持が許さなかったのだ。何より、負けた気がして悔しい、という気持ちが大半を占めていたせいでもあった。
 先ほどまで、蝉の大合唱に圧迫されてた鼓膜が、静けさを鮮明に拾い上げる。完璧な真夏の空に鎮座した太陽に炙り出されて、早々に外での訓練を引き上げ休憩所に逃げ込んできたけれど、茹であがった脳内が白昼夢を見るように七海の記憶を揺さぶっていた。

「そっか、辛そうな顔してたから具合が悪いのかと思った」

 眉を下げ、安堵した様子の彼女はじっと観察するような眼差しで、目の前のベンチに腰掛けた七海を見つめる。

「……もし、悩み事なら溜め込み過ぎないほうがいい……と、思うよ」

 ──貴女が言うか。
 ささくれた心を不用意に撫でられた七海は、出かかった言葉を押し留めた。
 彼女はグ、と七海の喉仏が下がったことなど気づかずに「灰原に相談してみたらいいと思う」などと、胸の内を掻き乱すようなことを言うものだから、七海は恨めしそうに眉根を寄せて、彼女を見上げるしかなかった。

「なぜ」
「同期だし、同性だし、気心知れてるから話しやすいんじゃない?」
「貴女は聞いてくれないんですか」

 七海の言葉にパチリ、驚きと共に瞬いた彼女に、ざまあみろ≠ニ醜い感情が湧き上がる。全て彼女なりの気遣いだとは理解しているが、こちらばかり感情を乱されてばかりというのも癪に触る。五条に影響を与えられ変わったように、少しぐらい自分の言動で彼女の心を揺さぶってもバチは当たらない筈だと思いながらも、本音をぶつけた七海は戸惑いに揺れた彼女の瞳を見据えた。

「……い、いやいや、人様に助言できるほどできた人間じゃないから」

 人畜無害な顔で「きっと私じゃ七海の力にはなれないよ」と彼女は曖昧に笑う。実に、諦めが常に付き纏う、彼女らしい回答だった。
 七海はため息と共に、募らせたやるせない想いを逃すしかなかった。





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永遠に白線