
「は〜生き返る〜」
プシュッと空気が抜ける音と共に、炭酸飲料を勢いよく呷った灰原。私は一足遅く休憩所にやって来た彼の手の中で、汗をかいた赤いパッケージのアルミ缶を見つめる。周りの水滴を道連れに、一つになって床へ落ちて行く雫を目で追った。
「コーラにしたんだ」
「うん、炭酸でスカッとしたい気分だった」
口元を拭った彼は「いる?」とこちらへ手元の缶を傾ける。私はそれに首を横に振った。
「ううん、実は炭酸苦手なんだよね」
「意外と居るよねそういう人。うちの妹も苦手で微炭酸だったらギリギリ飲める、とか言ってたな」
「あ、分かるかも。封を開けておいて半日くらい経った頃に飲むのがちょうどいいよ」
記憶を呼び起こすように宙を見つめる灰原に同意を示す。
封を開けたばかりに口に含む最初の一口の凶暴さは、灰原のような炭酸飲料を好む人間にはきっと分からないのだと思う。喉の奥で弾ける暴力的な刺激に二口目を飲む気になれず、半日ほど放置していたものを口にした際に、舌の上で転がせるくらいには良い塩梅になっていたことを思い出した私に、灰原は驚いたように目を丸くした。
「わざわざ炭酸抜くの?! 皐月面白いね〜!」
「その珍獣を見つけたみたいな目、やめてよ」
「ごめんごめん」
別にわざわざ試したわけではない事を伝えつつ、灰原の反応が思ったよりツボに入ってしまったせいで笑い声を上げた。
「なんか変わったね」
「え?」
唐突に向けられた灰原の柔らかい眼差しが、優しく私を包み込んだ。彼の言葉に思い当たる節があったため、変化を指摘されてしまったことに、ドキリと心臓が跳ねた。
「スッキリした顔してる」
「そうかな……?」
「引き攣った笑顔じゃなくなった」
「……違和感あった?」
「うん」
悪びれる様子などなく、人好きのする表情で頷く灰原にまで、私が普通≠装っていたことがバレてしまっていた事実に、乾いた笑いを零す。しかし彼は、私の誤魔化しのようなそれに便乗することはせず、至って真剣な面立ちで私を見つめていた。
「だからといって、どうこう言うつもりはなかったけどさ。なんか吹っ切れたみたいで良かったね」
「……うん。ありがと、灰原」
彼の純真な言葉の前では、取り繕ったその場だけ返答は意味を成さない。そんな気がして私は素直に礼を告げた。
シュワシュワと気泡が弾けて消えて行く音に耳を傾ける。絶え間ないそれは、私の胸の内で変化して行く
「あっ! お疲れ様ですー!」
背後に近づく足音に振り返った灰原は、顔を華やがせて声を上げた。夏油さんたちがゾロゾロと休憩所へ足を踏み入れるところに「任務帰りですか?」と灰原は問いかける。
「お疲れ。ああ、珍しく三人で任務でね」
「やっぱり! どこまで行ってきたんですか?」
質問攻めに合う夏油さんの横で、我先にと七海の隣へ腰を下ろした硝子さんが私に手招きをする。
「皐月、お土産いる?」
「いいんですか? ありがとうございます!」
「何にする? いっぱいあるよ」
ドサッと重量感のある音と共に、両手に抱えていた紙袋を七海との間に置いた硝子さんは、適当に中身を取り出しながら「七海も選びな」と私たちに多すぎる選択肢を託す。
「しょっぱいのと甘いの、どっちがいい?」
「じゃあ、甘いのがいいです」
「了解。五条、甘いやつ皐月に渡してやって」
夏油さんと灰原の輪の中にいた五条先輩へ、顎で指示を出す硝子さん。確かに彼女が持っていたお土産の中身は酒の肴になりそうなものばかりで、予想していたようなよくある菓子類ではなかった。
なるほど、しょっぱいもの担当が硝子さんで甘いもの担当が五条先輩か。問うまでもなく、近寄ってくる彼の持つ和菓子屋の袋が雄弁に語っていた。
「包装開けていいですか?」
無言で手渡された箱を受け取り、裏の成分表示に六個入り(個包装)≠ニ書かれているのを確認しながら五条先輩に問いかけると、ぶっきらぼうな答えが返ってくる。
「一箱やる」
「え、こういうのって普通一人一個とかじゃないんですか? 個装してるわけですし」
「そんなにケチケチしてねぇよ」
確かに、彼からすればそう見えるのだろう。面を食いつつも彼の価値観に納得しては「ありがとうございます」と礼を述べる。
見上げると丸いレンズ越しに視線が交わった。何故凝視されているのか分からないまま、私は様子を伺うように表情を緩める。
「お前、何なの」
突如ぶつけられた鋭い感情に、私は曖昧に首を傾げる。答えを要求されているようで、外野の意見は必要としていない、そんな気がした。そもそも、正解が分からないから答えようもない。
苛立ちを隠そうともしない彼は、ガリガリと後頭部を掻いては「何でもねぇ」とそのままポケットに手を突っ込んだまま、背を向けて去って行く。
「ったく、何考えてんだか」
そう漏らした硝子さんの言葉に心中同意しながらも「悪いな」と代わりに謝られてしまえば「いえ」と謙遜するしかない。
「残念でしたね」
ゆらりと立ち上がっては目も合わせようともせず、ただそれだけを呟いた七海が、横を通り過ぎて行く。
「……七海」
引き止めるまでに至らなかった、強くも弱くもないただの音の羅列と化した彼の名前が、離れて行く背中に届かず、薄汚れた床の上へ転がり落ちた。
「なになに? どういうこと?」
「分かんない……」
灰原にそう問われるけど、訳が分からず首を振る。ただ、何か致命的なミスを犯してしまったような、そんな焦りに駆り立てられる。
「厄介なのが二人か」
「いや、そこは三人だろ」
「確かに。そう言われれば否定はできない」
憐れみの視線を向けられながら夏油さんと硝子さんに「私たちじゃどうしようもできないからね」「皐月、頑張れ〜」と肩を叩かれる。
何をどう頑張れば良いのだろうか。何か分かっているのなら、具体的に教えを乞いたいところだが、それも許されないのだろう。今私ができることといえば、彼の背中を追いかけることしかない。
弾かれたように走り出した私は休憩所を飛び出して、まだ見失うほど遠くはない七海の元へ駆け寄った。
「七海、怒ってる?」
「何故怒る必要が?」
「いや……それが分からないから聞いてる」
「別に怒ってませんよ」
「嘘」
珍しく食い下がる私に、少し目を丸めた彼は「それに気づけるくらいなら……」と言いかけて、こめかみを押さえては頭を振った。
「いえ、何でもありません」
対話を試みても、そうやって口を閉ざさせてしまう。私の何がそうさせているのか、それすらも教えてくれない。足りない頭を回しながらどうすれば良いか足元へ視線を落とした。頸をジリジリと日差しが焼いている。その痛みに唇を噛み締めた。
──言葉にすることを諦めたら、本当の理解者は得られない。
ふと、以前硝子さんに言われた言葉が頭をよぎった。今も理解者が欲しいかと聞かれてもよく分からないけれど、私は七海のことを理解したいし、七海が私のことを知りたいと言ってくれたことに誠心誠意応えたいと思っている。私の拙い言葉でどれだけ伝わるか分からないけれど、嘘偽りのない思いを伝えれば少しは理解し合えるだろうか。
「ごめん、私七海が何が言いたいのか分からないし、言葉にするのすら諦めてしまう理由も分からない。……本当にごめん。七海みたいに頭がいい訳じゃないから察して汲み取ることもできなくて。面倒かもしれないけど、私と話すことを……諦めないでくれると、嬉しい、です……」
語尾が尻窄みになって行くのを見送る。迷子になってしまった視線を、なんとなく目についた七海の胸元のボタンに固定する。
「久世さん」
「……苗字」
顔を上げてムッと顔を顰めて指摘する。彼は半ばヤケクソのように捲し立てた。
「ええ、分かってやってます。嫌がらせです」
七海もそんな子供じみたことするのか。意外な一面を見たな、と驚きつつも、よっぽど構い倒してちょっかいをかけない限り他人を邪険にすることのないあの七海が、はっきりとその口で嫌悪を口にした。それが何故だか胸の内によく馴染んだのだ。
「なんで、そんなに嬉しそうなんですか」
「え、あ……そうかな……?」
自分自身でも不思議に思いながら、七海に問われた答えを探す。思い当たることといえば、
「私、前に五条先輩から──他人から、面と向かって嫌いって言われて嬉しかったの。他人と意見が合ったことが嬉しかった」
くっきりとした彼の輪郭を、下へ下へとじわじわ這っていく汗の滴を見つめながら、私は包み隠さず心の中を曝け出す。
「七海が不快になるようなことをしたい訳じゃないの。だけど、本音を言うと他人から嫌われたい、のかも。……その方が安心する」
そこまで言い切った私は、七海の口元が歪むのを視界の端で捉えた。
彼の顔は見れなかった。精一杯向き合おうとしているのに、また七海を困らせてしまう。もう、どうしていいのか分からなかった。
「貴女のそういうところが大嫌いです」
「うん……ごめん」
彼の拒絶へ謝罪するのとは裏腹に、心が凪いでいく。
唇を噛みしてた彼は「本当に、そういうところですよ」と呟いて肩で大きく深呼吸をする。そして、刻まれた眉間の皺を無理やり解いた。
「貴女自身はどうなんですか」
「私自身?」
「他人に嫌われながら、それを好んで受け止めることが理想だなんて、そんな虫の良い話あってたまるか」
冷静を装っているように見えたけれど、吐き捨てた言葉の端には完全に怒気を孕んでいた。
「世の中そう上手く噛み合って廻ってはくれないんですよ。残念ながら皐月さんの願いは叶いません」
先ほどの「残念でしたね」とは、そういう意味だったのだろうか。私の思うようにならない、というのは要するに私のことを好いてくれる人もいる、と七海は言いたいのか。しかし、何故あのタイミングだったのだろう。
小さく息を吸った彼は、顔を歪めて言い放つ。
「貴女は残酷だ」
なんで七海が苦しそうな顔するの。そんな顔されたら、あり得ないはずの可能性まで考えてしまいそうになる。七海のこと、分かりたいと思っていたのに、今はこんなにも分かりたくない。
──七海は、優しいから。その正義感から胸を痛めてくれているんだ。その可能性の方が説得力がある。
ようやく私は、太陽のなすがまま、眩い光に差された彼の力のない瞳を捉えた。
「本当に、ごめん」
それは彼を悩ませてしまったことに対してだけじゃない。途中で彼への理解を投げ出してしまうことへの謝罪だった。自分の都合の良いように考えてしまう意気地なしの私に、彼は何も言ってはくれなかった。
浮き上がっているのではないか、と錯覚してしまうほど明瞭に刻まれた彼の影が、この場から離れて行く。まるでそれが未練であるかのように、視界に染み付いた影の輪郭が目を前をチラついた。私はそれを拭い去るように目頭を押さえ、顔を上げた。日差しに晒されていた頸は、歩き出してもまだ、疼く熱を帯びながら身体の奥に響くように痛んでいた。