
年の瀬が近づくと憂鬱になる。世間は大晦日やら正月やらに浮かれているが、それらを全て家族、親族と過ごさなくてならない私にとっては、ただただ気が重くなる行事でしかなかった。何より普段から世話になっているらしい格上の家へごまを擦り、媚びへつらう新年の挨拶回りは毎年やり過ごすのに一苦労しているのだ。
寮のランドリー内のベンチに座り、乾燥機の中でパラパラと転がり舞っているタオルをぼんやりと眺めるていると、「あ」と小さな声が降ってくる。私は人の気配がする入り口の方へ目を向けた。
「あ、お疲れ様です」
「おー」
一瞬足を止めた五条先輩は気怠げな態度ではあるものの、以前の刺々しさはすっかり抜け落ちていた。
背後を通り過ぎた彼は、洗濯機に衣類を投げ込んで、少々乱暴に蓋をした。その音を背中で聴きながら、私は手元にあった文庫本に目を落とす。
「よくこんな寒いとこで本なんて読めるな」
「あと少しで終わるのでここで待ってた方が早いかなって。でも、確かに寒いですねここ」
個々の部屋と違って、暖房が備え付けられているわけではない。私は末端から冷えるような寒さに本を膝の上に置き、手を擦り合わせた。
ゴウンゴウンと洗濯機が回る音が響く室内で、私と五条先輩の二人きり。今まで重ねてきた時間が嘘のように和やかな空間だった。
五条先輩は一人分の間を空けてベンチに腰掛ける。彼は「今風邪引いたら正月寝込むことになるぞ」と言うので、それはそれで家の厄介事に巻き込まずに済むから良いな、と思いながらも「気をつけます」とだけ返した。
「年末実家帰んの」
「はい。五条先輩も帰省するんですか?」
「まぁな。何かとうるせーし」
「大変そうですね」
「似たようなもんだろどこも」
「……それはどうでしょう、御三家は特別ですから」
御三家だから、という理由だけではなく、彼は全てが特別だ。周りと、私と、一緒なわけがない。
どうしても卑屈になってしまう私に、五条先輩は今まで興味も示さなかった私の家について尋ねた。
「お前の家ってどんな?」
「どんな……」
思考を巡らせると、蘇る記憶たちに心が冷えていく。
五条先輩は隣で長い脚をゆったりとした動作で組み替えた。ただの世間話の一端であるその質問は、強制的なものではなかった。重く考えなくても良い、と思えば、案外簡単に端的な答えが見つかる。
「家を守ることだけに必死な人間の集まりです」
目的のためなら、なりふり構わずに自分たちが正しいと信じてやまない様は、恥に恥を重ねて生きているようで目も当てられなかった。
恥辱に打ちひしがれながらも、それから目を逸らすように視線を移ろわせ「同情の余地もありません」と言えば、彼は一言「へぇ」とだけ呟いて乾いた笑いを零した。決してそれは侮辱がこもったものではなく、この場が陰気な空気に支配されないようにするためのものだった。
「もしお前が親の操り人形だったら、今ごろ夜這いでもかけられて既成事実でも作られてたってか」
「フフ、そうですね。上手くいくとは思えないですけど」
ほとんど同じような事を実家から言われていたせいで、正直笑えない話だったけれど、彼が少々大袈裟に自分の身を守るように肩を抱く仕草がおかしくて、思わず笑みを零した。
「なんつーか、お前如きが俺をどうにかできると思ってるのが謎だよな。どう考えても無理だろ」
「絆すことができると思ってるんですよ、あの人たちは。私にそんな器量はありません」
「思った以上にイカれてんな」
「本当に」
そう首肯した私は、今この場を穏やかな気分でいることが、内心不思議でたまらなかった。まるで彼に嫌悪をぶつけられた時と同じように、胸の内が澄んでいる。これまで、他人と意見が合うことが、こんなにも心地よいものだと知らなかった。ましてやその相手が、あの五条悟≠ネのだ。まさか彼とこんな話を交わす日が来るとは、入学したての彼に怯えきっていた私に教えてあげたいくらいだ。
私は満ち足りた気持ちで、五条先輩の方へ視線を向ける。彼も同じくして私の方を見ては「まー、もっとヤバい奴はヤバいから安心しな」と声をかけた。
慰め、なのだろうか。けれど同情のような湿っぽいものではない。そもそも彼が私を気遣う謂れなどないのだ。
私は彼の瞳の奥にあるはずの真意を探る。しかし、それはより強い意志の宿った彼の眼差しによって阻まれた。
「あの……?」
「俺が生まれなきゃ、お前も生まれてなかったんだもんな」
「……そうですね」
事実でしかない彼の言葉に、目を伏せて頷いた。視界の端に影が伸び、咄嗟に顔を上げる。彼の少し冷たい指先が、私の輪郭に触れた。目の端から頬骨を通り、顎先まで撫で上げる。それはまるで、手探りに私の存在を確かめているようだった。くすぐったさと焦ったさでキュ、と唇を結ぶ。何を考えているか分からない真顔を貫く彼は、一つ瞬きを落とした後、形の良い唇をゆっくりと開いた。
「試しに孕ませてやってもいいけど」
あまりに予想外の台詞に、言葉を失った。彼が何を考えてそう言ったのか、全く見当もつかなかった。
何か言わなければ、と腹の中を探るも、迫り上がってくるのは言葉ではなく、胃の内容物ばかりだった。
家の望むように胎としての役目を果たす。拒絶し続けていたそのもしも≠思い浮かべるだけで、猛烈な吐き気に襲われる。咄嗟に震える指先で口元を押さえつけ、冷や汗が噴き出す身体に鞭を打ち、室内の端に備え付けられていた洗面台へ倒れ込んだ。
背後で焦った彼の声が聞こえた気がしたけれど、そんなことに構っていられる余裕などなかった。体内から押し出そうとする動きは、一度だけでは止まってくれず、何度も何度も自分自身を嬲るように繰り返される。
生理的に流れ出た涙でぼやけた視界の中、蛇口へ手を伸ばす。力の入らない自分の右手に、一回りも二回りも大きい彼の手が重ねられた。
「ごめん」
彼の力によって捻られた蛇口から、水が流れ出す。その音と共に、彼の謝罪も排水溝の底へと流れていった。
背後から腹のあたりに腕を回され、彼に身体を支えられた状態で、全てが落ち着くのをひたすら耐えた。耳の裏に顔を埋めた彼が「本当に、ごめん」と呟くのを聞きながら、何度か咳き込んで、ようやくまともに酸素を取り込む。
「いいんです、いいんですよ」
ハハ、とどこか皮肉めいた笑い声が零れ落ちた。口元を清め、抱え込んでいた洗面台から上体を起こす。
「先輩は悪くない、ただの嫌がらせでしょう。……それでいいんです。私も先輩に嫌われたいから」
目の前の鏡越しに目が合った。相当に酷い顔をした私に負けず劣らず酷い表情を貼り付けた彼は、顔面蒼白で唇をわななかせている。
「私は、私を嫌いな五条先輩が好きです」
だから、謝らないで、とぎこちない表情筋を動かし笑いかける。
ズルリ、と衣擦れの音を立て、私の身体を支えていた彼の腕が脱力していった。